第3話:借金のカタは「夜のお世話」
「体で……払う?」
私の喉から漏れたのは、ひどく掠れた、間抜けな音だった。
ラウンジの重苦しい空気の中で、その言葉だけが異様に生々しく響き渡る。
二条なおみは、優雅に足を組み替えた。シルクのガウンから覗く白い太腿が、シャンデリアの光を受けて滑らかに輝く。
彼女は私の反応を楽しむように、ゆっくりと首を傾げた。
「ええ、そうよ。日本語、わからなかった?」
「わ、わかりますけど……意味が、わかりません。体で払うって、その……」
私の脳内を、深夜ドラマのような扇情的な光景が駆け巡る。
借金のカタに売られる女。夜の街への沈没。あるいは、もっと直接的な――。
私は無意識に自分の体を抱くようにして後ずさった。
「あの、私、そういう経験……あまりないですし、その、自信もありませんし、そもそもここは会社の寮で……!」
「……は?」
なおみが、心底不思議そうな顔をした。
その隣で、緑川ミドリが「ぷっ」と吹き出す。
「あはは! なおみ様、見てくださいこの反応! 小松川さん、まさか『抱かれる』とでも思ったんじゃありません?」
「え……違、うんですか?」
「当たり前でしょ、この自意識過剰女」
なおみが、汚いものを見るような目で私を一蔑した。
「誰があんたみたいな貧相な体を抱くのよ。想像するだけで寒気がするわ」
「す、すみません……」
否定されて安心するべきなのか、女としてのプライドを傷つけられるべきなのか。
複雑な心境でうなだれる私に、なおみは冷たく告げた。
「私が言っているのは、労働力の提供よ。私のプライベートな時間を快適にするための、奉仕活動」
「奉仕……活動?」
「そう。これからあんたには、私の部屋で『夜のお世話係』をしてもらうわ」
なおみはテーブルの上のスマートフォンを手に取り、電卓アプリを起動した。
整えられた長い爪が、リズミカルに画面をタップする。
「ワインの損害額、キリよく100万円として。あんたの時給なんて、せいぜいコンビニのバイト並みでしょうけど……特別に色をつけてあげる。一晩、1万円」
「一晩、1万円……」
「100万円を1万で割ると、100日。計算、できるわよね?」
なおみは画面を私に向けた。
そこには『100』という数字が表示されていた。
「今日から100日間、毎晩私の部屋に来て、私が命じる『お世話』をしなさい。それが終われば、借金はチャラにしてあげる」
100日。約3ヶ月強。
期間としては、長くも短くも感じる微妙な数字だ。
だが、問題はその中身だ。
「あの……『お世話』というのは、具体的に何を……?」
「掃除、洗濯、マッサージ、話し相手……その他もろもろよ。私の身の回りの世話一切。言っておくけど、業務時間外の労働だから、拒否権はないわよ」
「業務時間外って……それじゃあ、私はいつ休めば」
「知らないわよ」
なおみは冷淡に言い放った。
「嫌なら、今すぐ100万円をここに並べるか、あるいは――」
彼女の視線が、ミドリに向いた。
ミドリは心得たように頷き、スマートフォンを取り出した。画面には、既に人事部長の連絡先が表示されている。
「会社に報告しましょうか? 『総務部の小松川リエが、役員令嬢の私物を破壊して逃亡しようとした』って。器物損壊だけじゃなく、コンプライアンス違反、あるいは……社内の秩序を乱した罪で、懲戒解雇は免れないでしょうね」
血の気が引いた。
角紅商事において、二条家の意向は絶対だ。なおみの一言があれば、私のクビを飛ばすことなど、書類一枚の処理よりも簡単だろう。
再就職? 無理だ。「あの大手商社を、不祥事でクビになった」という経歴がつけば、まともな企業は雇ってくれない。
待っているのは、社会的抹殺。
実家の両親の顔が脳裏をよぎる。「いい会社に入ったね」と喜んでくれた母。「リエなら大丈夫だ」と笑ってくれた父。
――逃げ道は、塞がれている。
「……わかり、ました」
私は、絞り出すように言った。
プライドも、自由時間も、全てを天秤にかけて、私は「生存」を選んだ。
「その契約、受けます。100日間、お世話係をさせていただきます」
「賢明な判断ね」
なおみは満足げに微笑むと、ミドリに目配せをした。
ミドリはどこから取り出したのか、一枚の便箋と万年筆を私の前に置いた。
まるで、最初からこうなることが決まっていたかのような手際の良さだ。
「はい、これにサインして。一筆書いてもらうわよ」
渡されたのは、最高級の和紙で作られた便箋だった。
私は震える手で万年筆を握った。
「内容は?」
「簡単よ。『私、小松川リエは、二条なおみ様に対して100万円の債務を負いました。その返済として、100日間、なおみ様の命令に絶対服従し、夜のお世話係を務めます』……と書きなさい」
絶対服従。
その四文字の重みに、ペン先が止まる。
これは奴隷契約だ。現代日本において、労働基準法も人権も無視した、個人的な隷属契約。
けれど、目の前には割れたワインの残骸と、冷酷な女王様の視線がある。
私は唇を噛み締め、文字を走らせた。
インクの滲みが、私の涙のように見えた。
『……夜のお世話係を務めます。 小松川リエ』
最後に署名をして、指印を押す。
その瞬間、目に見えない首輪が「カチャリ」と音を立てて嵌められた気がした。
「よくできました」
ミドリが契約書をひったくるように回収し、なおみに手渡す。
なおみはそれを一瞥すると、ふっと小さく鼻を鳴らした。
「字だけは綺麗なのね。総務部でハンコを押すだけの仕事をしてきただけのことはあるわ」
「……恐縮です」
「じゃあ、契約成立ね。――さっそく今夜から働いてもらうわよ」
なおみは立ち上がり、私を見下ろした。
その瞳には、新しい玩具を手に入れた子供のような、残酷な輝きが宿っていた。
「22時。私の部屋に来なさい。1分でも遅れたら、ペナルティとして契約期間を延ばすから」
「は……はい」
「服装は、そうね……。清潔なパジャマで来なさい。香水は禁止。化粧も落としてくること。わかった?」
パジャマ?
掃除や洗濯をするなら、動きやすい服の方がいいのではないか。
疑問は尽きなかったが、私に質問する権利はなかった。私はもう、彼女の「所有物」になったのだから。
「承知いたしました、なおみ様」
私が深々と頭を下げると、なおみは満足そうに踵を返した。
ミドリが私の横を通り過ぎる際、耳元で小さく囁いた。
「よかったですね、小松川さん。普通なら一生かかっても関われないなおみ様と、こんなに親密になれて。……壊れないように、頑張ってくださいね?」
二人の背中が遠ざかり、エレベーターホールへと消えていく。
残された私は、赤ワインのシミが広がる絨毯の上に一人、取り残された。
甘く、どこか腐敗したような葡萄の匂いが、鼻について離れない。
それは、これから始まる100日間の、甘美で残酷な地獄の香りのようだった。
◇
その日の夜。21時55分。
私は指定された通り、メイクを落とし、一番マシな(といっても量販店で買った千円の)コットンのパジャマに着替えて、なおみの部屋の前に立っていた。
心臓の音がうるさい。
これから何が始まるのか。どんな屈辱的な命令が待っているのか。
掃除だろうか。マッサージだろうか。あるいは、サンドバッグにでもされるのだろうか。
深呼吸を三回。
覚悟を決めて、私は重厚なドアをノックした。
「……入りなさい」
中から聞こえた声は、昼間の冷徹さとは違い、どこか弱々しく、頼りなさげだった。
私は重いドアノブを回し、禁断の領域へと足を踏み入れた。
そこは、間接照明だけが灯る、薄暗い空間だった。
アロマの香りが充満している。ラベンダーとベルガモット。安眠効果のある香りだ。
部屋の中央にあるキングサイズのベッドに、なおみがぽつんと座っていた。
昼間の鎧のようなハイブランドの服ではなく、とろりとした質感のシルクのネグリジェを身に纏っている。
下ろした黒髪が、白い肩に掛かっている。
その姿は、息を呑むほど美しく、そして――ひどく儚げに見えた。
「遅い」
なおみが私を睨んだ。目の下に、薄くクマがあるのが見て取れた。
「22時ちょうどです」
「体感では5分遅刻よ。……まあいいわ。鍵を閉めて」
「え?」
「いいから閉めて」
言われるままに鍵をかける。
密室。
私となおみ、二人きり。
逃げ場のない空間で、なおみがベッドの端をポンポンと叩いた。
「ここに来なさい」
「……はい」
私は恐る恐る近づき、ベッドの傍らに立った。
なおみは見上げるように私を見て、そして衝撃的な命令を下した。
「座って。……そして、私の手を握りなさい」
「は?」
「聞こえなかった? 手を握れと言ったの」
掃除でも、洗濯でもない。
手を握る?
困惑しながらも、私はベッドの縁に腰掛け、差し出されたなおみの右手に触れた。
冷たい。
氷のように冷え切った指先だった。
私の手が触れた瞬間、なおみの体がビクンと小さく震えた。
「……温かい」
なおみが、うわごとのように呟いた。
そして、私の手を強く、痛いほど強く握り返してきた。
「そのまま、動かないで。私が眠るまで、絶対に離さないで」
「あの、なおみ様……? これが『お世話』ですか?」
「そうよ。文句ある?」
なおみはそのままシーツに倒れ込み、私の手を自分の胸元に抱き込んだ。
心臓の鼓動が、手を通じて伝わってくる。早くて、不規則なリズム。
「私、眠れないの。……薬も効かないし、アロマもダメ。一人が怖いの」
小さな声だった。
昼間の傲慢な女王様とは別人のような、迷子の子供の声。
「あんたみたいな庶民の、安っぽい体温が……今の私には、ちょうどいいみたい」
悪態をつきながらも、なおみは私の手の甲に頬を擦り付けた。
猫が飼い主に甘えるような仕草。
さらさらとした黒髪が、私の手首をくすぐる。
「……おやすみ」
数分もしないうちに、なおみの呼吸が深くなり始めた。
握る力は緩まない。むしろ、私を命綱だと思っているかのように、指を絡めてくる。
私は薄暗い部屋で、眠り姫の手を握ったまま動けずにいた。
これが、100万円の仕事?
ただの「人間湯たんぽ」?
屈辱的な契約のはずだった。
けれど、無防備な寝顔を晒して眠る彼女を見て、私は奇妙な感情を抱いていた。
背徳感と、少しの優越感。
この傲慢な女王様は、私の体温なしでは眠れないのだ――という、歪んだ事実。
時計の針が進む。
私は長くて奇妙な、最初の夜を過ごし始めた。
【第4話予告:契約初夜の屈辱】
契約初日の夜。風呂上がりの甘い香りが漂うなおみの部屋に呼び出されたリエ。何をされるのかと身構えるリエに対し、なおみはベッドの端を指差して命令する。「そこに寝なさい。そして私の手を握って」。
なおみの要求、それは重度の不眠症を解消するための**「人間湯たんぽ」**としての役割だった。
「あんたみたいな庶民の体温が、一番よく眠れるのよ」
肌が触れ合う距離、絡められる指、そして規則正しい寝息。性的な行為はないものの、逃げ場のない密室で一方的に体温を貪られる行為に、リエは奇妙な背徳感と屈辱を味わう。




