第3章 代理戦争の倫理と現実
第2章では、日本人が持つ「中立的な精神性」――争いを避け、祈りによって秩序を保つという姿勢――を見つめ直しました。
その静かな構造は、政治的立場を超えて、世界との関わり方に深い影響を与えています。
第3章では、現代の戦争における「関わり方」そのものを問い直します。
ウクライナ戦争をはじめとする国際紛争は、もはや当事国だけのものではなく、武器・資金・情報・報道を通じて、世界中が“参加”する構造になっています。
その中で生まれるのが「代理戦争」という曖昧な関与のかたちです。
支援とは何か。責任とは誰のものか。
そして、日本はこの構造の中で、どのような倫理的立場を取るべきなのか。
戦争の“外側”から問いを投げかけることで、ノンポリ日本の思想的可能性を探っていきます。
現代の戦争は、もはや当事国だけで完結しない。
武器、情報、資金、報道――あらゆるものが国境を越えて動く。
ウクライナ戦争はその典型であり、「代理戦争」という言葉が再び現実のものとなった。
名目上は支援であっても、実態は戦闘の一部を担っている。
戦場に立たずして戦争に参加する、この曖昧な構図を私たちはどう考えるべきだろうか。
欧米諸国は、ウクライナへの武器供与を「防衛支援」と位置づける。しかし、支援を続けることで戦争が長期化し、犠牲が増えているのもまた事実である。ウクライナの人々の尊厳を守るため、という大義名分のもとで、実際には数えきれない命が失われている。
倫理とは、善悪を判断する基準であるはずだが、戦争においてはその基準が容易にねじ曲げ
られる。
「正義のための戦争」という言葉ほど、危ういものはない。代理戦争の恐ろしさは、支援する側に責任の意識が希薄になることだ。ミサイルを撃つのは他国の兵士であり、自国の市民が血を流すわけではない。だからこそ、戦争が「現実味のないニュース」として消費される。
画面の向こうで爆発が起こっても、視聴者の心には届かない。その一方で、政治的立場の主張だけが熱を帯びていく。SNS の時代、誰もが“評論家”になれるが、誰も“当事者”にはならない。これが代理戦争を長引かせる、もう一つの構造だ。
国際社会は「支援をやめれば侵略を許すことになる」と語る。しかし、支援を続ければ
続けるほど、和平の道は遠のく。相手国に「支援が続く限り戦える」という期待を与える
ことは、結果として戦争の継続を保証してしまう。どちらの側にも“勝利”という幻想が残
る限り、銃声は止まらない。戦争を止めるための勇気とは、支援をやめる勇気でもあるの
ではないか。
倫理的観点から言えば、「誰が正しいか」ではなく、「誰が責任を取るか」が問われるべ
きである。
戦争の悲劇を報じることは容易い。しかし、戦争を終わらせる責任を負う者は誰なのか。その問いに正面から向き合う国は少ない。自国の立場を守ることを優先する国際社会の中で、日本こそが「中立的な観測者」として、この問いを提示できる立場にある。戦争を批判することも、支持することも容易いが、どちらにも偏らず「終わらせる責任」を語る者こそ、真の意味での平和主義者である。
代理戦争の構図を支えるのは、結局、人間の“恐怖”である。恐怖が国を動かし、政治を
正当化する。しかし、恐怖を恐れずに対話を求めることができる国があるなら、それは日本だ。遠い国の戦争であっても、報道を鵜呑みにせず、どちらの論理にも耳を傾ける。その姿勢が、世界に必要な「中立の倫理」なのである
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、戦争が当事国だけで完結しない現代において、「支援」という名の関与がどのような構造と責任を生むのかを見つめました。
武器を送ること、資金を出すこと、報道を流すこと――それらすべてが、戦争の一部を担う行為でありながら、当事者意識を希薄にしてしまう危うさを孕んでいます。
「正義のための支援」が、戦争を長引かせることもある。
その構造を理解し、批判でも擁護でもなく、「終わらせる責任」を語ること。
それこそが、ノンポリ日本が担うべき思想的立場なのかもしれません。
次回は、第4章「ロシアの“覚悟”/ルール違反の自覚」。
国際秩序の“外側”に立つという決断の意味と、ルールを破ることで見える国家の本気について考えていきます。
どうぞお楽しみに。




