第 1 章 物語としての戦争報道
第0章では、日本の「ノンポリ的距離感」が、世界を見るための知的な武器であることを考えました。
第1章では、戦争報道がどのように“物語”として構成されているかを見つめ直します。
報道は事実を伝えるものですが、そこに感情や構成が加わることで、私たちは「物語の共演者」になっていきます。
その構造を読み解くことで、情報の時代における思考の姿勢を探ります。
戦争の報道を見ていると、ときどき奇妙な感覚に襲われる。
どのチャンネルを回しても、どのニュースサイトを開いても、同じ構図で物語が語られているように思うのだ。正義と悪、被害者と加害者、希望と絶望。カメラの角度やナレーションの抑揚、BGM の使
い方までが、まるでドラマのように整えられている。
もちろん報道は事実を伝えるためのものだ。しかし、現代のニュースは「事実を並べる」よりも、「理解しやすい物語に編集する」ことを優先しているように見える。
たとえばウクライナ戦争の報道を見てみよう。NHK のニュースは比較的冷静だが、それでも映像の選び方には感情の誘導がある。
焼け落ちた建物、泣き崩れる母親、避難する子どもたち。誰もが「かわいそうだ」と感じる場面が選ばれる。
一方、BBC ではさらに演出が巧みだ。リポーターが現場に立ち、風の音をマイクが拾う。臨場感のある映像に、低いトーンのナレーションが重なり、視聴者の心を深く動かす。だがそのどれもが、「何を見
せないか」という選択の上に成り立っている。
いまや、ネットを開けば海外メディアの報道もすぐに翻訳されて読める。便利な時代だ
と思う。しかし、翻訳されたのは「言葉」だけで、「意図」ではない。
どんな映像を使い、どの場面で音楽を止めるか。その編集の手つきこそが、報道を「物語」に変える。日本のメディアはしばしば欧米発のニュースを再翻訳して流すため、知らず知らずのうちに「国際社会の正義」というストーリーの中に組み込まれている。
それを悪意と決めつけるつもりはない。むしろ、報道が物語化するのは自然なことだ。
人は物語でしか世界を理解できない。複雑な現実を、感情のわかりやすい構図に落とし込
む。それが文明の知的習性であり、報道もまたその例外ではないのだ。
ただ問題は、物語があまりに強くなりすぎると、他の可能性を排除してしまうことにある。
SNS の時代になって、私たちは受け手であると同時に“共演者”になった。
誰かが投稿した戦場の映像に「いいね」を押し、感情を共有し、怒りや涙を言葉にして拡散する。その行為そのものが、物語の続きを演じることになっている。
ニュースを見て涙した自分を SNS に書く――それは現代の「参加型報道」だ。もはや報道はメディアの中だけにあるのではなく、私たちの感情と反応の総体として存在している。
では、どこまでが報道で、どこからが演出なのか。
この問いは実は答えがない。なぜなら、事実を伝えること自体がすでに“選択”だからだ。現場を撮ること、編集すること、放送すること。すべては「伝えるための構成」であり、構成がある限り物語性は消えない。だからこそ、視聴者である私たちが必要なのは、報道を「物語として読む」態度である。
感情を動かされた瞬間に、ほんの少し立ち止まって、「誰がこの物語を語っているのか」を考えること。それだけで、見える景色は変わる。
戦争は銃弾だけで行われるわけではない。情報の戦場もまた、現代の戦場の一部だ。
報道という名の“物語”が、誰かの正義を、誰かの憎しみを、そして誰かの沈黙を作り出している。
それを理解したうえで、私たちは画面の前に座る。
「ニュースを見る」という行為が、すでに物語の中の一場面なのだ
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、報道がいかに「物語」として構成され、私たちの感情に働きかけているかを見つめました。
事実を伝えるはずの報道が、構成と演出によって“物語化”される――その構造を理解することは、情報の時代を生きる私たちにとって、思考の第一歩です。
ニュースをただ受け取るのではなく、「誰が語っているのか」「何を見せていないのか」を問い直す。
その姿勢こそが、ノンポリ的な知性の核であり、沈黙の中にある理性の力です。
次回は、第2章「思想と立場 ― 祈りの体制に生きる日本人」。
日本人が持つ“中立”の感覚を、歴史と精神性の中から読み解いていきます。
どうぞお楽しみに。




