第2話:女王様と割れた100万円
入寮から三日が過ぎた。
私の生活は、一言で言えば「透明人間ごっこ」だった。
朝は誰よりも早く、午前五時に起きて共用部のキッチンでコーヒーを淹れる。他の令嬢たちが起きてくる六時半には自室に撤退し、彼女たちが出社した後の八時半にこっそりと寮を出る。
会社では、総務部のデスクで空気のように事務作業をこなし、定時と共にダッシュで帰宅。令嬢たちがディナーやエステから戻ってくる前に大浴場を済ませ、自室に引きこもる。
完璧な隠密行動。
これなら、次の人事異動までの残り三百六十二日を無傷で生き延びられるはずだった。
――そう、あの「当番表」さえなければ。
「……これ、嫌がらせですよね」
土曜日の午前十時。
私は寮の一階にあるメインラウンジで、巨大な窓ガラスと格闘していた。
入寮初日に緑川ミドリから渡された『新入り用・清掃当番表』には、プロの業者がやるような作業がびっしりと書き込まれていたのだ。
窓拭き、床のワックス掛け、シャンデリアの埃落とし(これは脚立がないので無視した)、そして庭の雑草取り。
どう考えても一人でこなす量ではないし、そもそもこの寮には専属の管理人がいるはずだ。
「あら、小松川さん。精が出ますわね」
背後から、猫なで声が聞こえた。
振り返ると、テニスウェアに身を包んだ緑川ミドリが立っていた。手にはミネラルウォーターと、高そうなスポーツタオルを持っている。
「緑川さん……おはようございます」
「窓の桟、まだ埃が残っていてよ? なおみ様はハウスダストがお嫌いだから、徹底的にお願いね」
「……善処します」
ミドリは私の顔を見ると、ふふっと楽しそうに笑った。
彼女は、私のことが気に入らないのだ。それは言葉の端々から明確に伝わってくる。「庶民のくせに私たちの聖域に入り込んだ異物」に対する、純粋な排斥感情。
でも、彼女は直接手を下さない。こうして「寮のルール」という建前を使って、私が音を上げて出て行くのを待っているのだ。
「ああ、そうだわ」
ミドリが何かを思い出したように、ラウンジの中央にあるサイドテーブルへと歩み寄った。
そこには、一本のワインボトルが飾られていた。
埃ひとつないベルベットの布の上に鎮座する、古めかしいラベルの赤ワイン。詳しくない私でも、その佇まいだけで「触ったら死ぬやつ」だと本能が理解できた。
「このテーブルも拭いておいてくださる? なおみ様、今夜はこのワインを開けて晩酌なさる予定なの」
「え、あ、はい。わかりました」
「じゃあ、私はシャワーを浴びてくるから。……くれぐれも、気をつけてね?」
ミドリは意味深な笑みを残して、ラウンジを出て行った。
後に残されたのは、私と、高級そうなワインボトルだけ。
私は溜息をつき、雑巾を固く絞り直した。
やるしかない。さっさと終わらせて、部屋に逃げ帰ろう。
私は慎重にサイドテーブルに近づいた。
ボトルには指一本触れないように、周囲のテーブル面だけを拭く。猫のような慎重さで。
順調だった。あと少しで終わる。
そう思って、テーブルの奥側に手を伸ばした時だった。
「――きゃっ!?」
突然、足元の絨毯が大きく滑った。
いや、滑ったのではない。何かが「仕掛けられて」いたのだ。
絨毯の下に、テニスボールのような球体が隠されていた――そんな感触が足裏に伝わった瞬間、私の体勢は大きく崩れた。
体が前のめりに倒れる。
伸ばした手が、空を切る。
そして、私の肘が、サイドテーブルの端に置いてあったボトルに、ほんの少しだけ触れた。
世界がスローモーションになる。
重厚なガラス瓶が、ゆっくりと傾き、テーブルの縁から重力に従って落下していく。
手を伸ばしても、もう届かない。
ガシャァァァン!!
耳をつんざく破壊音。
続いて、濃厚な葡萄の香りが爆発的に広がった。
「…………あ」
私は床にへたり込んだまま、呆然とその光景を見つめた。
白大理石の床に広がる、鮮血のような赤黒い液体。
無残に砕け散ったガラス片。
そして、液体に濡れて剥がれ落ちた、古色蒼然としたラベル。
終わった。
私の平穏な寮生活どころか、社会人人生が終わった音がした。
「――何事?」
凛とした、しかし絶対零度の声が響いた。
心臓が止まるかと思った。
ラウンジの入り口に、二条なおみが立っていた。
休日の遅い朝食をとりに来たのだろうか、シルクのナイトガウンを羽織り、不機嫌そうに長い黒髪をかき上げている。
その後ろから、シャワーを浴びに行っていたはずのミドリが、タオルで髪を拭きながら顔を出した。
「あらら……。なんてこと」
ミドリの声は、驚きを装っていたが、隠しきれない歓喜が滲んでいた。
彼女は私が転んだ原因――絨毯の下の異物――を確認することもなく、真っ先に割れたボトルへと視線を向けた。まるで、こうなることを知っていたかのように。
「小松川さん……あなた、何をしたのかわかっているの?」
なおみが、ゆっくりと近づいてくる。
ヒールの音が、死刑台へのカウントダウンのように響く。
私は震える唇を開いた。
「も、申し訳ありません! 掃除をしていたら、足が滑って……い、いえ、違うんです! 絨毯の下に何かあって……!」
言い訳だ。見苦しい言い訳に過ぎない。
でも、言わずにはいられなかった。これは事故じゃない、事件なのだと。
「言い訳はいいわ」
なおみは私の言葉を冷たく遮った。
彼女は私の足元など見ようともせず、ただ無残な屍となったワインボトルを見下ろしている。その瞳には、軽蔑以外の感情がなかった。
「事実として、あなたが割った。それだけで十分よ」
「で、でも……!」
「ミドリ、これ、いくらだったかしら?」
なおみがミドリに問いかける。
ミドリは芝居がかった仕草で口元を押さえ、悲しげに首を振った。
「確か、先月のオークションで落札された『ロマネ・コンティ 1945』の空き瓶……ではなく、中身入りのヴィンテージでしたわね。保存状態も完璧で、市場価格なら……」
ミドリがチラリと私を見て、口の端を吊り上げた。
悪魔の笑顔だった。
「最低でも、100万円は下りませんわ」
「ひゃ……!?」
声が裏返った。
ひゃくまんえん。
私の手取り月給の、約五ヶ月分。ボーナスを丸ごと突っ込んでも足りない。
備品管理課で電卓を叩き、一円単位の交通費精算に目を光らせている私にとって、それは天文学的な数字だった。
「100万円……」
なおみは溜息をつき、まるで汚いものを見るように私を見下ろした。
「どう落とし前をつけてくれるのかしら? まさか『ごめんなさい』で済むとは思ってないわよね?」
「そ、それは……弁償、します……。でも、今は持ち合わせがなくて……分割で、その……」
しどろもどろになる私を見て、なおみは鼻で笑った。
「分割? あなた、ここを消費者金融か何かと勘違いしてない? 私は今すぐ、代わりのワインが必要なの。今夜の気晴らしのためにね」
無理だ。どうあがいても無理だ。
私の絶望を楽しむように、ミドリが追撃する。
「なおみ様、この方、お給料も安そうですもの。きっと払えませんわ。……いっそ、退寮していただくのが一番の償いになるのではなくて?」
それが狙いか。
ミドリの筋書き通りだ。私はここで「責任を取って退寮します」と言うしかない。そうすれば、この地獄のような負債からも、寮の人間関係からも解放される――。
けれど。
それは同時に、会社での居場所を失うことを意味していた。「役員の娘の大切なものを壊して逃げ出した女」というレッテルを貼られれば、備品管理課にいられるはずがない。
どうすればいい。どうすれば。
床に手をつき、脂汗を流す私。
そんな私を、なおみはじっと見つめていた。
その瞳の色が、ふと変わった気がした。
軽蔑から、値踏みするような、もっと冷徹で、かつ粘着質な色へ。
「……ねえ、小松川さん」
なおみが、ソファに足を組んで座り直した。
白い脚が、ガウンの裾から覗く。
「あなた、お金はないのよね?」
「……はい」
「でも、体はあるわよね?」
「……え?」
顔を上げる。
なおみは、楽しそうに――いや、獲物を見つけた猛獣のように、口元を歪めていた。
「じゃあ、体で払ってもらおうかしら」
その言葉の意味を、私はまだ理解できていなかった。
ただ、背筋を這い上がる悪寒だけが、これから始まる運命の過酷さを告げていた。
【第3話予告:借金のカタは「夜のお世話」】
「払えません」と土下座するリエに対し、なおみはソファに足を組みながら一つの提案をする。「じゃあ、体で払ってもらおうかしら」。
青ざめるリエに提示されたのは、**『100日間、なおみの部屋で夜の世話係をすること』**という奇妙な契約だった。
「1日1万円で換算してあげる。100日でちょうど100万円。ただし、私の命令には絶対服従。拒否権はないわよ」。
借金返済か、社会的抹殺か。選択肢のないリエは、震える手でその屈辱的な契約書にサインをする。




