第4章 ロシアの“覚悟”/ルール違反の自覚
第3章では、「支援」という名の関与が、戦争を長引かせる構造を生み出すこと、そしてその中で「終わらせる責任」を語ることの難しさを見つめました。
戦争に参加せずとも、戦争に加担してしまう。その曖昧な構図の中で、日本が果たすべき役割とは何かを問い直しました。
第4章では、ウクライナ侵攻という現実を前に、ロシアという国家が示した「覚悟」に焦点を当てます。
国際秩序の“外側”に立つという選択。ルールを破ることで、逆に“本気”を示すという構造。
そこに倫理はないかもしれない。しかし、国家の「生存」という論理が、戦争を駆動することもまた事実です。
この章では、ロシアの行動を擁護するのではなく、理解することの政治性を考えます。
敵を悪魔化するのではなく、構造として読むこと。
それは、日本という国が、かつて“ルール違反”の烙印を押された経験を持つからこそ、語れる視点でもあります。
戦争を始めるという決断は、どんな国にとっても究極の政治行為である。
ロシアのウクライナ侵攻は、確かに国際法上の侵略であり、明確なルール違反だ。しかし、その行動を
単なる暴挙として切り捨ててしまえば、事実の半分しか見えない。ロシアという国家は、自らが国際秩序の“外側”に立つ覚悟を決めた国である。その覚悟の根底にあるのは、倫理ではなく「生存」である。
プーチン政権が繰り返し語ってきたのは、「ロシアは包囲されている」という認識だ。
NATO の拡大、欧米の価値観の圧力、ロシア国内の政治的不満――これらが複雑に絡み合い、「自国の安全保障を守るための行動」としての侵攻が正当化された。もちろんそれは一方的な論理だが、他国の論理もまた自国中心である。国際政治は“正義の競争”ではなく、“恐怖の均衡”で成り立っている。ロシアが世界に突きつけたのは、この不快な現実の再確認だった。
宣戦布告をしなかったこと、それこそがロシアの最大の誤りだ。戦争にはルールがある。そのルールを破ることで、彼らは「野蛮」と呼ばれる立場を自ら選んだ。しかし一方で、ルールを破ったからこそ、彼らの“本気”が見えたとも言える。国際社会の圧力を受けながらも、撤退ではなく継戦を選んだということは、単なる権力維持のためではなく、「存在そのものを賭けている」という国家的意志の表れだ。そこに倫理はないが、覚悟がある。
欧米諸国は「ルールに従え」と言う。しかしそのルールを作ったのは、第二次大戦後の勝者たちである。ロシアはその枠組みの中で敗者でもあり、同時に戦勝国でもあるという、ねじれた立場に立ってきた。ソ連崩壊後、経済的にも政治的にも欧米に従属するかのような時期を経て、彼らは“従わない道”を選んだ。その意味で今回の戦争は、ロシアにとって単なる領土問題ではなく、“歴史との決別”だったのかもしれない。
もちろん、ロシアの行動を擁護することはできない。だが、彼らの動機を理解しようとすることは、和平を模索するうえで不可欠だ。理解と同情は違う。理解は対話の出発点であり、敵を悪魔化することは、戦争を長引かせるだけである。
日本は敗戦国として、同じように“ルールを破った国”の烙印を押された経験を持つ。その視点から見れば、ロシアの孤立は、かつての日本の孤立と重なる部分がある。
ロシアが宣戦布告をすれば、それだけで世界の反応は変わるだろう。ルールを破った者が、ルールの場に戻るための第一歩は「自覚」である。自らの過ちを認め、そのうえで生存を語る。そこにこそ、真の政治がある。ロシアがその段階に至るとき、戦争は終わる。
問題は、世界がその“帰還”を許すかどうかだ。許さないなら、次の戦争の種をまくことに
なる。戦争は終わっても、物語は続く。私たちはその構造を、もう一度見つめ直す必要が
ある。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、ロシアのウクライナ侵攻という現実を、単なる暴挙としてではなく、「国際秩序の外側に立つ」という国家的決断として捉え直しました。
そこに倫理はないかもしれない。だが、倫理ではなく「生存」を軸に動く国家の論理を理解することは、和平への第一歩でもあります。
敵を悪魔化することは、戦争を終わらせるどころか、長引かせる。
理解と同情は違う。理解とは、対話の前提であり、構造を見抜くための知性です。
そして日本は、かつて“ルール違反”の烙印を押された国として、ルールの外側に立つ者の孤独と論理を、他国よりも深く見つめることができるはずです。
次章では、その「ルール」そのもの――すなわち国際連合という構造に目を向けます。
正義の名のもとに機能するはずの国際秩序が、なぜ歪み、なぜ止まるのか。
「距離がくれる自由」という視点から、ノンポリ日本の立ち位置を再考していきます。




