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第4話:契約初夜の屈辱

挿絵(By みてみん)

 午後9時55分。


 私は、自分の部屋の姿見の前で、情けないほどに強張った顔をした女と睨めっこをしていた。

 服装は、近所のスーパーでワゴンセールされていた、上下セット980円のコットンのパジャマ(色は無難なベージュ)。

 顔は、化粧水と乳液だけで整えた完全なすっぴん。

 髪は、邪魔にならないように後ろで一つに結んである。

 鏡の中の私は、どこからどう見ても「就寝前の冴えないOL」だった。

 これから、あの煌びやかな二条なおみの部屋に行くというのに。

 まるで、ライオンの檻に放り込まれるウサギだ。しかも、味付けもされていない素のままの。


「……行かなきゃ」


 契約は絶対だ。1分でも遅刻すればペナルティが発生する。

 私は深呼吸を繰り返し、震える足で部屋を出た。

 夜の女子寮は静まり返っていた。廊下にはふかふかの絨毯が敷かれ、私の安物のスリッパの音さえ吸い込んでしまう。

 廊下の突き当たり、一番奥にあるのが「寮長室」、すなわち女王・二条なおみの部屋だ。

 その重厚なマホガニーの扉が、地獄の門のようにそびえ立っている。


 コンコン。


 ノックの音が、心臓の鼓動と重なった。


「……入りなさい」


 中から聞こえた声は、少し不機嫌そうだった。

 私はドアノブを回す。重い。物理的にも、心理的にも。

 覚悟を決めて、私はその扉を開いた。


          ◇


 むせ返るような甘い香りが、私を迎えた。

 最高級のバニラと、高貴な花々を煮詰めたような香り。

 部屋の中は間接照明だけが灯され、薄暗いオレンジ色に染まっている。

 私の視界に入ってきたのは、映画のセットのような光景だった。

 猫足の家具、壁一面の本棚、そして部屋の中央に鎮座する、キングサイズの天蓋付きベッド。

 そのベッドの縁に、彼女は座っていた。


「……遅い」


 二条なおみは、不満げに私を見据えた。

 その姿に、私は思わず息を呑んだ。

 風呂上がりなのだろう。濡れた黒髪が、タオルドライされただけの状態で肩にかかっている。

 身に纏っているのは、とろけるような光沢を放つシルクのネグリジェ一枚。深いミッドナイトブルーの布地が、彼女の抜けるような白い肌を際立たせていた。

 胸元が大きく開いていて、鎖骨のラインが艶めかしく浮き出ている。


「22時ちょうどです」

「私が待っていたんだから、体感では遅刻よ」


 理不尽なジャイアニズムだ。

 なおみは組んでいた足を解き、立ち上がった。

 裸足だ。爪先まで手入れが行き届き、桜色のペディキュアが塗られている。

 彼女が一歩近づくたびに、甘い香りが濃くなる。


「鍵、閉めて」

「え?」

「聞こえなかった? 鍵を閉めなさいと言ったの」


 私は慌てて振り返り、ドアのサムターンを回した。

 カチャリ。

 乾いた金属音が響く。

 それは、退路が断たれた音だった。

 密室。

 薄暗い照明。

 風呂上がりの美女と、パジャマ姿の私。


(……何を、されるの?)


 掃除や洗濯なら、パジャマで来る必要はない。

 まさか、本当に変なことを?

 ミドリさんが言っていたような、玩具にされるようなこと?

 私は無意識に自分の胸元を隠すように腕を組んだ。


「あの、お掃除道具はどこに……」

「掃除なんてしなくていいわよ。業者が入ったばかりだもの」

「じゃあ、洗濯物を……」

「それもハウスキーパーがやってるわ」


 なおみは私の言葉をことごとく否定し、ベッドの方へと顎をしゃくった。


「あんたの仕事は、そこ」


 彼女が指差したのは、ベッドの上だった。

 ふかふかの羽毛布団が、主人の帰りを待つように口を開けている。


「……は?」

「そこに寝なさい」

「寝る……って、私がですか?」

「他に誰がいるのよ」


 なおみは苛立ったように溜息をつき、自らベッドに潜り込んだ。

 そして、布団の端をめくり上げ、ぽんぽんとシーツを叩いた。


「早く。こっちに来て、私の手を握りなさい」


 私は混乱の極みにあった。

 100万円の借金のカタに、女王様と一緒に寝る?

 意味がわからない。これは何かの儀式だろうか。それとも、私の警戒心を解いてから食べるつもりなのか。


「……命令よ。拒否権はないって言ったでしょ」


 鋭い声に背中を押され、私はおずおずとベッドに近づいた。

 靴を脱ぎ、恐る恐るシーツの上に上がる。

 沈み込むような柔らかさ。私の安アパートの煎餅布団とは次元が違う。

 私がベッドの端に正座すると、なおみは不満そうに眉を寄せた。


「遠い。もっと近く」

「でも……」

「いいから」


 強引に腕を引かれた。

 バランスを崩した私は、なおみの隣に倒れ込む形になった。

 瞬間、彼女の体温が伝わってくる。


「……っ」


 近い。

 顔の距離、わずか数センチ。

 彼女の吐息が、甘い香りを含んで私の頬にかかる。

 濡れた髪から滴る水滴が、シーツに小さな染みを作っていく。


「そのまま。動かないで」


 なおみは私の右手を掴むと、それを自分の胸元に抱き込んだ。

 柔らかい感触。心臓の鼓動。

 そして、驚くほど冷たい手。


「……冷たい」

「悪かったわね、冷え性で」


 なおみは自嘲気味に呟き、私の指に自分の指を絡ませた。

 恋人繋ぎ。

 氷のように冷え切った彼女の指が、私の体温を貪るように食い込んでくる。


「私、眠れないの」


 暗闇の中で、なおみがポツリと言った。

 その声は、昼間の傲慢な女王様のものではなく、迷子の子供のように頼りなかった。


「高い寝具も、アロマも、睡眠薬も……全部試したけど、ダメ。一人が怖くて、目を閉じると嫌なことばかり思い出すの」

「嫌なこと……?」

「……あんたには関係ないわ」


 なおみは口をつぐみ、さらに強く私の手を握りしめた。

 痛いほどに。

 まるで、私が命綱であるかのように。


「あんたみたいな庶民の体温がね、一番よく眠れるのよ」


 憎まれ口のようなセリフ。

 でも、彼女は私の手に頬を擦り付け、その温かさを愛おしむように目を閉じた。


「安っぽくて、平熱が高くて……なんの悩みもなさそうな、この体温が」


 失礼な言い草だ。私だって悩みくらいある。主に今、目の前にいるあなたのせいで。

 反論しようとしたが、なおみの睫毛が微かに震えているのを見て、言葉を飲み込んだ。

 彼女は、震えていた。

 冷房のせいではない。体の奥底から来る、孤独という名の震え。

 広い部屋。豪華な家具。地位も名誉も金もある。

 けれど、この広いベッドの上で、彼女はたった一人で夜の闇と戦っていたのだ。


「……人間湯たんぽ、ってことですか」

「そうよ。光栄に思いなさい」


 なおみはふんと鼻を鳴らしたが、その表情は少しずつ緩んでいった。

 私の体温が、彼女の冷たい体に浸透していく。

 こわばっていた肩の力が抜け、呼吸が深くなる。

 規則正しい寝息が聞こえ始めるまで、そう時間はかからなかった。

 数分後には、なおみは完全に夢の中へと落ちていた。

 取り残されたのは、私一人。

 私は天井を見上げた。

 天蓋のドレープが、巨大な蜘蛛の巣のように見えた。


(……何これ)


 改めて現状を確認する。

 私は上司のベッドに寝ている。

 上司はネグリジェ姿で、私の手を握り、私の腕を抱き枕にして爆睡している。

 逃げられない。動けない。

 右腕が痺れてきた。

 屈辱だった。

 私は彼女にとって、人間ではない。ただの「暖房器具」であり「安眠グッズ」なのだ。

 借金のカタに、人格を無視され、機能だけを求められる。

 こんな惨めなことがあるだろうか。

 けれど。

 すぐ隣で聞こえる寝息は、不思議なほど無防備で、安らかだった。

 無意識なのか、彼女は時折、私の指をきゅっと握り返してくる。

 その感触に、私は奇妙な背徳感を覚えていた。

 あの絶対君主である二条なおみが、今は私に依存し、私なしでは眠れないでいる。

 この部屋の中だけは、私が彼女を「支えて」いるのだ。

 ふわりと、なおみの髪が私の首筋にかかった。

 いい匂い。

 悔しいけれど、本当にいい匂いだ。

 私はその匂いに包まれながら、長く苦しい夜が始まったことを悟った。


「……おやすみなさい、なおみ様」


 聞こえるはずのない呟き。

 なおみは一度だけ「んぅ……」と甘えた声を漏らし、私の胸に顔を埋めた。

 この時の私はまだ知らない。

 この「人間湯たんぽ」の役目が、やがて彼女にとって代え難い唯一無二のものとなり、私の平穏な人生を根底から覆すことになるなんて。

 午前3時。

 私は痺れる腕の感覚と戦いながら、天井のシミの数を数え続けていた。


 あと99日。


 先は、果てしなく長い。


【次回予告】第5話:二重生活の始まり

昼は「氷の女帝」、夜は「甘えん坊な迷子」。

あまりのギャップに、私の理性が追いつかない……!

契約初夜が明け、逃げるように自室へ戻ったリエ。

会社では完璧な「エリート上司」として振る舞い、リエを道端の石ころのように無視するなおみだが、夜になるとその態度は一変する。

「髪が傷んでるから、トリートメントしに来なさい」

腰巾着・ミドリが運んできた新たな業務命令。

濡れた髪、無防備な背中、そして暗闇で囁かれる**「逃げたら許さない」**という独占欲。

絶対零度の女王様が、夜だけに見せる「弱さ」に触れた時、リエの中で何かが変わり始める――。

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