第九話 チャイナドレス
居酒屋のアルバイトで、いまだに慣れない仕事のひとつが、スーパーへの買い出しである。
仕入れと聞けば、業者を通して伝票と照らし合わせながら検品する、そんな形式ばった仕事を想像していたのだが、原口家の居酒屋においては、まるで主婦の買い出しのごとく、ふつうのスーパーに足を運び、値札とにらめっこするところから始まる。そこに漂うのは業務用の冷ややかさではなく、生活臭と雑多な喧騒である。
しかしこの日の買い出しは、そんな生ぬるい日常感すらどこかへ吹き飛んでしまっていた。
――時江ちゃんが、赤のチャイナドレスを着ていた。
それも、立ち襟にスリット入りの本格仕様で、ボタンが斜めに並んでいるやつである。太ももが覗くたびに、私は理性を覗き込まれているような錯覚を覚えた。
「……スーパーの冷房、効きすぎやなあ」
などと無邪気に呟いている彼女の足元は、ぺたぺたとサンダル履きで、まるで夏の縁日の風情だ。
「なあ、それ、なんで着てきたんだ?」
「なんでって、ウチが着ろって言われたからやん。あんた、聞いてへんかったん? 今日から中華ラーメンフェアやって言うてたやろ、親父が」
なるほど。あの原口氏のことだ、また何かと奇抜な戦略を思いついたに違いない。和風居酒屋でラーメン。それもチャイナドレス付きの。
「……なんで買い出しにもその格好のまま来るんじゃ」
「時間ないし。そもそもウチが買い出しのためだけに私服に着替えて、店戻ったら、また着なおしになるやろ? めんどいやん。ほら、メモ。もやし三袋、チャーシュー用の肩ロース二パック。あと……メンマは忘れずにって」
渡されたメモを受け取りながら、私はどうしても目線が泳いでしまう。鮮魚コーナーの銀色の照明が、彼女の太ももに反射してきらきらしている。ついさっきまでプールで見た水面のきらめきを思い出した。
「……もしかして、見とった?」
と、時江ちゃんがにやにやしながら顔を寄せてくる。
「いや、あの、別に……その、チャーシューだな、うん」
「ーん。じゃあこの太ももはチャーシューってことで」
「……!」
思わず咳き込んだ。見事にしてやられた気分だ。
妙な格好の二人が、スーパーの通路を大量の袋を下げて歩いているのだから、目立たぬはずがない。店員も客も、すれ違いざまにちらりと目線をよこしてくる。私のほうは原口家のユニフォームである黒い作務衣に腹掛けスタイルである。和と中の奇妙な取り合わせに、視線が集中するのも無理はなかった。
「次、冷凍食品コーナーな。餃子は……えーと、どこのにする?」
「どこって、冷凍餃子って要る? ウチ、生から包むつもりでおったんやけど」
「……え、それって俺らが?」
「うん、うちと、あんた。あたりまえやん。人手ないねんから。仮にも居酒屋で冷凍食品なんてアホか?」
私はその場に立ち尽くした。確かに、厨房で餃子を包む手元に、あのチャイナドレス姿が並ぶ画を想像すると、悪くない――いや、そういう話ではない。これは労働の話だ。
「いや、でも俺、餃子の皮をやるには不器用だし……」
「へえ、じゃあ太ももに見とれてたくせに餃子も包めんのかってお父さんに言うとこかな?」
「や、やります、やらせていただきます!」
私は両手にレジ袋を提げたまま、敬礼の構えで応じた。
時江ちゃんは、やれやれといった様子で笑った。
「しゃーないなあ、あとで特訓したる」
その言葉に、私の背筋がふっと伸びた。チャイナドレスのスリットのごとき、何するものぞ。恥をかかぬほうが先決である。いや、叶うものなら、平然と恥を包む度量も必要である。それこそ具を精一杯詰められた餃子の皮のごとく。