第0章 ノンポリは弱さか、才能か
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本作『ノンポリ日本』は、政治思想や国際問題を扱いながらも、特定の立場や主義を唱えるものではありません。
むしろ「なぜ日本はこうなったのか」「なぜ争わずにここまで来たのか」を、静かに見つめ直すためのエッセイです。
読み物として気軽に楽しんでいただければ幸いです。
いまの世界は、何でも「正義」と「悪」に塗り分けて語りたがる。
テレビをつければ、ウクライナは被害者、ロシアは侵略者。SNSを見れば、どちらの立場かを即座に決めろと迫る声で溢れている。けれど、私はどうにもその空気に馴染めない。戦争は本来、誰かが正しくて誰かが間違っているという単純な話ではない。そこには、それぞれの国の事情、地理、歴史、恐れ、そして打算がある。
戦争が始まった瞬間に、どちらの旗を持つかを求められる社会ほど、危ういものはない。
正義の側に立つと信じた人間が、相手を悪と決めつけた瞬間、思考は止まる。正義という言葉は便利だ。
人を疑わず、心の中の責任を軽くしてくれる。だが、正義を掲げた戦争ほど、悲劇を生むものもない。
ロシアとウクライナの戦争を見ていて感じるのは、世界が“物語”の中で安心しようとしていることだ。
ロシアの攻撃はもちろん容認できない。だが、ヨーロッパがウクライナを支援する理由が、本当に人道だけだと思う人は少ないだろう。
あれは地政学の現実だ。ロシアが勢力を伸ばせば、自分たちの国が危うくなる。だから武器を送り、資金を出し、けれど自国の兵は出さない。いわば代理戦争だ。言葉を飾ればきれいに聞こえるが、現実は冷たい。
それに比べれば、ロシアの行動はむしろ生々しい。許されるかどうかではなく、「自分たちの恐れ」に対して直接行動している。宣戦布告もせず侵攻したことは明確な違反だが、少なくとも自分の手を汚している。その覚悟は重い。
そうした中で、日本はどうだろうか。
遠く離れたこの国は、直接の当事者ではない。だからこそ、どちらか一方に肩入れせず、両方の論理を聞き、比較し、検証する立場を取るべきだったはずだ。だが現実には、欧米の報道をそのまま翻訳して流し、国民は「ロシアが悪、ウクライナが善」という単純な構図を疑いもせず受け入れている。
日本はもともと、政治的にはノンポリな国民だと言われてきた。だが私は、それを弱点とは思わない。むしろ、それこそが日本の才能だと思う。政治的な対立に強く染まらず、どんな価値観とも一定の距離を保つ。その「距離感」が、世界を冷静に見る目を育ててきた。
イランとの関係がその好例だ。アメリカともイランとも話ができる数少ない国。それは、どちらの正義にも染まらない国だからこそ可能だった。
日本のノンポリ気質は、もともと「対立の外側から見る力」なのだ。
争いの中に正義を見つけようとするより、争いそのものをどう終わらせるかを考える。その冷静さは、時に非情に見えるかもしれない。けれど、感情に支配された判断より、はるかに誠実だ。
ノンポリは逃げではない。無関心でもない。どちらの陣営にも与せず、すべてを見てから考えるという、勇気の形だ。
思考を保留する力、感情に流されない力。それを持つ国は、世界にほとんどない。
だから私は言いたい。ノンポリを恥じるな。日本の冷静さを、外交の武器に変えればいい。世界が「正義」という武器を振り回しているとき、日本こそ「中立という知恵」で橋をかける国になるべきだ。
この戦争を通して、日本がやるべきことは、正義の旗を振ることではない。情報を見極め、物語を疑い、そして「考える力」を取り戻すことだ。戦争の善悪を論じる前に、まず自分たちの目を鍛える。ノンポリ日本のやることは、黙ることではない。冷静に見て、語ることだ。
怒るのではなく、あきれること。それが、思考のはじまりである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本書で描いた「ノンポリ日本」は、無関心ではなく、むしろ成熟した静かな知のかたちです。
声を荒げず、争いを望まず、それでも確かに考え続ける――。
そんな日本人の姿を通して、私たちは“平和”の本質に少し近づけたのではないでしょうか。
本作は、ここでひと区切りです。
次回からは、もう一歩深く、日本人の思想的な基盤に踏み込みます。
次回は第2章「思想と立場 ― 祈りの体制に生きる日本人です。」お楽しみに。




