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夏の風、のち秋。

作者: 茶々

少し長めですが、最後までよろしくお願いします。

じりじりと肌を焼く光。


目深にかぶった帽子の下で

俺はうんざりと空を見上げた。


腹が立つほどに青い。


そして蹴散らしたくなるような立体的な雲。


強すぎる光が目に染みて

俺は視線を落とす。


このまま

どこか遠くへ行ってしまいたい。


漠然とそう思った。


当てなどない。


ただ

ここから離れたい。


それだけだ。



けれどそれは叶わぬ願い。


自分が一番わかっている。


俺は


ここを


離れられない…――――。




静かな風に乗って届く旋律。

柔らかな音の正体はハーモニカの音色。


時に力強く。

時に安らかに。

それは、確かな響きをもって空気を震わせていた。

けれど、どこか悲しげな雰囲気を含んでいる。


小高い丘の上。

一本だけ茂る、その木の下。

一人の青年が幹に背を預けて、銀色の箱をくわえていた。


そしてそこから響く、美しい音色。


「…あっちぃ…。」


不意に演奏が止んで、ため息のような声が漏れる。

青年は静かに自分の頭に手をやり、かぶっていた帽子を取り去った。


しばらく切っていないのだろうか。

半端な長さの黒髪が好き勝手な方向に跳ねている。

青いジーンズにシャツというラフな出で立ち。


太いフレームの眼鏡の奥で、ほんの少し茶色を含んだ瞳が閉じられた。


ひょろりと長い両足を伸ばして、彼は瞑想するかのように動きを止める。


時折吹くひんやりとした風が、彼を優しく撫でていく。


「気休めくらいにはなるな…。」


誰にともなく呟き、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。


青年の眼下には、広がる町並みとその先の海。

すべてが真夏の太陽を受けて輝き、上空の入道雲がさらに夏の印象を強くする。


「…くだらない。」


冷たさを帯びた言葉が吐き出された。

彼の瞳は感情を含まず、静かなを宿すのみ。


「…。」


彼は再び目を瞑った。

彼の意識は、深く深く沈んでいく。


穏やかな風に包まれて、青年は眠りに落ちていった。




「きゃあぁぁぁっ!!」


「…?!」


青年の目を覚ましたのは悲鳴。

しかもはるか上から響いてくる。

自分がいるのは木の下。

見上げてみるも誰もいない。

その声はもっともっと上から聞こえるのだ。


声は次第に大きさを増し、距離が縮まる。


「…まさか…。」


人が落ちてくる?

そんな考えが頭をよぎる。


しかし、上空を飛ぶ飛行機もヘリコプターも見えはしない。

第一、こんなところでスカイダイビングが許されているわけがない。


グライダーや気球も然り。


空耳だと思いたいのは山々だが、確かに悲鳴は聞こえ続けている。

青年は声の主を探した。

もちろん上を向いて。


「うおりゃっ!!」


続いて聞こえたのは、えらく男前な掛け声。

そして明らかに不自然な影が目の前に落ちる。


棒状の影の真ん中辺りに、こんもりと丸い何か。

よく見れば、その棒状の影は箒のように見える。

そしてその影は、ふよふよと草の上を漂っている。


「危ないじゃねぇかよ!!大体お前、不注意すぎなんだよ!!」


その影の上辺りから声が聞こえてくる。

若干低めの、少年のような声。

とにかく、誰かに対して怒っているようだ。


「うるさいな!!いいでしょ、落ちなかったんだから!!」


言い返すのは悲鳴や掛け声と同じ声。

こちらもそこそこ感情が高ぶっている様子。


「…?」


青年の方は何が何だかまるで分からない。

ふよふよ動く謎の影に、姿の見えない口喧嘩。

おそるおそる日の差している方に顔を覗かせる。


「なっ…!!」


青年は固まった。

二の句がつなげない。

そこにあるのは、にわかには信じがたい光景。


女の子が浮いている。

箒に乗って。


おまけに肩に乗った鳥と元気に喧嘩している。


青年の脳裏に、幼い頃読んだ本の挿絵がよぎる。


「魔女…?」


その一言に箒に乗った少女が反応した。

完全に青年と目が合い、言葉を失い、みるみる血の気が引いていく。


「落っこちただけじゃなくて見られてるし…。朱鳥、しっかりしろよ!!」


肩に止まった鳥が先に口をきいた。

青年の見る限り、これは九官鳥。


ただ、こんなに流暢にしゃべるものだったろうか。

もっとこう、カタコトで、教えられた言葉を反芻するだけではなかったか。

こいつは明らかに自分の意思でしゃべっている。

そもそも、こんなに奇麗な声だったか。

もっとしわがれた感じだった気がする。


「こらっ!朱鳥ってば!!」


九官鳥の一言で、少女が言葉を取り戻した。

顔色もほんの少し戻っている。


「あっ…えーと…はじめまして?」


初めて少女の口を突いて出たのはそんな台詞。


「驚き…ましたよね?」


なんとも申し訳なさそうな、情けない表情。

箒に乗っかって空を飛んでいるという非常識な要素を除けば、割と普通の人間なのかもしれない。

…が、それは除いてはいけない要素だろう。


「それは…まあ…。」


「あらら。割と冷静だねぇ、アンタ。」


呆然と言葉を返す青年に、九官鳥が感心したような調子で言う。


「普通は悲鳴上げて逃げるのに。」


「…別に悪意があるようには見えないし。」


その言葉に九官鳥が一人(?)うなずいて、少女に声を掛けた。


「こいつは話が分かるみたいだ。朱鳥、降りていいぞ。」


「え?でも…。」


「いいから降りろ!」


どうやらその少女の名は『朱鳥』というらしい。

3mほど上にいた少女が少しずつ高度を下げ、草の上に両足をつく。

近くで見る限り、どこにでもいそうな普通の女の子だ。

風にあおられたらしい茶髪はぼさぼさで、まとめる程度に両肩にくくられている。


そして着ている服はセーラー服。

高校生だろうか。


乗っていた箒を地面に立てるようにして持ち変えると、肩にいた九官鳥が箒の柄のてっぺんに移動する。


「うわっ!やっぱヒビ入ってんじゃねぇかよ、この箒!どうすんだよ!これじゃ帰れないだろ!!」


箒の上で九官鳥が翼をばたばたいわせて暴れ始めた。

しかし、少女はそれをまったく無視し、青年のほうに体を向けたまま固まっている。


「こら朱鳥!聞いてんのか?!」


「あの…相方が呼んでるよ?」


見かねた青年が朱鳥の顔を覗きこむようにして言った。

びくりと肩を震わせ、おずおずといった様子で顔を上げる。

その様子はまるで何かにおびえているような…。


「しゃんとしろ朱鳥!見られちまったもんはしょうがない!」


九官鳥が明るい調子で言う。

けれど、朱鳥の表情は一向に明るくならない。


「えーと…俺、まずいもの見た?」


たまらなくなって青年が尋ねた。

九官鳥は首を横に振って、からからと答える。


「いや?ただちょっとこいつがね…。」


困ったように片翼をあげて、朱鳥を示してみせる。

いまだ変わらず、彼女は何かにおびえているかのように動きを止めている。


「なんつーか…トラウマっての?」


「…?」


訳がわからないという表情が分かったのか、九官鳥が口を開いた。


「こいつ、まあ見てのとおり魔女なんだけどさ。そらもうへっぽこで…。たいしたことは全然出来ねぇの。けど、飛ぶのはすきなんだよな。んで、前に知り合いに飛んでるトコ見られてものすごい気味悪がられて…。化け物だなんだって罵詈雑言…。」


詳しく聞けば、朱鳥のその力は家系らしく本人の意思とは関係ないのだという。

ついでに散々罵られた際、感情の高ぶりに任せてガラスを何枚か粉々にしてしまったらしい。


そこまで言われれば、青年にも分かる。

彼女がおびえているのは、『怖がられること』


「別に気味悪くなんかないけど?」


しれっとした口調で青年が言う。


「え…。」


「別にいいじゃん、空飛べて。信じがたいのは事実だけど、目の前で飛ばれちゃね…。」


笑顔すら浮かべて青年が続ける。

朱鳥の顔からおびえの色が消えていく。


「おおっ、アンタ器がでっかいね!」


九官鳥が心底感心した様子で口を挟んだ。


「ほんとに怖くないの?私のこと…。」


「全然。普通の女の子じゃん。」


眼鏡の奥で青年が笑う。

その瞳には、おそれに類する感情など到底感じられなかった。






「何だよ?今日は箒なしか?」


肩の上で九官鳥が訊く。

そしてその鳥を乗せたまま、一人の少女が歩いていく。

ジーンズにTシャツといささかボーイッシュな格好だ。


充分に日が高い、8月の午後。

出来るだけ木陰を選んで歩きながら、少女は言葉を返す。


「クロ。ここは人が少ないからいいけど、もう少し経ったら黙ってよね。」


そして、クロと呼ばれた九官鳥はすねたような口調で切り返した。


「何で?」


「あんたはペラペラしゃべりすぎなの!」


確かに鳥にしては滑らかに喋っている。

少しばかり異様なほどに。


「でもさぁ朱鳥。あいつの言ったこと信じるの?…確かにいい奴だったけど。」


どこか不満げな声色。

あさっての方向を向きながら、クロがつぶやいた。


「信じるよ。…ていうか、信じたい。」


朱鳥が半ば自分に言い聞かせるように言う。


数日前に出会った青年。

自分が箒に乗って飛んでいても、怖がらなかった人間。



別れるとき、彼はある病院へと消えていった。


『俺、病気なんだよね…。』


彼は笑って言った。

お世辞にも、自然とはいえない笑顔だった。


彼の落ち着きぶりは、その入院生活の賜物だったのだろうか。

それでも朱鳥はうれしかったのだ。


親友に正体がばれ、化け物と罵られ、その学校を追われた朱鳥にとっては。


白く巨大な箱。


街中から離れた山の裾にそれはあった。

緑色の山を背景に、その建物は異様に輝いて見えた。



西浦詩希。


それが彼の名前だった。

苗字はともかく、名前は珍しいので受付で訊くとすぐに分かった。


教えられた通り、エレベータに乗り、廊下を歩いていく。

朱鳥はこの病院という空間がすきではなかった。


どこにいても同じような景色。

やたらと目に付く鮮やかなポスター。

薬のにおい。

いるだけで足が重くなるような、そんな感覚。


さすがに九官鳥を連れて中に入っていくわけにもいかないので、クロにはかばんの中に入ってもらっている。


503号室。


教えられた部屋の前。

入り口にかけてあるプレートに彼の名前を探す。


6人部屋で今いるのは5人。

詩希の名前は、向かって右の窓側に位置していた。


顔だけ中に差し入れて覗いてみる。

目指すベッドに見覚えのある、黒色のぼさぼさ頭が見えた。

昨日と異なり、上下青色のパジャマに身を包んでいる。

窓の外を見ているらしい。

ベッドの上に足を伸ばして座り、その足の上に銀色の何かを握った手を置いている。


ハーモニカ?


その単語が朱鳥の頭をよぎった。


そういえば、詩希に会う直前なにやら奇麗な音楽が聞こえていた。

それに気をとられて箒の扱いがおろそかになり、地面に落ちかけたのだから。


彼はそれをくわえるでもなく、ただ掌におさめて身じろぎもしない。

寝ているのかと、思ってしまうほどに。


「やいこら朱鳥!お前いつまでオレをこんなトコに押し込めとくつもりだ!!」


息継ぎをまったく挟まない抗議。

かばんの中からの声に、朱鳥ははっと我に返った。

慌ててかばんの開いている部分を押さえる。

クロが苦しくないようにとの配慮でトートバッグにしたのだが、どうやらそれが仇になったようだ。


「朱鳥?」


病室の中からの声。

詩希ともろに目が合った。


来るとは伝えていなかった。

単に来たかったから来ただけの話。


どうしよう。

迷惑かも知れない。


「そんなとこで何してんの…。こっち来なよ。」


ベッドの上に座ったまま、詩希が手招きをした。

なんともばつが悪いといった表情で朱鳥は部屋に足を踏み入れる。


「なにその顔…何か嫌なことでもあった?」


病院に来て、病人に心配される。

思い切り立場が逆転してしまっていた。


「…。」


黙って首を横に振る朱鳥。


「…急に来て…迷惑じゃなかった?」


小さな、本当につぶやくような声。

目線は、ベッド上のシーツに落ちている。


「…何で?」


「や、だって別に友達ってわけでもないし…。むしろ、他人…だし…。」


しどろもどろに続ける朱鳥の頭にそっと手を持っていく。


「迷惑なんかじゃないよ。他人でもないし…。」


「じゃあ…何?」


うつむいていた顔を、静かに持ち上げる。


「秘密を握られている者と、握ってる者?今日は箒じゃないんだ?」


「ぅえ?!」


いたずらっぽく言った詩希に反し、朱鳥は妙な声をあげて病室内を見回した。

誰かに聞かれることを恐れていたのだが、他の患者のほとんどは散歩にでも出ているらしく病室はがらんとしている。

唯一残っている筋向いの老人は深く寝入っているようで、まったく起きる様子がない。


「…大丈夫だって。誰にも聞かれてないよ。」


笑いをこらえているような様子の詩希に少々むっとしつつも、朱鳥は見舞いの品を取り出そうとトートバックを開けた。


「あ!」


同時に黒い影が飛び出す。

当然それは狭いところに閉じ込められて、いたくご立腹のクロなのだが。


彼は開け放した窓の縁に止まって、今までの不満をぶちまけ始めた。

配慮というものはまったくない。

さしずめ、文句しか吐かない壊れたスピーカーといったところか。


「クロ!分かった!分かったから静かにして!!」


精一杯声を抑えて何度も頼み込み、ようやくその暴走は収まった。


「朱鳥。お前、リンゴ入ってないぞ?」


「へ?」


唐突なクロの言葉に、朱鳥は間抜けな声を返した。

慌ててバッグの中を探ってみるものの、お見舞いに買ってきたはずのりんごが見当たらない。

買ったあとに一度家に持っていったから、忘れてきたのだろう。


「…私は…何しに来たんだ…。」


心の声が口をついて出た。

病院に来て慰められて、おまけに見舞いの品まで忘れてきて…。

本当に何をしに来たんだか。


「別にいいよ。お見舞いなんか…。とりあえず座ったら?」


そう言って、ベッド脇にある小さな丸い椅子を指差す。


「…。」


「…何か、朱鳥は楽だな。」


浮かない顔で椅子に腰掛ける朱鳥を見ながら、詩希がつぶやくように言った。


「なにそれ…。」


眉をひそめつつ、言葉の続きを待つ。


「いやな意味じゃなくて『俺が楽』ってこと。」


「…?」


「俺の病気って人生悲観するほどのものでもないんだよ。何もしなけりゃ悪化するけど、手術すれば8割方治る。でも、入院は必要ってことで学校は休学。」


聞けば詩希は18で、学校に通っていれば高校3年生だという。

その落ち着いた雰囲気から、もう少し上だと思っていた朱鳥は軽く驚いた。

自分と二つしか変わらないとは…。


「ここに来たとたんに世界が遠くなってさ。見舞いに来るやつは思いっきり同情を顔に貼り付けてるし、最近は誰も来ないし。」


何か被害妄想じみてるよな。


詩希はそう言った。

けれど朱鳥はそうは思わなかった。


周りの人が自分を見る目を変える。

畏怖と同情では違うかもしれないが、それは本人にはかなりの影響を与えることになる。

それは朱鳥も身をもって知っていた。


自分は何も変わっていないのに。

変わりたくなんてないのに。

どうしてみんな、そんな目で見るの。


「けど、朱鳥はそんなのないから。…つうか、自分のことに精一杯で、俺にかまってる余裕がない感じ?」


いまいち素直に喜べない。

思わずトゲトゲとした口調で言い返す。


「悪かったですね!へっぽこで!」


「朱鳥の場合、へっぽこっていうより元々の性格がどっか抜けてるんだよ。」


そんなことを冷静に分析されても…。

無言で詩希をにらんでやる。


「朱鳥。事実だ、あきらめろ。」


落ち着いた声色で、クロまでもが同じことを口にした。

さすがに朱鳥も声をあげる。


「うっさい!すき勝手なこと言うな!!何なんだよ、二人して!私をいじめて楽しいか?!」


「たのしい。」


即答したのはクロの方。

朱鳥のこめかみに青筋が浮く。


「クロ。から揚げと焼き鳥、どっちがいい?」


「てめぇオレを食う気かっ?!」


「お望みなら食ってやる。どーせおいしくないでしょうけど?」


突如始まった漫才に、詩希は間抜けに口をぽかんと開けたまま事の成り行きを見守っていた。


よく言えば、飾らない。

悪く言えば、少々無神経。

けれど詩希はこの雰囲気が気に入り始めていた。


病気だと分かるや否や、自分を腫れ物のように扱う周りの人間。

ともに音楽を奏でていた仲間たちまでも、すぐさま代わりの人間を探すことに懸命になった。


朱鳥とクロは少々(?)普通ではないが、遠慮というものがない。

看護師には怒られてしまうが、正直言って楽しい。


今まで、暇さえあれば独りになりたいと思っていた。

周りに人間なんかいなくても平気だと。

世の中など、すべてがくだらないものだと思えた。


けれど、漫才を続ける少女と九官鳥を見ていて、こんなのもありなのだろうと思えてくる。

呑気にそんなことを考えていたのもつかの間、漫才がかなりヒートアップしてきた。

このままでは、騒ぎを聞きつけた看護師がやってきてしまう。


朱鳥はともかく、クロのことは説明しようがない。

ここまで喋る九官鳥なんて。


「悪かった!俺の言い方が悪かった!…ていうか、ちょっと静かにしてくれ…。」


詩希が間に入ると、すぐさま朱鳥のじっとりとした視線が張り付いてくる。

軽く肩をすくめながら、愛想笑いをつくって手の中のハーモニカを目線の高さに持ってきた。


「これで機嫌直して?」


そう言ってから口元に持っていく。

聞こえ始めたのは朱鳥の知らない曲。


前にも一度、詩希のハーモニカは聞いたことがあるがそれとは違う曲。


前よりもずっとアップテンポで、楽しげな印象を受ける。

吹いている本人にも、わずかながら微笑が浮かんでいる。


「なかなかやるじゃねぇか…。」


素直にそうもらしたクロを無言の圧力で黙らせる。


ただ、耳をすませていたかった。

涼やかな、彼が奏でるその音色に。


出来ることならずっと。



「機嫌、直った?」


気がつくと、詩希が朱鳥の顔を見つめて微笑んでいた。

あわててそれに答えて頷く。


「何だか私、何にもしてないよね…。お見舞いに来て、逆に気分よくしてもらっちゃった…。」


「そんなことないよ。お世辞とかじゃなくて、来てくれて嬉しかった。」


「…そうは言ってもね…。よし、じゃあひとつだけいいもの見せてあげる。」


意味深ににやりと笑い、朱鳥は人がいないことを確認するようにあたりを見回した。

幸い、老人はまだ眠ったまま。


長いこと使われていない花瓶。


そこに朱鳥の目線が移動する。


「じゃ、いくよ!」


短く言って、花瓶を指差す。

次の瞬間小さな破裂音が響いた。

クラッカーの弾けるような、しかしそれよりはもっと小さな音。


「おお!珍しいな、ちゃんと出来てるじゃねぇか!!」


クロの感嘆の声。

一方詩希は、驚愕に目を見開いた。


何もなかった花瓶の中。

それが今ではマーガレットとカスミソウがいっぱいに詰まっている。


「ちゃんと出来た。」


心底ほっとしたような朱鳥の声。


しかしその安心はほんの数秒で崩れ落ちる。


思いついたようにクロが翼を動かして花瓶の周りを飛び始めた。

そして言った。


「朱鳥。水入ってない。」


「…え?」


あわてて立ち上がって中を覗き込む。

みずみずしい花に反して、ものの見事に花瓶はからから。


「うっそぉ!うまくいったと思ったのに!!」


「最後の最後でツメが甘かったな…。」


朱鳥の肩に止まりなおし、明らかに馬鹿にした口調でクロがささやく。


「…ていうか、水入れないとしおれるよ?」


詩希のもっともな指摘に、すぐさま朱鳥が花瓶を抱えた。


「水、入れてくる!」


九官鳥を肩に乗せたまま、少女は風のように病室から去っていく。


「へっぽこ…ね…。」


一人でつぶやいて、くすくすと笑い始める。

きっと自分を驚かせたかったのだろう。

けれど、ものの見事に失敗している。

見ていてまったく飽きない。


「兄ちゃん、あんたもなかなかやるねェ…。」


「…起きてたんですか?」


寝ていたと思っていた老人が、こちらに背を向けたまま口を利いたのだ。

驚きながらも言葉を返す。


…が、同時にとんでもないことに気がついた。


「じいさん…今の…?」


「最近、幻覚が見えるようになってなぁ…。いやぁ、年取るっていやなもんだよ…。」


こちらを向いた老人の顔が、いたずらを思いついた子供のように笑っていた。

そのまま、ゆっくりと言葉を続ける。


「まぁ、幻覚…だからな。もうしばらく経てば忘れちまうだろうよ…。」


詩希は老人に苦笑を返しながら小さく礼を述べた。


「礼には及ばんさ。わしは幻覚を見ただけだ。可愛らしい魔法使いのな?」


「…そうですね。夢じゃないと嬉しいんですけど…。」


ほんの少し、詩希の言葉が悲しさを帯びる。


「そんな心配しなさんな。あの娘は、そんな娘じゃないよ。」


心の中を見透かすような言動に、彼は再び苦笑を浮かべた。


「あなた、さっき幻覚だって言ったじゃないですか…。」


「そうだったか?最近物忘れがひどくてなぁ…。」


白々しくそう言って、老人は再び後ろを向いてしまう。




遠くで廊下を走る音が聞こえる。

それに注意する看護師の声。

先程まで、ここで聞いていた少女の声がそれに謝っている。

鳥がどうのという声も聞こえてくる。


その現実をかみ締めながら、青年は窓の外に視線を移す。


夏の雲はもう見えない。

形のしっかりした雲はもう、どこかに消えてしまっている。

少し前よりも穏やかになった日の光が、町並みとその先の海を照らしている。


「来年は、行けるかな…。」


眼鏡をはずし、音を立ててテーブルの上に置く。

そのままベッドに倒れこんでゆっくりと目を閉じる。


静かに風が流れる中、青年は浅い眠りに落ちていった。




くだらないと思った

何もかも。


こんなところにいたくはないと

本気でそう思った。


どこかに行ってしまいたいと

思っていた。


空から魔法使いが降ってくるまでは。


へっぽこで

何処か抜けてて

でも憎めない可愛らしい魔法使い。


離れなくてもいいかなと

そう思い始めた。


いつか望まなくても

離れなければ行けないときが来るだろう。


それまではここにしがみ付いてやろう。


離れられなくても

つらいことなんかない。


ありがとう。

俺の上に落ちてきてくれて。


こんな俺に

綺麗な心を教えてくれて…――――。






終わり




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― 新着の感想 ―
[一言] 冷めている主人公が1人の少女によって変わっていく姿がとても良かったです。ただ、最後のシーンが主人公の1人語りで終わってしまったのが残念でした(>_<)出来れば、もう一度少女を出してほしかった…
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