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第1話:庶民、貴族の寮に迷い込む

挿絵(By みてみん)



【キャラクター設定】


•◾️主人公:小松川リエ(こまつがわ りえ)

• 属性: 庶民、苦労人、メンタル強め

• 役職: 角紅商事 総務部・備品管理課。

• 背景: 親のコネも何もない一般入社組だが、会社の福利厚生ミス(という名目の手違い)で、超高級な「令嬢専用独身女子寮」に住むことになってしまった異分子。

• 性格: 合理的で「無」になるのが得意。女王様たちの理不尽な要求を「業務」として処理するスキルが高い。


•◾️ヒロイン(女王様):二条なおみ(にじょう なおみ)

• 属性: 女王様、ツンデレ、隠れ寂しがり屋

• 役職: 角紅商事 経営企画部(実質的なお飾り)。親は欧州支社長。

• 背景: 寮の支配者(寮長)。容姿端麗、頭脳明晰だが、性格は最悪。親が海外赴任中で不在のため、寮内での擬似的な家族ごっこ(支配関係)に依存している。

• 性格: 「愛はお金と権力で買える」と信じている。リエをペット扱いするが、実は誰よりも「本物の愛」に飢えている。


•◾️腰巾着:緑川ミドリ(みどりかわ みどり)

• 属性: 腹黒、トリックスター、解説役

• 役職: 秘書課。なおみの腰巾着兼ペット。

• 役割: なおみの全肯定イエスマンだが、実はなおみの行動を面白がっている節がある。リエに対しては当初「泥棒猫」として敵対するが、徐々に「なおみ様がデレていく様」を楽しむ観測者となる。

挿絵(By みてみん)


 東京都港区、白金台。


 プラチナ通りから一本奥に入った閑静な高級住宅街に、その建物は鎮座していた。

 ルネサンス様式を模した重厚な石造りの外壁、手入れの行き届いた英国風庭園、そしてエントランスへ続くアプローチには、この国では絶滅危惧種だと思われていたガス灯が揺らめいている。

 小松川リエ(24歳)は、愛用のくたびれたキャリーケースのハンドルを握りしめ、その威容を見上げて呆然と立ち尽くしていた。

 手元のスマートフォンに表示された地図アプリは、無情にもここが目的地であることを示している。


「……嘘でしょう?」


 思わず口から漏れたのは、感嘆ではなく絶望の溜息だった。

 角紅商事、総務部備品管理課。それがリエの所属だ。いわゆる「一般職」であり、親のコネもなければ、特筆すべき才能もない。趣味は「スーパーの半額シール狩り」と「貯金通帳を眺めること」という、正真正銘の庶民である。

 本来ならば、リエの社宅は千葉の奥地にある築40年の木造アパート「角紅荘(通称:独房)」になるはずだった。

 しかし、人事部のシステム更新に伴う致命的なエラー、あるいは神様の気まぐれな悪戯によって、リエの入居先はあろうことか、この「第一女子寮」に割り当てられてしまったのだ。


 通称、薔薇の園。


 入居資格を持つのは、役員以上の子女、あるいは将来の幹部候補として海外から呼び寄せられたバイリンガル女子のみ。家賃は会社持ちだが、実質的な管理費だけでリエの手取りが消し飛ぶ魔境である。


「手違いです、と泣きつけばよかった……」


 しかし、人事部長は「一度決まった発令を取り消すのはシステム上、非常に面倒くさい」と一蹴し、「まあ、家賃も特別に一般寮扱いでいいから。空気のように過ごしていれば問題ないよ」と笑った。

 空気のように。それがどれほど困難なミッションか、この時のリエはまだ理解していなかった。


          ◇


 自動ドアが滑らかに開き、冷房の効いたロビーへ足を踏み入れた瞬間、リエは自分が場違いな異物であることを悟った。

 天井にはクリスタルのシャンデリア。床には足首まで埋まりそうな深紅の絨毯。そして何より、漂っている匂いが違う。柑橘系の爽やかさと、深みのあるフローラルが混ざり合った、デパートの一階化粧品売り場でしか嗅がないような「高い女」の香りが充満していた。


「あら?」


 鈴を転がすような、しかしどこか冷ややかな声が降ってきた。

 ロビーの奥、革張りのチェスターフィールドソファに優雅に腰掛けていた二人の女性が、こちらを見ている。

 一人は、ポニーテールの女性。栗色の髪を高い位置で結い上げ、快活そうに見えるが、その目は値踏みするように細められている。

 そしてもう一人。

 艶やかな黒髪を腰まで流し、陶器のように白い肌と、切れ長の瞳を持つ美女。彼女が纏う空気だけ、さらに気温が二度ほど低いように感じられた。


「ミドリ、清掃業者の入り口は裏口じゃなくて?」

「いえいえなおみ様、あの方、入館証をお持ちですよ。……まさか、噂の?」


 黒髪の女性――二条なおみが、形の良い眉をわずかにひそめた。

 その視線は、リエの量販店で買ったベージュのスーツから、使い古されたキャリーケース、そして磨り減ったローファーへと無遠慮に這い回り、最後にリエの顔に戻ってきた。

 まるで、最高級のシルクの中に紛れ込んだナイロン製品を見るような目だった。


「……ごきげんよう。総務部の小松川リエと申します。本日からこちらに入寮することになりました」


 リエは脊髄反射で身についた「総務部用・対クレーム処理スマイル」を貼り付け、深々と頭を下げた。

 沈黙が落ちる。シャンデリアの微かな振動音さえ聞こえそうな静寂。


「総務部……備品管理課の?」


 なおみが、汚い言葉を口にするように呟いた。


「はい」

「聞いたわ。システムエラーで紛れ込んだ迷い猫がいるって。……まさか本当に来るなんて、図太い神経をしているのね」

「恐縮です」

「褒めてないわよ」


 なおみはふいっと興味を失ったように視線を外し、手元の洋書――どうやらフランス語の詩集のようだ――に目を落とした。

 その隣で、ポニーテールの女性――緑川ミドリが、くすくすと含み笑いをもらす。


「まあまあ、なおみ様。珍しいお客様ですこと。庶民の方がどのような生活様式をお持ちなのか、わたくし興味がありますわ。ねえ、小松川さん?」

「……はあ」

「これからよろしくお願いしますね。色々と、『教えて』差し上げますから」


 ミドリの笑顔は完璧だったが、その瞳の奥には、新しい玩具を見つけた子供のような無邪気な残酷さが宿っていた。

 リエの背筋に冷たいものが走る。直感が警鐘を鳴らしていた。

 黒髪の彼女が「女王」なら、このポニーテールの彼女は「道化」、あるいは「処刑人」だ。どちらに関わっても、平穏な結末はない。


「失礼いたします」


 リエは逃げるようにエレベーターへと向かった。

 背後から、「空気清浄機の出力を上げておいてちょうだい、ミドリ」「承知いたしました」という会話が聞こえた気がしたが、リエは聞こえないフリをしてボタンを連打した。


          ◇


 あてがわれた部屋は、3階の角部屋だった。

 カードキーをかざし、重厚な木製ドアを開ける。


「……広すぎる」


 そこは、リエが以前住んでいたワンルームアパートが三つは入りそうな広大な空間だった。

 クイーンサイズのベッド、大理石の天板を持つドレッサー、ウォークインクローゼット、そして窓の外には手入れされた中庭が一望できる。

 備え付けの冷蔵庫を開ければ、見たこともない銘柄のミネラルウォーターが整列し、バスルームには脚を伸ばせるバスタブが鎮座している。

 夢のような環境。

 しかし、リエの心は鉛のように重かった。

 ここには「生活」がない。あるのは「階級」だけだ。

 先ほどの二条なおみと緑川ミドリ。彼女たちの会話から察するに、この寮は彼女たちの王国であり、リエのような一般社員は本来、足を踏み入れてはいけないサンクチュアリなのだ。

 角紅商事において、二条という姓は特別だ。欧州支社長の娘であり、社内における影響力は計り知れない。下手に目をつけられれば、リエのささやかな平穏――定時退社と半額弁当のある暮らし――は一瞬で消し飛ぶだろう。


「……空気になろう」


 リエは荷解きもそこそこに、ベッドの端に腰掛けた。

 目立たず、騒がず、存在感を消す。

 朝は誰よりも早く出社し、夜は誰とも顔を合わせないように帰宅し、休日は図書館かネットカフェに避難する。

 そうやってこの場違いな1年(次の人事異動まで)をやり過ごすのだ。


 コンコン。


 不意に、ドアがノックされた。

 心臓が跳ね上がる。

 恐る恐るドアを開けると、そこには誰もいなかった。

 代わりに、足元に一枚のメモ用紙が落ちている。

 高級な和紙に、流麗な筆記体でこう書かれていた。


『共有スペースの掃除当番表です。新入りですので、まずはラウンジの窓拭きからお願いできますか? 明日の朝までに。 ミドリ』


 メモの下には、分厚いマニュアルのような冊子が置かれていた。

 リエは天を仰いだ。

 空気になりたいと願ったそばから、これだ。

 窓の外では、東京の夜景が皮肉なほど美しく輝いている。

 この時のリエはまだ知らない。

 この絢爛豪華な牢獄で、自分が「空気」どころか、女王様の「抱き枕」にされる運命にあることを。

 そして、明日起こるたった一つの事故が、彼女の人生を大きく狂わせることになることを。


 総務部備品管理課、小松川リエ。


 彼女の受難と下剋上の物語は、こうして静かに、しかし確実に幕を開けたのである。


【第2話予告:女王様と割れた100万円】

入寮から数日後。リエは共有スペースの掃除中、なおみが一番大切にしているヴィンテージワインのボトルを割ってしまう。しかし、それはリエを追い出そうとしたミドリが仕掛けた巧妙な罠だった。

床に広がる赤い液体と、散乱するガラス片。駆けつけたなおみは、言い訳しようとするリエを制し、冷酷に告げる。「これ、100万円するのよ。どう落とし前をつけてくれるのかしら?」。年収の低いリエにとって、即座に支払える金額ではなかった。絶望するリエを、ミドリは口の端を吊り上げて眺めていた。

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