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ブラック企業を辞めて隣の県に逃げた俺、なぜか隣室の眼鏡美人(※正体は推しの引退アイドル)に「ご飯を食べさせて」と捕まる。  作者: 英 慈尊


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『カノンたんの健康を心から祈って焼き上げたツナとミックスベジタブルのホットケーキ』

「ささ、どうかこちらへおいで下さい」


 ドラマか何かで見た執事キャラでも、真似ているのだろうか?

 白昼、日本のアパートという状況下においては百パーセント浮きまくっているうやうやしい仕草で、二海が手を差し出してくる。


「えっと、その……」


 それに対し、花音がためらったのは、元とはいえアイドルだった女が独身男性の部屋に招かれるのは、どうかと思ったのが一つ。

 そしてもう一つは、目の前にいる二海の部屋がどんな風であったかを、思い出したからだ。


 あれは――痛部屋。

 アイドル時代のカノン(自分)で埋め尽くされた限界オタクの部屋であった。

 もし、テレビ局のディレクターが『ドルヲタの痛部屋を取材しようぜ!』と言い出したとしても、あれほどパーフェクトでコッテコテな痛部屋はそうそう見つからないだろう。


 ああいった部屋にご招待される本人の気持ちが、余人に分かるだろうか?


 ――恐怖。


 ただその二文字だ。

 そりゃあ、人気商売だったのだし、プライドを持ってやっていた仕事なのだから、応援してもらえるのは嬉しい。

 が、何事にも限度というものがあり……。

 目の前にいるタキシード姿の青年は、その限度を最初からクライマックスで突き抜けたヤベーイ奴なのである。


 ゆえに、この場はお断りする一択……。


 ――くう。


「お、お邪魔しましゅ」


 お断りできなかった。

 無意識のうちに二海の手を取ってしまっていた。

 スッカラカンの胃袋は、脳味噌以上に花音の行動を支配していたのであった。


「さ、どうぞどうぞ。

 汚い部屋ですが」


「あ、あはは……」


 ――汚い部屋。


 そのワードに、腐海の住民である花音はピクリと震えつつ、自分の体で背後(腐海)を隠しながらサンダル履きとなる。

 そして、花音の部屋からは徒歩二秒である二海の部屋へ、やはりうやうやしくドアを開けられる形で招かれた。


「……はえ?」


 またあの痛部屋に入るのかと、覚悟していた花音を迎えたのは……しかし、二海の謙虚な物言いとは反対の極めて清潔な部屋。

 玄関兼キッチンから、開けられた襖の向こう側を見てみれば、昭和の生き残りめいた雰囲気の畳部屋が広がっている。


 調度品は、ちゃぶ台にタンス、開閉式の仏壇とテレビのみ。

 落ち着く和風の部屋を連想してと言われて、日本人の何割かは思い浮かべそうな情景であった。


「これは……」


 困惑しながら室内に踏み入り、キョロキョロと見回す。

 一面に貼られていたカノン(自分)のポスターなどは完全に消え去って、元のザラリとした砂壁が見えるばかりだ。


「グッズは撤去しました。

 一番大事なのは、カノンたんに落ち着いてもらうことですから」


 そう言いながら、背後から二海も部屋に入ってくる。


 ――チーン!


 同時に、キッチンから電子レンジの音。


「ささ、まずはおくつろぎください。

 こちらは、目覚めのホットミルクです」


「あ、ありがとうございましゅ……」


 ちゃぶ台の前に座ることを促しながら供されたのは、マグカップに注がれたホットミルクであった。


「それでは、今、朝食のご用意をしますので……」


 ピュウッという音がしそうな勢いで、キッチンに引っ込む二海。

 それで、花音は畳部屋に一人となる。


(なんか……)


 畳の上に内股で座り、マグカップの温かさを手のひらで味わいながら思うことは、ただ一つ。


(すごく……落ち着く……)


 このことだ。

 靴下越しに感じられる畳の感触と、誰かが自分のために用意してくれた温かな飲み物が、花音を心から落ち着かせてくれた。

 そして、このホットミルク……。


「えへへ……ハチミツが入ってる」


 なんという滋味深い――味。

 膜ができないギリギリの範囲で温められたミルクは、牛乳という食材に含まれている原初的な甘さが存分に引き出されている。

 そこに、ごくわずかなハチミツが垂らされ、目覚めたばかりの脳を一気に覚醒させるのだ。


 とても温かく、ありがたい飲み物。

 ちびちびと、舐めるようにしてこれを味わう。


「お待たせしました。

 名付けて『カノンたんの健康を心から祈って焼き上げたツナとミックスベジタブルのホットケーキ』です」


 料理名が――長い!

 その上で、一から十までネタバラシしている!

 ネット小説のタイトルがごとき名を冠して供された大皿には、なるほど、名前通りの大きなホットケーキが一枚、載せられていたのである。


「すごい……お野菜が、たくさん入ってる」


 きつね色に焼き上がった表面に顔を出しているのは、赤、黄、緑の色鮮やかなミックスベジタブル。


 ――くう。


「……あう」


 見た目のカラフルさに刺激された胃袋が、さっさと食べるよう花音を促す。


「さ……食べて食べて」


 タキシード姿の二海から、にこりと笑いながらナイフとフォークを差し出される。


「はい……いただきましゅ」


 それを受け取った花音は、もはや迷うことなく眼前のホットケーキへと挑みかかった。


「えへへ……分厚い」


 断面を魅せるため、真ん中からナイフを入れてしまうのは、一種の職業病か。

 それで露わとなった断面の特徴は、まずその分厚さだ。

 そういえば、二海はこれをパンケーキではなくホットケーキと称している。

 なるほど、これは――納得。


 小洒落た薄焼きのそれではない。

 昔ながらのドッシリとした……家庭で味わうためのホットケーキだ。

 そして、その中にたっぷりと入っているのが、ミックスベジタブルであり、ツナ。

 これらは、見た目が鮮やかなだけではなく、確かな栄養素を視覚に訴えかけてくる。

 間違いなく、今の花音に不足している全てが詰まった一枚であった。


 これを一口分切り取り、頬張る。


「ん〜っ……!」


 瞬間、口の中へ広がったのはなんとも言えぬ複雑な……あるいは、重奏感のある味わいだ。

 そもそも、ホットケーキとはバターをひいたフライパンで甘く焼き上げるもの。

 それが、ツナとミックスベジタブルを加えた上で、サラダ油の風味をまとって焼き上がったならば、どうなるか?


 汁ごと入れたのだろうツナ缶由来の塩気が、ホットケーキミックスの甘みと混じり合い、互いをくっきりと浮かび上がらせている。


 甘いだけでは、駄目。

 塩気だけでも、駄目。


 両者が合わさっているからこそ、かえって互いが強調される結果となっているのだ。

 しかも、噛み進めて感じられるこの食感……!


 ゴロリと入れられているミックスベジタブルが、シャキリとした食感で歯を楽しませる。

 その上で弾けてくるのは、少々の苦みを伴った野菜の甘み……。

 濃密なビタミンの味だ。

 唯一、コーンだけはその役割から外れているが、他の野菜では持ち得ない食感と穀物由来の食べ応えが、実際以上のボリュームを与えていた。


 そして――ツナ。

 このホットケーキを、単なるお菓子ではなく、明確な食事へとランクアップさせている名優だ。

 ケーキ全体へ与えている塩気に関しては、すでに触れた通り。

 そして、ツナ自身の噛めば噛むほど溢れ出すマグロの旨味……!


 日本の食卓において主菜とは、おおよその場合動物性タンパク質を示す。

 それに倣うならば、このホットケーキに混ぜられたツナは間違いなく主役……。

 アイドルグループで例えるなら、センターと言っていい。


 汁から得られる塩気によって、裏から……。

 そして、自身の肉に含まれた旨さで、表から……。

 全方位から、絶対的なセンターとして君臨しているのだ。


 と、ここでふと気付く。

 対面に正座している二海が、ニコニコと笑いながら反応をうかがっていることに。


「美味しい……でしゅ。

 すっごく」


 口から出たのは、そんなありきたりな感想。

 だが、彼に感謝を伝えるならば、他のやり方が必要なはずだ。

 意を決し、眼鏡を外す。


「おいしさ直撃! カノンのハートに――」


 そして、手でハートマークを作りつつ、最高の笑顔になろうとしたが……。


「――無理しなくていいよ。

 俺は、ただカノンたんに安らいでほしいだけなんだ」


 『アイドル美食道』で披露していたキメの台詞とポーズは、意外にも二海自身の手で制止されたのである。



 お読み頂きありがとうございます。

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