影を狩る者たち
短編小説その3
夜は深く、月明かりさえ雲に隠れていた。
街路灯の途切れた小路を、一人の少年が駆け抜ける。
少年の名はカイル・レイズハルト。影を狩る一族の最後の生き残りだった。
その夜、カイルは奇妙な違和感で目を覚ました。
家の周囲を包む空気が、まるで底なし沼のように重く、冷たい。
――来たな、と直感が告げる。
壁に掛けられた黒鉄の双剣を握り、扉を蹴破る。
庭先には、月のない闇の中、黒い影が揺れていた。
人の形をしている。だが、それは人ではなかった。
「“影喰い”か……!」
影喰い――人間の影に寄生し、魂を蝕む魔物。
かつて人々に恐れられた存在だが、今や知る者はほとんどいない。
影を狩る者たちが数百年にわたって封じ続けたからだ。
だが、カイルの一族は三年前、謎の集団に襲われ壊滅した。
今日まで彼は、ただ一人生き延びてきたのだ。
「……一匹なら、問題ない」
呼吸を整え、腰を落とし、双剣を交差させた瞬間――
黒い影は、笑った。
目も口もないはずなのに、確かに“笑った”とわかった。
「待っていたぞ、狩人の末裔」
「……なに?」
影は低く、湿った声で囁いた。
「目覚めの時は近い。封印が破れれば、すべては“影”に還る……」
その言葉の直後、影は霧散した。
だが、冷たい恐怖だけが、胸に深く突き刺さっていた。
翌朝、カイルは王都ヴァルハイートの片隅にある酒場を訪れた。
彼にはここで会うべき人物がいる。
影を狩る一族と同盟を結んだ“最後の仲間”たちだ。
酒場の奥の円卓には、すでに三人が集まっていた。
リリア・フェリスは、元宮廷魔導師で封印術の専門家。
ガルド・ハウドな、斧を担ぐ巨漢の傭兵でカイルの戦友。
エリオット・シュタリンは、神殿所属の祈祷師で影の呪いを解く力を持つ。
「遅かったな、カイル。で、どうだった?」
ガルドが豪快に酒杯を掲げながら訊く。
「出た。“影喰い”だ。それも、普通じゃない」
「……まさか、封印が?」
リリアの声が震えた。
エリオットが祈祷師の杖を握りしめ、低く言った。
「封印が揺らげば、“あれ”が戻る……」
「あれ?」カイルが問い返す。
「――“影王”だ」
その名を口にした瞬間、空気が凍った。
影王とは、千年前に封じられた“影そのもの”を司る存在。
影を喰らい、影を操り、ついには世界を闇で覆い尽くそうとした魔神だ。
封印は人類史最大の犠牲を払って成された――はずだった。
「影王を復活させようとしている奴らがいるってことか」
カイルの拳が自然と強く握られた。
「動くしかない。影を狩る者たちが滅んだ今、お前が頼りだ」
リリアの瞳は揺るぎない決意に満ちていた。
その夜、四人は王都地下水路に潜った。
最近、ここで影に取り憑かれた人間が頻発しているという。
地下水路の最奥、巨大な石扉の前で足を止めたとき――
突然、影がうねるように襲いかかってきた。
「来るぞ!」カイルが叫び、双剣を抜く。
十、二十……影は尽きることなく湧き出す。
ガルドの斧が闇を裂き、リリアの魔法陣が火花を散らす。
だが、その中心に、一際異質な存在が立っていた。
漆黒の鎧を纏った男――影狩りの裏切り者。
「やっと来たか、カイル・レイズハルト」
その声に、カイルの目が見開かれる。
「まさか……叔父上……?」
かつて一族を裏切り、影王復活を目論む者――
レオン・レイズハルト。カイルの父の弟だった。
「封印はもう長くは持たん。だが、影王を完全に蘇らせるには……
“お前の影”が必要だ、カイル」
レオンの剣が火花を散らす。
双剣で受けるたび、腕が痺れ、骨まで軋むような衝撃が走る。
「お前も気づいているだろう?」
レオンは笑う。
「お前の影は、封印の鍵なんだよ」
「ふざけるな!」
カイルは怒号とともに跳び、影を裂いた。
だが、影は再生し、絡みつき、彼の体を蝕もうとする。
「カイル、駄目だ!」
リリアの声が飛ぶが、もう遅かった。
カイルの影が、勝手に動き出したのだ。
そして、背後の“影の門”が低く呻きながら開き始める。
眩い光とともに、影王が降臨した。
それは人の形を模していたが、顔はなく、ただ虚無の闇だけが広がっていた。
『……久しいな、我が器よ』
「器……だと?」
『お前の血も、お前の影も、我を甦らせるためにある』
圧倒的な闇が四人を飲み込もうと迫る中、
リリアが封印魔法を完成させ、エリオットが祈祷の詠唱を終える。
「カイル! 剣を心臓に突き立てろ!」
その言葉の意味を悟った瞬間、カイルは迷わなかった。
双剣を胸に突き立て、自らの影ごと影王を封じる。
光が弾け、闇が絶叫し、世界が再び静寂に包まれた。
数日後、王都の空は晴れ渡っていた。
影王は再び封印された――だが、カイルの姿はもうなかった。
「……ありがとう、カイル」
リリアは青空を見上げ、微笑んだ。
だがその影で、誰かが囁く。
『まだ終わってはいない――』
ありがとうございました