第五話 町おこし探検隊と女
料理の匂いが衣服に染み付くのは承知の上だが、どうもこう毎日のように出入りしていると、私の体臭そのものが塗替えられているような気分になった。破れ長屋には風呂もなければ洗濯機もない。シャワーだけは店のものを借りて凌いでいるが、シャワールームから一歩出れば鶏肉とニンニクの匂いに襲われるのであまり意味をなさない。
「おい」
「はい?」
原口氏がチラシを突き出した。
「これ、興味ないか?」
紙面には探検とか発掘などの文字が見て取れる。どうせなにかの観光イベントだろうと思いきや、「精鋭をもって万難を排し、古をして新たな資源とす……」などと剣吞な文句が並ぶ。
(変な団体だったら困るな)
もしそうだとしたらそれこそ万難を排してでも断る気でいたが、地元の観光協会や商工会議所がチラシの片隅に載っている。まるで身分証のように。
「加藤さんって覚えてるか?ちょっと紳士っぽい社長の人」
「あー……。なんとなくは」
整備工場の経営者である加藤氏のことはおそらく私よりも陽くんの詳しいだろう。陽くんはバイクや自動車趣味の関係で加藤氏の工場に出入りしていた。彼が引っ張って来たのか定かではないが、加藤氏は部下や友人とともにこの居酒屋の常連客となっている。
「その加藤社長がな、人手を集めてる。町おこしのための起爆剤に、色々発掘するらしい」
「そうなんですか」
私は加藤氏の人柄をよく知らないが、地域貢献を標榜する篤志家というからには立派な人格の持ち主なのだろう。車検ために工場を訪れる顧客向けに協賛品のトイレットペーパ―とビールの割引券を玄関先に並べさせてもらった時には、加藤氏が私なんぞのために挨拶に来た上、アイスコーヒーまで出してくれた。もっとも、原口氏も日頃の謝礼のつもりで、半ば寄付のような協賛であったから、私の身分をよく知らない先方の応対も不思議ではないのだが。
市内の丘陵地帯には明治期の煉瓦造りのトンネルや用水路が点在していたらしいが、現在では交通網の発展とともに忘れ去られ、位置の特定さえ困難を極めるという。
これらの旧跡を発掘整備して観光地に仕立て上げるための試みであることはチラシの内容からなんとなく察せられるが、とにかく文言が堅苦しくてかなわない。もっとフワッとした感じの、お子様連れ大歓迎的なものにできなかったのか。集合場所が廃ホテルというのも、不気味な感じを際立たせた。
ともかく私は発掘現場に出向かねばならない立場の人間である。原口氏との力関係、放逐された髙橋さんの代わりとしての責務が重くのしかかっていた。課せられていた学生バイト集めもしくじった以上、引き受けて当然の仕事だった。
ガタガタ電車に揺られて来てみればそこは渓谷であった。
川のせせらぎと呼ぶにはあまりに逞しい轟音を聞きながら問題の廃ホテルに到着した。思っていたよりも小綺麗な場所だったので少し安心した。どうやら廃業してからあまり時間が経過していないようだ。
続々と車が廃ホテルの駐車場に入って行く。集合場所にここが選ばれた理由も合点がいった。
「皆さんよく集まってくれました。まだ時間はありますからトイレへ行きたい方は建物の中を利用してください。オーナーの島本さんが案内してくれます」
腕時計をチラ見しながら加藤氏が声高に伝えている。
何人かを引き連れて玄関に向かう案内人の面構えを見て、私は戦慄した。貸倉庫に踏み込まれた時よりもその動揺は大きかった。
あの女である。石灯籠と松の木をかっぱらっていった、あの女である。
あえて詳細は言わぬ。せいぜい三度ほどしか対面したことのない島本一美を私はひどく恐れた。これまでなんだかんだで、負けても痛くも痒くもない勝負しかしてこなかった私を泥沼に叩きつけかねない迫力が島本にはあった。
鍵束をジャラジャラ鳴らしながら、島本は近づいて来る。そっと群衆に紛れて建物に私は入った。廃ホテルというのは名ばかりで、まだずいぶんと綺麗だった。入り口の壁面には陶磁のパネルが埋め込まれ、涼やかさを演出している。
「前に会社の忘年会で来たことあるけど、昔と変わらないですね。入り口の壁もよく覚えていますよ」
「けっこう有名な陶芸家に頼んで作ってもらったらしいぞ」
「高値で売れそうなのに、引っぺがそうとは思わないんですかね?なかなかホテルの買い手がつかないんでしょ?」
「しっ!聞こえたらどうする!崖から突き落とされても助けてやらないからな」
トイレではこんな会話している連中と一緒になった。
正直あまり興味が湧かなかった。
ともかく探検というものは大人たちの童心をくすぐるが、鼻をくすぐるような良い香りを漂わせているわけではない。
渓流を遡上する私は文字通り草の根を搔き分け探し物をしている。後ろを振り返ると細長い獣道みたいな足跡が頼りなく付き従っている。
水草と泥の悪臭が時おりに鼻につく。土の温もりなどとのたまう世間知らずな連中にこの嫌悪感はわかるまい。共生など知ったことか。我々が屈服するか征服するかの二択でしかないのだ。
水路トンネルを発見した私は鼻が曲がるほどのダメージを負った。
我々は半年がかりで十四の煉瓦建築群を探し当て、整備した。給料は出ない。離脱者はもちろん続出した。一部の好事家と、採算ありげの企業家たちは相変わらず血道をあげているが、私のようなしがらみだけで参加している人間は誰一人としていなかった。私だけ得るものがなかった。
そもそも、何かが欲しくて探検に身を投じわけではないはずなのに、水草と泥と格闘しているあいだ、わずかばかりの期待を胸に抱いてしまっていた。
そんなある日、ふらつきながらも無人駅のベンチにたどり着き腰を下ろした私の耳には水の轟音が一定のリズムで届いていた。まるで壮大な演奏会である。指揮者はおそらく私だろう。私の意識が遮られた時が終わりの合図だ。
待ち時間はあまりに長い。居眠り寸前の意識の中で、この事業の行き着く先が脳裏をよぎる。煉瓦群には、この渓谷に再び人々を呼び込むほどの吸引力はない。せいぜい年に数回見学ツアーを打つのが精一杯といったところだ。じゃあ、何のために?地域振興のためなのか、はたまた私情のためか。いい歳した大人たちのどこから資金と労力と情熱を引っ張り出しているのか、私には理解できなかった。