第七話 廃屋の住人
我が破れ長屋の裏手には、それと大差ない住居を構える一家がある。大差ないというのは少々世辞が過ぎた。もっと、輪にかけてひどいところに居を構える一家があるのだ。屋根の一部は剝がれ、壁は崩れ、ブルーシートで無理やり隠している、とても人間の住むべき場所ではないと私は断言する。海外の難民キャンプなどの悲惨な環境に置かれているのならまだしも、ここは日本である。あんなところに住んでいるのは、公の場に出れない潜伏者の類いに違いない。
何かの拍子に、裏の畑で野焼きをやるよう母親から言われた際には、決まってその廃屋の横を通り過ぎる。不気味としか言いようがない。
刈り取った雑草や剪定した枝葉を積み上げ、新聞やダンボールを発火剤代わりに火をつけて始末する。これを野焼きという。現代では法的に問題があるはずだが、ここら一帯では平然と白煙なり黒煙が立ち昇る。ちなみに、私には放火魔の才能はないらしく、何度やっても空しく火種は消えてゆく。気がつけば空気を送り込むための団扇で自分に風を送っていた。
そんな折であった。いつの間にか背後に気配があった。草を踏む音がして、私は慌てて団扇を持つ手を止めた。
「こんにちは。……あんた、まだ火つけとるん?」
畑の柵の向こうから、時江ちゃんが顔を覗かせていた。麦わら帽子を少し傾け、白いTシャツの裾をつまみながら近づいてくる。ついさっきまで台所にでもいたのか、指先に粉らしきものがついている。
「お、おう。……ちょっと母ちゃんに頼まれてな」
「ふーん」
彼女は私の傍らの枝葉をちらりと見てから、火種を確認するでもなく、ゆっくりとしゃがみこんだ。
「これ、濡れとるやつ混ざっとるね。そりゃ火、つかんわ」
「そんなことは、分かってはいる。一応、乾いたやつから燃やしてるんだけど」
言い訳めいて聞こえたのか、時江は鼻で笑った。彼女は手近の枯れ枝をひとつ取り、足元の火床に突っ込むと、やおら手を差し出して言った。
「軍手、貸して」
「あ、ああ」
私は鞄の中から使いかけの軍手を引っ張り出した。さっきまで自分が使っていたものだ。差し出した瞬間、はたと気づいた。手のひらにじっとりと汗をかいていたことを。指先までしっかり染みている。これは……。
(まさか気づかれてないだろうな……?)
時江ちゃんは何も言わず軍手をはめた。指先でちょっとくいっと馴染ませるような仕草をしただけだ。私の心拍は、新聞紙より早く燃え上がりそうだった。
「火つけるのってコツあるんよ。生木とか湿ったやつは、まず燃え移すのに邪魔やけえ、こっちにどけて……。んで、こう、空気が下から通るように、組む」
彼女は手際よく雑草の束を動かし、新聞紙を適度に裂いて芯の部分に詰める。そして、ライターで火を点けた。
――ぼっ、と音を立てて火が立った。
乾いた枝がパチパチと爆ぜる。煙が目にしみた。私は思わず目を細めた。
「さすがに慣れてるな……」
「ウチ、畑の手伝いもようやっとるからね。誰かさんとは違って」
「なんだその特定の個人を指した言い方」
「ホントのことじゃん。自然薯堀る時も手伝うふりばっかだったし」
そう言って時江ちゃんは笑った。火はさらに勢いを増し、枝葉の間から生木が焼ける湿った匂いが立ち上った。白い煙がぐんぐん空へと伸びてゆく。
「煙、来とるよ。ほら、下がって」
「う、うん……目が……」
私は後ずさりながら、団扇で煙を逃がそうとした。だが、大自然の力の前では無力に等しい。煙は私の顔面をめがけて真正面から襲ってくる。
「要領悪いなあ。貸して」
時江ちゃんは私の手から団扇をひったくると、にやりと笑って――私の顔に向かって思いっきり仰いだ。
「うおっ!?おい、何すんだ!」
「煙は逃がすもん。攻撃じゃない」
「だったら人に向けるな!」
「だって、こないだウチの大事なとこに放水したやろ? おあいこやって」
「それは事故だって!」
「でも楽しかったやろ?」
「……まあ」
そんな具合に、煙の中で笑い合う我々を、どこかのカラスが枝の上から見下ろしていた。くるぶしにまとわりつく草の匂いと、火の粉の香ばしさが混じり合い、どこか懐かしい夏のにおいがした。もっとも、これまで私が避けてきた野良仕事のにおいを久しぶりに嗅いだにすぎないのだが。
日が暮れた。野焼きの跡地には灰と煤のにおいが残り、風がそれを細長く引き延ばしていた。
「……あんたんち、こっち?」
時江ちゃんはサンダルのまま土を踏みしめ、私の背についてくる。私は破れ長屋の脇に通じる細道を先導していた。
「ま、あまり見せられるようなもんでもないけど」
「っていうか、やばない? これ住んどる人おるって思われへんよ」
うちの長屋を見た時江ちゃんの第一声がそれだった。事実、石畳の上にマットを敷いた一角を除けば、農作業のための物置そのものだ。おそらく人が住むことを想定して建てられていない。
「そりゃまあ、見た目は……あれだが、中はまだマシだ。ほら、入れよ」
サンダルを脱ぐか脱がぬか迷っていた時江を押し入れ、ちゃぶ台の脇に腰をかけるよう促した。私は冷蔵庫から缶ジュースを取り出して渡す。彼女は「ありがと」と言って、タブを開けながら辺りを見回した。
「……生活感、ないね」
「寝に帰るだけだからな」
しばらくの沈黙の後、時江ちゃんはぽつりと切り出した。
「そういや……うちの母親、いまだに言うてるんよ。連帯保証人の件」
「……あれは俺が勝手にやったんだ」
時江ちゃんは缶を机に置いた。それから鞄をごそごそとまさぐり、封筒を取り出す。
「ほら、これ。少しだけやけど、返そう思て」
「いらんよ。今さらそんな情けは受け取らん」
「情けちゃうって。そういうことじゃなくて――」
その瞬間、部屋が一瞬だけ、白く明るくなった。
私は反射的に立ち上がった。火の粉か。さっきの野焼きがくすぶっていたのかもしれない。
「ちょっと、火ぃ見てくるわ」
「えっ、今? もう暗いで?」
私はスマホを手に取り、ライトを点けた。ポケットの中でまだほんのり温かい団扇が揺れる。足早に表へ出て、焼け跡のある畑に向かうと――
そこに、火の玉が浮かんでいた。
青白く、小さな、まるでウズラの卵くらいのサイズのそれが、すっと空中を滑るように進み、裏手の廃屋の軒下に吸い込まれていった。
……ぞわり、と背筋を這うものがある。
「な、なに今の……!」
背後から時江ちゃんの声がした。振り返る間もなく、彼女は私に体当たりするように突っ込んできた。
「ぎゃあああああああ!」
「うおっ――!」
突き飛ばされて私は草の上に転がった。背中に湿った土の感触。時江ちゃんは半ば叫びながら走り去っていった。どこに向かったのか分からない。ただ、悲鳴だけが耳の奥に残る。
しばらく動けずにいた。だが、やがて冷静さが戻ってくる。
(あれは何の光だったんだ?野生動物の瞳には見えなかったが)
私は土を払い、足をふらつかせながらも立ち上がった。廃屋へと向かう。戸口は外れかけ、壁の隙間から中を覗ける。スマホのライトを消した。光がない方が、見える気がしたのだ。
そして、見えた。
室内に、火の玉が三つ、ふわりと浮かんでいる。その下には、人影。いや、人影というにはあまりに小さく、ねじくれた影法師。シミのような背中。歪んだ腰つき。二人か三人か、よくわからない。
「……まだかの」
「くすぐるような気配がせんこともなかったが」
「今夜こそ、ええとこまでいくかと思ったのに」
ぼそぼそと、会話が聞こえた。火の玉の合間で、しわがれた声が交わっている。
「なんや、あの娘、見た目の割に潔癖やないか。もっとこう、押し倒す流れに期待しとったんに……」
「若い者は意気地がない」
「いやいや、今日のあれは惜しかった。もう少しで、指が絡むかと思ったんや」
私は、ただ茫然と立ち尽くしていた。
(……なんだ、これは)
廃屋の中で、朽ちかけた人影たちが、私と時江ちゃんの情事を、いや、妄想を前提に語らっている。あたかも、それが生きる最後の希望であるかのように。