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ブラック企業を辞めて隣の県に逃げた俺、なぜか隣室の眼鏡美人(※正体は推しの引退アイドル)に「ご飯を食べさせて」と捕まる。  作者: 英 慈尊


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2/15

実食! 自家製生姜焼き定食!

 Q.彼女は「お腹……空いたあ……」と言っています。これはつまり、どういうことでしょうか?


 A.彼女はお腹が空いているということです。


 Q.E.D.……証明終了だな。

 突然現れ、俺に倒れかかって豊かな胸を押し付けてきている眼鏡美女……。

 彼女は――お腹が空いている! ドン!


「ああ……生姜焼き……」


 それを証明するかのように、分厚い眼鏡越しの視線が奥の部屋……の、ちゃぶ台に載せられた自家製生姜焼き定食へと注がれていた。


「えっと……」


 もしも、だ。

 もしもこの時、俺に理性が欠片でも残っていれば、あるいは別の選択肢を選んでいたかも知れない。

 知らない人をおうちに入れてはいけません。

 こんなのは、物心ついたら教わるごく当たり前のことだ。

 まあ、この時はすでに入れちまった後だったわけだけど、ピンク色のジャージ着た女性一人くらい、追い出すことは容易だった。


 では、何故そうしなかったのか?

 どうして、そうするだけの理性が働かなかったのか?

 それは、ごく簡単な話。


 ――ふよん。


 ――ふよん。


 ……と、彼女が身じろぎする度に俺の両手で震える豊かなものが、極限までインテリジェンスを低下させていたからである。

 だから、後から考えると信じられないような言葉が、口から吐き出されてしまう。

 すなわち……。


「えっと……その……食べる?

 まだ、手を付けてねえし」


「――いいんですか!?」


 パアッっと顔を輝かせた彼女が、生姜焼き定食から俺に顔を向け直す。


「……ん」


 と、そこでふと引っかかるものに気付く。

 なんか……この笑顔、どっかで見た覚えがあるような。

 ただ、今の「……ん」を、彼女の方は同意の言葉として受け取ったらしい。


「それじゃ……その。

 い、いただきましゅ!」


 口の端からよだれを溢れさせつつ、奥の畳部屋へと突撃していったのだ。

 先述の通り生姜焼き定食の周囲はカノンたん(推し)のアクスタで飾られているし、部屋の中は360°全方位がカノンたん(推し)のグッズで彩られている。

 通常、何も知らされずに足を踏み入れたならばドン引き間違いなしの痛部屋であったが、彼女の目に入っているのは、生姜焼きの大皿と、白飯の茶碗。

 そして、味噌汁のお碗のみのようであった。


「えへへ……。

 久しぶりの、手作りのお味噌汁……」


 それを証明するかのように、スライディング正座し手を合わせた彼女が、迷いなく味噌汁のお椀を手に取る。

 そして、一口すすり込み……。


「……ほう」


 ……と、実に味わい深そうな溜め息を漏らす。

 料理人冥利に尽きる反応だ。

 そして、考えてもみれば、飲食店の店長をしていながら、長いこと目にしていなかった反応でもあった。


 そうか。

 俺は今、他人に手料理を味わってもらっているんだ。

 経済活動とは違う。

 料理という血の通った行為をしている実感に包まれている俺をよそに、眼鏡美女さんが生姜焼きへ箸を伸ばした。


 その箸使いは、なかなかに豪快なり。

 大ぶりに切られたロース肉一切れと玉ねぎ、もやしを一気に挟んだのである。

 そして、たっぷりとタレのからまったこれを、ひと息に口へ――運ばない。


 ――バウンド!


 その前に、左手の茶碗へ盛られた白米に、ワンバウンドくれてやったのだ。


(くうううううっ……!)


 俺の背筋を、電撃のようなものが駆け巡る。

 この子……。

 この女の子……。

 めちゃくちゃ美味しそうに食べる!

 白米へのワンバウンドを挟むことにより、この後、口内で果たされるだろうマリアージュを、見る者に想起させるのだ。


 た、たまらねええ……!

 俺も食いてえええ……!


 身悶えしそうな衝動をこらえていると、ついに、彼女が生姜焼きを口に入れた。


「ん〜……!」


 もぐり、もぐりと咀嚼しながら、何とも幸福そうな顔となる彼女。

 いや、これは口福な顔と称するべきか。

 「わたしは今、心から満たされています」というのが、表情筋一つ一つでもって表されているのだ。

 彼女の口内では今、甘じょっぱくも生姜の鮮烈さが印象的なタレの味と、しゃきりとしたもやしの食感に、よく火が通った玉ねぎの甘み……。

 何よりも、ロース肉の肉肉しさが壮大な演奏を行っているに違いない。


 そして、その狂想曲(ラプソディ)も終わり……。


「――はぐっ」


 余韻を逃さぬと言わんばかりの勢いで、彼女が白飯をかき込む!

 かき込む!

 かき込む!

 口の中一杯へ、ハムスターのように頬張った!


「……っ!」


 目尻に涙さえ浮かべながら、もぐもぐと頬張り続ける彼女。

 食という行為に秘められた原始的喜び……。

 それが、大いに感じられる姿であった。


「……うん!」


 何が「うん」なのかは分からない。

 だけど、これは確かに「うん」なのだろう。

 口の中へ残滓として残った生姜焼きの味わいと、あらかじめバウンドすることで白飯に染みていたタレの味……。

 そして、炊きたてご飯に秘められた穀物本来の甘さを存分に堪能した彼女がうなずくと、こっちまでうなずいてしまいそうだ。


 それから彼女が手を伸ばしたのは――千切りキャベツ。

 俺の手で刻んだこれの……あえて、下側を掘り出し、すくい上げる。


 この娘……できる!


 自分がどういうポジションなのかは分からない。

 だが、仙人めいた気分となった俺は、『ハニー・パレット(ハニパレ)』のライブ時における定番ポーズ――後方彼氏面スタイルとなってうなずく。

 何も付いていない上側を取って、野菜本来の味でリフレッシュするわけではない。

 大皿の端に絞っておいたマヨネーズによって、定番マヨキャベツを味わうわけでもない。

 あえて、山となった千切りキャベツの下側……。

 すなわち、生姜焼きタレの染み込んだ部分を掘り出し、口にしたのである。


 これはつまり、白飯への飽くなき闘争本能が、いまだ衰えていないことを意味した。

 その証拠に、もぐもぐとタレ染みキャベツを味わった彼女が、すかさず白飯を――かき込む!

 かき込む!

 かき込む!


 そう! 生姜焼き定食の千切りキャベツはおかず!

 たっぷりとタレが染み込んだキャベツは、生姜焼き本体とはまた違ったベクトルで白飯をすすめるのだ。


 くうううううっ!

 口の中に、よだれが溢れてきやがる。


 食レポしているわけではない。

 彼女はただただ、生姜焼き定食を堪能しているだけだ。

 しかし、その食べ方一つ一つが! 恍惚としたその表情が! 何よりも雄弁に美味さを物語っていた。


 それにしても、である。

 彼女の食べてる姿、どこかで見覚えが……。

 そこまで考えて、気付く。

 ああ、そうだ……これは『アイドル美食道』という番組で、一時期レギュラーを務めていたカノンたんが見せていたリアクションと酷似しているのだ。


 ――さすが、俺たちのカノンたん!


 ――言葉なんぞ使わずとも、食の魅力を物語っているぜ!


 という具合に、俺たちカノンたん推し界隈では大評判で、あらかじめ期間が定められていたとはいえ、レギュラー交代を大いに惜しんだものであった。

 ただ、確かに食事中はそれに没頭するあまり、ろくに喋らなかったカノンたんだが、その代わりというか、食後にはあるキメ台詞を言いながらキメポーズもしていたものだ。

 あれは……。


 と、そんな風に失踪した推しの元出演番組を思い出していると、ピンクジャージの眼鏡美女さんも食事を終えたようであった。

 かなりガツガツと食べていたように見えるが、何しろ整った形のお口は小さい上に、俺用の大盛りご飯であったため、おかわりせずともなんとか足りたようである。


 お箸を置いた彼女が、ほうと息を吐き出す。

 「ご馳走様」と言うのかと思ったが、そうではなかった。


「おいしさ直撃! カノンのハートにクリティカルヒット♡」


 彼女はそう言いながら、両手でハートマークを作ってみせたのである。

 これは……。

 これは、カノンたんが『アイドル美食道』で使っていたキメ台詞とキメポーズ……!


 勢いよく動作したからだろう。

 眼鏡美女さんを眼鏡美女さんたらしめていた分厚いレンズの眼鏡が、かちゃりという音を立てながら畳の上へ落ちる。

 そうすることで露わとなったのは、宝石のように澄んだ深い碧眼。

 遮るものがなくなった顔全体の造形は、整い過ぎるくらいに整っていた。


 この顔を……印象的な色の瞳を忘れるわけがない。

 というか、まず本人がキメ台詞でそう名乗っている。


「か……カノンたん?」


「あ……」


 ピンクストレートのウィッグを装着していない以外は、アイドル時と何一つ変わらない絶世の美女――カノンたんが、顔を青ざめさせた。

 ふ、ふふ……。

 そうかそうか。


 ………………。

 …………。

 ……。


 本物の推しかよおおおおおっ!?

 お読み頂きありがとうございます。

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