第十四話 リンチみたいな仇討ち
「で、いつ帰るんだ?」
私はなるべく他意のない、事務的な声で訊いた。別に追い出すつもりもなければ、怒っているわけでもない。いや、怒っていないと自分に言い聞かせているだけかもしれない。だが、明確にしておかねばならない。ここは私の縄張りであって、芽久佐の隠れ家ではないのだ。
「ん? さあ? まだ多少の尾っぽは残ってるし、しばらく様子見かなあ。まあ、ボクの中では仮拠点って扱いだし」
勝手に拠点扱いしないでもらいたい。
「いやいやいや、ほら、お前、黒戸屋の用心棒とか言ってただろ。そっちの仕事は? 放っておいていいのか?」
さりげなく仕事を持ち出して、お引き取り願おうという魂胆だった。ところが芽久佐は、こともなげに肩をすくめる。
「それがもう、業務の一環なんだなあ。要監視対象との距離を詰め、環境変化による異常波動を検知する。いざというときは即応戦闘。これ全部、黒戸屋の『標準的職務記述書』に載ってるから」
「なんだそれ……個人宅に勝手に居座るのが標準ってか?」
「キミ、納品書の裏、ちゃんと読んでないだろ」
「読まんよそんなもん!」
「じゃあ同意ってことだな」
おかしな理屈である。だが勢いがあると、道理があるように錯覚させられるから困る。
「……あのなあ、せめて仮眠とか交代制にするとかさ、あるだろ普通」
「一応ボクのほうでも記録端末を置いてあるよ。あのマペット人形がそう」
芽久佐は無造作に指を伸ばし、棚の上のぬらぬらしたそれ――件の奇怪なマペット人形に視線を投げた。
うす汚れたフェルト地のその物体は、目なのか模様なのか判別不能な装飾を施され、足の本数も中途半端なイカタコ未満の怪生物といった風情で、何より「なんとなくこちらを見ている」感じが妙に不快だった。
「こっちもなかなかすごいぞ」
芽久佐がそう言いかけた瞬間だった。
彼女――いや、彼が、そのマペットと目を合わせた。その一瞬で、何かがパキンと折れたような空気が流れた。
「……やめとこう。野暮はすまい」
芽久佐は急にトーンを落とし、話題を切った。
「え、なに? なんだよ今の。言いかけたじゃん。すごいって何が?」
「いや、ああいうのは、語らず察するのが粋ってもんだよ。説明すればするほど、感動は安っぽくなる。しかも……」
そこでまた、ちらりとマペット人形を一瞥した。
「あいつに妬かれるのもちょっとな」
なんだそれ。
私はやるせなさを抱えたまま、明後日の方向に首をかしげた。そうでもしないと、視界の隅でにじんで見えるあの「目線のようなもの」から逃れられない気がしたのだ。
「ま、気にしなくていいさ。こっちは職務に忠実なだけだよ、忠実にな」
どこか含みを持たせたような声色で、芽久佐はポケットの奥から小さなチューブを取り出し、唇に塗った。
ますます、帰る気がなさそうである。
いつものように、私は破れ長屋の石畳にマットを敷いて、その上にゴロリと横になった。湿気と熱気が籠るこの狭い空間に、まともな寝床などありはしない。だが、人間とは恐ろしいもので、数日もすればこの硬さにも慣れてしまうのだから、実に情けない。
視線を少し動かすと、芽久佐が石畳の端に座り、壁にもたれていた。片膝を立て、顎を乗せた姿勢で、いつになく静かにしている。水槽のほとりで髪を乾かしたあとの姿は、どこか風呂上がりの猫のようで、妙におとなしい。
「……おい、そんなとこで寝るのか」
私が問いかけると、芽久佐は薄く目を開けてこちらを見た。
「ま、寝られないことはない。慣れてる」
そう言って口角をわずかに上げたが、どこか疲れているようにも見える。私はしばし迷ったのち、溜息まじりに声をかけた。
「……じゃあ、ほら。マット、半分使え。どうせ狭いし、ひとりでもふたりでも大差ない」
「……ほんとに?」
にやり、と、待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「いや、そういう意味じゃ……っ」
言い終わらぬうちに、芽久佐は勢いよく横に滑り込んできた。私の腕に当たるのは、さっきまでタオル一枚だった人物の、妙にひんやりした肌。
「おじゃましまーす」
などと妙に明るい声で、枕元に頬を寄せてくる。
「うわっ、ちょ、近い!」
「だって半分しかないんだろ、スペース」
芽久佐はわざとらしく布団を引っ張り、自分の肩まで被せた。しかも、わずかに鼻声をつくりながら、
「ん……せ、狭いなあ……せめて、もう少し……ふわふわな……」
などと、妙に艶っぽい息づかいで呟く。
「おい、やめろその声! いやらしい! やめろって!」
「えー? 別に何もしてないよ? キミのほうが想像してるんじゃないの?」
芽久佐はくすくす笑いながら、わざと体を寄せてくる。耳のすぐそばで囁かれると、背筋が粟立ちそうになる。
私は思わず壁際にずりずりと身を引いた。が、引くほどにマットの余白は減っていき、最終的には二人の間にほとんど隙間がなくなった。
「……なあ」
「ん?」
「いい加減に寝ろ」
「はーい」
満足げに芽久佐は目を閉じた。私は反対を向いて寝ようとしたが、背後からじんわりと伝わる体温が気になって仕方がない。もう、眠れる気がしない。
「……ああ、もう無理。辛抱たまらん」
背後から、ぐいと強引に腕が回される。私は抵抗する間もなく引き寄せられ、芽久佐の体温が背中にぶつかってきた。
「……おいっ」
「どっちのモードでもいいぞ」
囁きは耳朶にまとわりつくように湿っていて、熱を帯びていた。女の声とも、少年の声ともつかぬ、あの掴みどころのない音色が、今はやけに肉感的だ。
冗談ともつかぬその迫りに、私は息を呑んだ。何がどうなっているのか、頭が追いつかない。思考が渦を巻く――が、次の瞬間、視界がすうっと暗転した。
(何が見える)
それは夢か幻か、あるいは過去の残滓か。
地面を鳴らす足音と、竹の擦れる音――整然と並ぶ竹矢来が、殺気と緊張を包む舞台を囲んでいた。仇討ちの会場。地元役人の指示で組まれたその囲いの中、旅籠には公儀の許可証が高々と掲げられ、正しき仇討ちの証とされていた。
そこに、私はいた。ぼろぼろの着物、破れかけた脛布、抜けかけた草鞋。すでに幾度も命を狙われ、逃げ、潜み、そしてまた斬ってきた身――だが、もう逃げ場はない。私の出頭を聞きつけて集まってきた各地の追手が、旅籠の前に勢揃いしていた。
その中に、芽久佐がいた。
薄紅の羽織の下、刀を胸に抱きながら浮かぬ顔をしていた。他人の手で嬲り殺されるくらいなら、自分の手で終わらせたい。そして、自分もその後を追う。
決意の色が、その表情には確かにあった。
仇討ちの当日、私の側に助太刀はない。多対一という絶望的な構図。だが、討手たちは藩への帰参や家名再興をかけた切羽詰まった立場にあり、互いに牽制し、一番手柄欲しさに、抜け駆けを狙って突っ込んでは次々に倒れていった。
連携も糞もない血の海の中、我先にと飛び込んでくる者が自滅するだけの地獄絵図だ。
(早く、斬ってくれ……)
私は、目配せした。せめて――あんたの手で。
その意図に、芽久佐は気づいた。しかし、すぐには応じなかった。代わりに、私に聞き取れないほどの声で彼はぼそりと呟いた。
「仇討ちの規定ではな……返り討ちに成功した者は罪を免れ、正式な身分を与えられるんだと。ふふ、ならば……いっそ返り討ちにされてやるか」
悲壮な笑みだった。
何も知らない私は、斬って斬って斬りまくった。かつて剣を交えた強敵も、未来ある若者も、全員斬った。どうせ手柄をくれてやるなら、少しでも高値のほうがいい。
遂に討手は芽久佐だけになった。
そして、刃が交わる。私の刀と、芽久佐の刀。
……数合打ち合った。
私はすでに満身創痍。血は流れ、腕は震え、立っているのもやっとの状態だった。
そのとき。
芽久佐の切先が、ふと緩んだ。
空白――次いで、斜めに走る光。
血しぶきが飛んだ。
観衆のどよめき。私の喉をついた声にならぬ叫び。
「……やっと……だね」
芽久佐は満足げに、私を見た。血に染まった胸を押さえながら、緩やかに膝を折り、仰向けに倒れた。
「こんなふうに……終わるとは……ふふ……」
うわ言のように、何かを繰り返していた。
「次は、もっと……ちゃ……んと、だ、だ……抱い……」
言い終わるより早く、芽久佐の瞳から光が消えた。




