第四話 バイトリーダー粛清
悪運の凄まじさにおいてのみ、私には自信があった。周囲に負担を押し付けているとも言えるが、これも持って生まれ持った性分とも言えなくもない。
「おい、早くしろ」
注文ついでにお客と談笑していると、厨房から店長の呼ぶ声が聞こえる。実を言うとこれで二回目である。するとお客のほうが申し訳なさそうに、
「ごめんね、呼び止めちゃって」
と言うので私も別に悪い気はしない。
「おい」
「はい」
スリッパを履いたそばからまた呼ばれるので、生返事しながら厨房に戻り、店長に小言を言われながらジョッキに生ビールを注ぐ。そしてまた運ぶ。半分くらいはこの繰り返しだ。勝手知ったる我が家とまではいかないが、勝手口を自在に出入りしていた我が身を思えば、これほど気安い働き口はないだろう。ここまで書けば今更申すまでもあるまいが、私は原口家の居酒屋でアルバイトをしている。
店長の原口氏はなかなか漢気の強い人物で、私の苦境をどこからともなく聞きつけるや否や颯爽と現れ、釣り糸代わりに蜘蛛の糸を用いて私を一本釣りしたのである。
今までの無銭飲食の清算をさせる気かと思いきや、バイト代とは別に小遣いまでくれるほどの歓待ぶりである。これは私の当て推量だが、原口氏には原口氏なりのメリットがあってこんなことをやっているらしく思われた。
もともと原口氏は原口夫人(私と血縁関係のある親戚)の婿として、当時傾いていた我が家の家業を一時的に立て直し、いよいよ危ないとなれば素早く商売替えを決断したという経歴の持ち主である。そうして始めた居酒屋もだいぶ繫昌しているのだから、外側から見るとかなり優秀な人材ということで通っている。もっとも、居酒屋の開業資金のほとんどは祖父のポケットマネーから出ていたし、土地と建物は社屋を転用すれば安上がりで済む。私の父は『与えられた成功』と原口夫妻を揶揄していたが、持てる手札を切って商売を成立させるのも実力のうちであろう。そのうえ原口氏自身は、
「いずれはこの店を返還したい」
と言って、居酒屋のオーナーは夫人とし、自らはあくまで雇われ店長の立場に甘んじている。
ある種の郷愁とも言うべきか。
かつて臼山氏が祖父を見出し、祖父は原口氏に後事を託した。彼らからすれば引き継がれるべき美談であったろう。だが、私にとってそのバトンは手に余る。
ゆえに店ではあからさまに手を抜いた。トラブルの前兆に気づいても見て見ぬふりを貫き通し、ことが大きくなって初めて対処する。この行為に私はひどく安堵を覚えた。
それでも原口氏は私を見捨てようとしない。むしろ至上の喜びを嚙みしめているように私には見えた。説教にもどこか親しみと愛情があった。
はっきり言って吐き気がする。私を起用すれば破滅への道をうなぎ登りに登ってそのうち竜になること明白である。鯉ではなく鰻だから余計に質が悪い。
私がこの居酒屋でアルバイトを始めて間もなく、事件が起きた。
長年にわたり原口氏に尽くしてきたバイトリーダーの高橋さんが突如放逐されたのである。彼はなんの因果か原口家の居酒屋を心から愛していた。
「学校を卒業してもここで働きたいです」
ゆくゆくは店長になりたいとまでほんの数か月前に語っていた高橋さんが、わずか数分の出来事で将来設計を台無しにされる瞬間を私はこの目で見た。
「おい、ちょっと包丁握ってみろ」
午前十時過ぎ、ちょうど仕込みを始めた時のことだ。
「テストしてやる」
原口氏は高橋さんに抜き打ちテストを仕掛けた。結果は散々だった。あの場には夫人も時江ちゃんも不在で、他には私だけしかいなかった。
「この五年間、お前は何やってたんだ!」
原口氏は私の足元にあるダンボールを蹴飛ばして言った。
「ろくに練習してこなかったでしょ。流石にわかるわ、俺だってこの道で食ってるんだもん。流石にね」
高橋さんは黙っていた。謝罪も弁解もしなかった。私は彼の態度を立派だと思った。出来る事ならフォローしてあげたかったが、夫人や時江ちゃんならともかく私の立場では如何ともし難かった。一方で、こんなのは師弟の間柄なら日常茶飯事なのだろうと楽観していたことも事実である。密かに時江ちゃんに根回しするとか、そういう発想すらまるで湧かなかった。だから、最初に高橋さんが放逐されたと聞いた時には、何か重大な背信行為をしでかしたのだろうなと、自分は深入りすまいと考えていた。ところがどうもよく話を聞くと、例の抜き打ちテスト直後に原口氏は腹を決めたという。
風の噂で高橋さんが私の悪口を言いふらしていることを聞いた。正確には、あれほど熱心に勤めていた店をクビになった原因を周囲に漏らす形であったようだが。
「店長は親戚可愛さに脅威となる俺を追い出したんだ。無念だ」
該当者は私である。私のほうが無念である。
高橋さんの言うことも中らずと雖も遠からずだからしょうがない。実際に原口氏は私を名指しして、
「あいつがやればいい」
なんて抜かしてやがるのだから、もうしょうがない。
高橋さん放逐の弊害はすでに出始めていた。彼の尽力で供給されていた新鮮な学生アルバイトがまったく途絶えてしまったのである。求人広告に寄ってくるのはハエ以下の妙ちくりんばかりだ。店の雰囲気も、アンティークとあいまってだんだん薄気味悪くなってくる。さるぼぼ人形などは呪いの藁人形と同義の存在と勘違いされても仕方ないと思えた。
「諸行無常だなあ」
「最近そればかりじゃん。他にないん?」
時江ちゃんが私の呟きに反応して言った。
「さっきもテキトーやってたけど、それじゃあ困るのはウチなんだから……。あと早く充電器返して」
「ああ、そうだったそうだった。新しいの買ったら返すよ」
「新しいやつ買うんだったらそっち渡して。コードの長さは短めの」
意味がわからない。新品を譲ればこっちが損ではないか。
「劣化したやつは使いたくないの。もうそっちが長いこと使ってるんだから当然じゃん」
「買うとしたらネットの安物だけど」
「それは嫌。正規品にして」
抵抗も空しく、時江ちゃんの剣幕に押し切られてしまった。