第3話 おっさんの蛮勇
ダンジョン変異。
それは別名、神の気まぐれと呼ばれるものだった。
もともとはただの建物だった地形などが突如としてダンジョンと化す現象で、日本全土で言えば一か月に一度どこかの地域で発生するくらいの頻度の物。
今までニュースでは聞いたことがあったが、実際に巻き込まれるのは初めてだった。
「どうすればいいんだよ、こんなの……」
俺は自分の視界の先に広がる地獄に、そう言葉を漏らさざるを得なかった。
何百匹も沸いているゴブリンは、丸腰の人間相手に暴虐の限りを尽くしている。1メートルほどの体からは想像もできないような怪力で、人間を殴り飛ばしていた。
ここにいる大半の人間はダンジョンに入ったことのない素人で、この惨劇を変える力などなかった。
唯一の例外があるとすれば、研究所の職員と博士はダンジョン経験者なのか武器を片手に交戦しているが、多勢に無勢で押されている。
それに、ダンジョン素人の俺から見ても、ここの研究員が戦いを本職にしているわけではないことが分かる。状況はかなり劣勢だった。
一人、また一人と倒されていく。
それを俺は、見ていることしかできなかった。
「俺が……何かできるわけがない」
きっと小説の主人公なら、ここで神様から与えられたチート能力でも発揮して、一人で戦況を変えていくのだろう。勇猛果敢に、目の前の化け物へ立ち向かっていくのだろう。
でも俺にはできなかった。
そんな力なんてなかった。
そんな度胸すらもなかった。
今までの44年間、ずっと逃げ続けて諦め続けていた人生だったのだ。今さら変えたいと思ったって無理なものは無理だと、自分にそう言い聞かた。
「怖いと思って、何がいけないんだよ」
人生で初めて、人外の怪物を見ているんだぞ。
これが通常の反応だろう。
むしろおかしいのは世界の方だ。俺は何も悪くない。
そう結論付けて、開き直ろうとする。でもそれが間違った考えであることくらい、自分が一番よく分かっていた。
「……本当に情けないな」
諦めていた人生を少しでも変えるためにここへ来たのに、結局何も変えられなかった。
自分がいかに無力で情けなくて臆病で、諦め癖が付いていてどうしようもない人間なのかということを、再認識させられるだけだった。
きっとここで奇跡的に生き残っても、明日街中を歩けばキラキラと輝いて人生楽しんでいる人たちを見て、悔し涙を流すのだろう。
快晴の青空を見ても、虚しく思うだけの人生。
「俺の人生……無意味だったな。一体どこで頑張れば、変われたんだろうな」
結局すべてを諦めて、俺は死を受け入れようとした。
目をつぶってその場に座ろうとしたーーだがその時だった。
「誰かお願い!ママを助けて!」
それは、小さな少女の精一杯の叫びだった。
慌てて俺は声の方を振り返る。
そこでは少女の母親がゴブリンによって首を絞められていた。苦悶の表情を浮かべ、それでも娘のために時間を稼ごうとしている母親と、それを何とか助けようとしている子供。
きっとこのまま何もしなければ、彼女らの命はもう残り幾ばくもなく果てるだろう。
「でも、俺には……」
助けられないと、また割り切ろうとした。
だが刹那、ふいに重なってしまった。
少女と、母を亡くした昔の自分が。
どうしても母親を助けたいという思いは、誰よりも自分が痛いほど分かっていた。
「俺は……」
でも勝てるわけがない。
何の力もない中年のおっさんが何かしたところで、何も変わるわけがない。
そんなことわかっている。
だからきっと今、俺の心の中に灯っている微かな炎は、ただの蛮勇なのだろう。
助けたいなんて分不相応な願いを、抱くべきではないのだろう。
そんなことわかりきっている。
誰かが彼女を助けるのを待つ方が合理的で。
自分がここで動くことは非合理的で。
そんなこと、全部わかっていた。
でも。
たとえそうだったとしても。
少女の涙が、悲痛に叫ぶその姿が。
母親の苦しげな表情が、それでも子を思うその気持ちが。
変わりたいと思っていた俺の心が。
心の中の何かを、動かした。
「その人を放しやがれぇえええええええ!」
無我夢中で、母親を掴むゴブリンめがけて突進していく。
普段走らないせいで、足腰がきしむ。
硬くなった筋肉が痛む。
それでも俺はゴブリンに向けて持てる力のすべてを持って体当たりをした。
ゴブリンは俺を見て驚いた様子を浮かべた後、手に持っていた女性への興味が俺に移ったのか、彼女を近くに放り捨て俺にめがけてやってきた。
「しゃあ!!」
目的を達成しガッツポーズをしたのもつかの間、次の瞬間俺は腹部にすさまじい衝撃を受け研究所の壁まで吹き飛ばされていた。
俺は口から血反吐を吐き、一撃で意識が朦朧とする。
さらにその直後、何発もゴブリンからの打撃を受けいよいよ俺は死を悟った。
「最後に一矢報いれて、よかった。でもようやく、初めて一歩を踏み出せたのにな」
やっと、諦めて逃げてばかりだった人生から変われると思ったのに。
ちゃんと向き合おうと思えたのに。
「くやしいな」
涙をにじませつつ、俺はとどめの一撃を喰らうはずだった。
しかし、最後の一撃は俺に届かず、目の前のゴブリンは真っ二つに切れる。
視界に現れたのは、血の滴った刃を持つ博士の姿だった。
「力無き者の勇気は蛮勇だ。とはいえ、かっこよかったよ。それに君のおかげで私を含めた全員の士気が上がったのは事実だ。感謝するよ」
「……そりゃあどうも。こちらこそ、助けてくれてありがとう」
「礼には及ばないよ」
そう言って博士は、俺に向かって謎の液体をかけた。途端、動かなくなっていた俺の体は最低限立ち上がれるまでに回復する。
「私のポーションだ。貴重だからありがたく思いたまえ。それより、今から一つ取引をしよう」
博士が戦場に似合わぬ笑顔で俺を見つめる。
「このままいけば、君は間違いなく死ぬ。あそこの親子も死ぬし、私も含めてこの研究所は全滅だ。そこで、君に頼みがある」
そう切り出してから、博士は俺に向かって告げた。
「どうせ死ぬ運命だ。私の実験に協力してくれないかい? 君ならばアイリスの中に眠る魔物の力を使いこなせると、私の直感が言っているんだ」




