第2話 垂らされた蜘蛛の糸
『科学実験への協力、報酬1000万円』
こんな言葉に釣られて集まるような人間は、俺を含めてどいつもこいつも死んだ魚のような目をしていた。
それが、目的地の科学研究所にたどり着いてまず最初に抱いた感想だった。
集まった人間の大半が俺と同じような3~40代のおっさん。彼らが全員独身であろうことは、その風貌から容易に察せられる。俺も独身だから気持ちが分かるのだが、結婚という夢を抱かなくなった人間は、容姿への関心がゼロになるのだ。
よれよれのシャツ、セットしていない髪、整えられていない無精ひげ、運動不足で膨れた腹、そして生気のない目。
まるで鏡を見ているかのようで、少し嫌気がさす。
「高津孝二さん。受付カウンターまでお越しください」
研究所の中にアナウンスが響きわたり、俺はカウンターへと向かった。
途中で気になったのは、被験者たちの中で一組だけ40代の母親らしき女性と10歳くらいの小さな女の子がいたことだった。
きっと彼女らもお金がなかったのだろう。
自分の生活に子供がいると考えたら、とてもお金が足りるとは思えない。もしかしたら今の俺よりも悲惨かもしれない。
「……この世は地獄かよ」
目の前の親子を見て、俺はふと昔のことを思いだしていた。
俺が5歳の頃に父が亡くなって、そこから母にずっと苦労を掛け続けながら育てられたこと。
昼も夜も仕事をしていた母にずっと、申し訳なかったこと。
そして俺が高校生の時に母が過労で倒れて、もう二度と起きてくれなかったこと。
どうすればあの時母親を助けられたのだろうのかと、いつもつい思考を回してしまう。
「クソが」
そんなどうしようもないことを考えていたら、カウンターにたどり着いていた。
そこで簡単に健康診断を済ませる。そして必要事項を記入したら受付の女性に連れられ、研究所の奥へと案内された。
そしてたどり着いたのは、俺らはとある大教室のような場所だった。
受付の女性は案内が済んだとばかりに、すたすたと受付へ戻っていく
取り残された俺は独り、大教室の中に入った。
中にいたのは席に座った100人ほどの被験者たち、壇上に置いてある布がかぶさった全長3メートルくらいの謎の物体。そして被験者の目線の先、壇上に立っていたのは白衣を着た一人の女性だった。
黒い髪を無造作に頭の後ろで束ね、ふちの大きい眼鏡をかけているにもかかわらず、いやむしろかけているからなのかは知らないが、顔の造形は遠目で見ても整っていると感じた。
30代くらいの美人な女性といったイメージだ。
「諸君、今日は集まってくれてありがとう。私はこの研究所の所長である鈴音凛だ。博士とでも呼んでくれたまえ」
俺を含めた全員が着席したところで、壇上の博士はそう話を切りだした。
「さて、それじゃあまずは早速、今回君たちを集めた理由である実験の具体的な内容から話そう」
そう言って博士は壇上を歩くと、布が覆いかぶさっている謎の物体の元へ近づき、その布を引っ張り謎の物体の正体をあらわにした。
それは、巨大な試験管だった。
そしてその試験管の中には、1人の少女が入っていた。長い髪や目などが雪のように真っ白な彼女は、まるで電源の切れた人形ように動かない。
「彼女の名はアイリス。正式名称は、自律機動型邪気貯蔵歩兵・プロトタイプIRIS。私の作り出したアンドロイドだ」
瞬間、周囲に動揺が走る。当然だ。あまりにも目の前の彼女は得体が知れない。
なにより、目の前の彼女がアンドロイドだとは、信じられなかった。
少なくとも、こんな人間のような見た目をしているアンドロイドが今現在2025年に存在しているなんて話を、俺は聴いたことがないのだから。
そんな慌てる様子が面白かったのか、博士は少し間を開けてから告げた。
「さて、少し彼女について補足で説明しておこう。アイリスは、魔物の体内に流れる力の源『邪気』を蓄える機能を持っている。そしてここからが本題だ」
集められた被験者は、もう誰も言葉を発さなくなっていた。ただ黙って、博士が次に発する言葉に耳を傾ける。
「君達には今から、魔物の力の源である邪気を体内に取り込んでもらう」
「……えっ」
「うまく適合すれば人の身でありながら魔物の力を行使できるようになる。ただ当然適合できず免疫反応で死ぬ場合もあるし、体が魔物に変貌したりすることもあるだろう。正直人間を用いた人体実験はサンプルが少ない分、そこらへんはまだ未知数だ。そこを確認するための人体実験でもあるからね」
博士の言葉に誰も反応できなかった中、大教室の中の誰かが質問をした。
「それって、今まで何%くらいの人がうまくいったんですか?」
「0%さ。今までの被験者は、全員例外なく適合できなかったよ。だからこそ、君が最初の一人目になろうではないか! 1000万円をつかみ取るんだ!」
瞬間、周りから怒号や困惑の声が溢れる。
「ふざけんなよ!」
「いくらなんでもそれはねぇだろ!」
「体が魔物になるって……」
俺自身も今までにないくらい困惑していた。
当然だろう。
誰も成功したことのない実験に協力するなど、ただの特攻だ。
死ぬか、死なずとも体が人の形を保てなくなる人体実験。考えるだけで身の毛がよだつ。
なにせ、いくらダンジョンと縁遠い生活をしていた俺でも、魔物がどれくらい醜悪な見た目をしたものがいるかを知っているのだから。
緑色の表皮をまとい、尖った犬歯が口からはみ出ているゴブリン。
体長三メートルほどの巨体と分厚い皮下脂肪、常にぬめぬめとした液体がまとわりついているオーク。
そういった魔物に体が変貌してしまうのは、下手をすると死ぬよりも怖い。
全員が俺と同じような思考になったのか、怒号は鳴りやまない。
付き合ってられるかと、続々と被験者が大教室を後にする。
俺も大多数の人間と共に、帰ろうと立ち上がったーーその時だった。
災害とはあまりにも、全ての人間の意思とは関係なく気まぐれに降り注ぐ。
『緊急避難警報。緊急避難警報。当施設からおよそ300メートル先の地点より、ダンジョン変異を確認。当施設も、間もなくダンジョン変異に飲み込まれます』
刹那、研究所の中から人工的な光は消え、白く清潔だった壁は赤黒い岩肌のような物へと変わる。
無臭だった空間は突如として血生臭いにおいへと変貌し、そして……。
「嘘、だろ」
研究所の中に、突如として大量のゴブリンが出現する。
彼らは下卑た笑みで俺たちを見て、気色の悪い鳴き声を上げていた。