小鹿1
部屋に入ると、黙したままの容疑者が浅く椅子に座りこみ、忙しなく視線をきょろり、きょろり、動かしていた。机に乗ったライトのスイッチを押すでもなくいじりながら、担当刑事が苛々と声をかける。昨日の夜何をやっていたのか、執拗に問う声に容疑者は黙したまま。
刑事が小鹿の存在に気が付いたのは、視線をあちらこちらへ向ける容疑者と小鹿の視線がぱちりと合ってしまったからだった。一瞬の視線の交わり、から生まれた容疑者の戸惑いを刑事は見逃さず、それでこちらの存在に気が付く。小鹿からしてみれば、呼ばれてきたのはこちらの方だから、「気が付く」ということ自体に多少腹が立っていた。
「小鹿か。やるならさっさとやってくれ。さっきからこんな調子なんだ」
刑事が言いながら席を立つ。古いパイプ椅子はぎしぎしと音を立てて、狭い室内でよく響いた。
小鹿が一歩、近づくと、容疑者は窺うようにこちらを見上げる。小鹿の身長が平均よりも随分高いというのもあるだろう。細身だが、小鹿が立つと圧迫感がある。見下ろしたままの小鹿が何も言わないので、容疑者の男は「なんだよ」と震える声で問うた。
「いや、ちょっと、気持ち悪かったら悪いな」
別段、断りを入れる必要もないのだけれど。何となく小鹿はそう声をかけて、左手を覆っていた手袋をとる。薄い黒の手袋はそのままジャケットのポケットに突っ込んで、今にも逃げ出しそうな男の頭をがしりと掴んだ。
今は昼だから、左掌は光っていない。室内の明かりがあるというのも幸いだろう。それでも、ぼんやりと何か瞬いているような雰囲気はあって、刑事の視線が小鹿の左手に集まったのを感じた。どうにも、この瞬間は慣れない。
小鹿の掌が男の頭を掴んでいたのは、きっかり三分の間だった。ストップウォッチやタイマーを使わずとも、慣れてしまった行為に小鹿の体内時計は正確である。
何も言われず頭を掴まれ続ける、という奇妙な体験をした容疑者が、目を白黒させながら小鹿を見上げる中、小鹿はそのまま踵を返す。外した手袋を直して、担当刑事に軽く会釈をした。
「な、何なんだよお前っ!」
その様子は、確かに一般人――この場合小鹿の事を知らない、という意味だが――からしてみれば奇妙極まりなかっただろう。もっと言えば不気味だ。扉を開けて出る瞬間、容疑者の声が背中に当たる。小鹿は軽く振り向いて、何か言おうと口を開いて、そのまま。
何かを答えるよりも早く、刑事が男に向き直り「あいつのことは気にせんでいいから、お前はさっさと真実を吐け」と、すっかり取調べモードに戻っている。小鹿の視線は再び男を捉えたが、それきり。
部屋を出る。ぐう、と盛大に腹の音が鳴って、ぐらりと体が揺れるのを感じた。これさえなければ便利なんだけど、とは口中で呟いて、待機していた先輩刑事からリンゴを一つ受け取った。
小鹿、という男は何とも不器用な男だった。
基本能力は高く、何でもそつなくこなす反面、自己表現能力に著しく欠け、端的に言えばコミュニケーション能力がない。
思考速度が速いのだろう、会話をしていると突然脈略のない話をしてしまうことがある。が、それは小鹿の中では筋の通った先回りの結論でしかなく、戸惑いを見せる相手に小鹿が戸惑って会話が止まってしまう、という現象がよく見られた。小鹿自身、そうした欠点を認めているためかあまり人と話をしたがらず、それが余計にコミュニケーション能力の低さに拍車をかけている。
とはいえ、親しくなろうと思って会話をすると奇妙な会話になるだけで、何か頼まれれば渋々だが引き受けるし、最後まできっちりやるところを見るに根はやさしくまじめな男なのだろう。慣れた人間には随分荒い口調を使うが。
そうした面があって、小鹿は光犯課の中でも他課の協力要請を受けることが多かった。
「小鹿、それ、経費で落ちてるってホント?」
食堂の窓際一番奥のテーブル。厨房に一番近い席は、大体小鹿の指定席だった。密やかに「小鹿ゾーン」なんて呼ばれていることを本人は知らないが、取調べ後に小鹿がその席を陣取って、大量の食べ物と格闘・ひたすらに食べていく様は署内で有名である。
今日もまた、取調べ室から出たその足で「小鹿ゾーン」を陣取っている。隣に座る有馬は、いつまでたっても見慣れぬ光景をげんなりとした様子で眺めていた。
「そーですよ。俺、有馬さんと違って代償でかいんで」
「大小で言えば俺の方が重要かつ貴重だろうよ……まあそりゃそうだよなあ、捜査費用みたいなもんだしな」
小鹿が他課の協力要請を受けるとき、光犯課は必ず付き添いの刑事を一人つけるようにしていた。小鹿が一番新人だからというのもあるが、「もしも」の時の介抱要員である。有馬は比較的小鹿とよく話をするため、付き添いでやってくることが多く、今日もまた、捜査一課からの要請を受けた小鹿の付き添いをしていた。
「ま、有馬さんの能力は使いすぎたら廃人まっしぐらですしね。俺は飯さえ食えば記憶覗けて超ラッキー、な使い勝手抜群な能力なんで、引っ張りだこになってもしょうがないですね」
「……お前その言い方なんか棘あるな」
「棘含めて言いましたもん」
有馬のジト目を余所に、小鹿は何杯目かになるカツカレーを平らげた。目の前には空になった皿が幾つも積み上がっている。厨房で忙しなく動く調理師の女性たちは、誰に言われるでもなく適当なメニューを作っては小鹿の机の上に追加していった。食堂に入るなり、「今日は九十キロ」と小鹿が告げたので、彼女たちはきっかり九十キロ分の食事を作っているのである。九十キロ、とは、カロリーではなく量の話だ。小鹿によって大量の食糧が消費されるため、厨房の大型冷蔵庫には他地域の食堂より数倍多い食材が詰め込まれている。
小鹿は光化症患者だ。光化症、とは、七年前の隕石墜落の際、隕石から放たれた強力な光線を浴びたことを原因として、身体の一部が暗闇で光る症状の事をいう。隕石墜落後、様々な研究がなされているが詳細な原因などは不明で、発症する部位も様々。同じ場所で光線を浴びた人間でも、発症するか否かはランダムのようで統一性がない。
小鹿の光化症は左掌に現れる。つまり、例えば夜道を歩いていると、左掌だけ異様にぴかぴか光ってしまうのだ。光るだけならまだいいが、小鹿のそれはある特殊な能力を持っていた。
「ま、人の記憶覗くのなんて趣味じゃ絶対やらないけど」
カツカレーを空にしたのと同じタイミングでチャーハンが机に出された。忙しなくスプーンを動かしながら、その細身の一体どこへ吸収されるのか、不思議なほどの量を摂取していく。有馬が苦い顔をして水を飲んだ。小鹿の食事の匂いは周囲一帯に広がるため、近くに寄るだけで満腹感が襲う。
「気持ちはわからんでもないが」
あんまり文句を言うな、と有馬は言って、こつんと小鹿の頭を小突いた。小鹿は返事をせぬままチャーハンに向き直る。
小鹿の左手は記憶を読んだ。脳を持つ生命体に限り、脳に近い部位に左手で直接触れると、触れた分だけ多くの記憶を遡り、読み取ることができた。その代償として大量の食事を摂取する必要があったけれど。
「記憶の整理は大量のエネルギーが必要なんですよ、っと」
今日は小鹿を気に入っている年配の主婦が厨房にいるようだ。デザートらしい、生クリームが山盛り乗った大きなコーヒーゼリーを前に、小鹿は「頂きます」とようやく律儀に挨拶をした。記憶を読み取った後の食事で小鹿は挨拶をしない。から、恐らく読み取った分の食事は完了したのだろう。
「……お前、そのゼリーは自腹で払えよ」
「ええ? いいじゃないですかたまには。食堂のお姉さん方のご厚意ですし」
まだ食うのか、という呆れ半分、味を占めて日常の食事まで経費計上されてはかなわない、と有馬が忠告すると、小鹿の頬がふくりと膨れる。厨房から「そうよぉ、有馬さん! あたしたちのサービスなんだから気にしないで!」と、小鹿曰くお姉さん方の援護が飛ぶ。
小鹿は幸せそうにコーヒーゼリーをつついた。有馬はため息を吐いて、まあ、サービスなら良いけどよ、とうなだれた。




