第十三話 前世がどうたら
目が覚めると、視界の中央に茶色い毛先が揺れていた。
「ようやく起きたか」
声の主は芽久佐である。相変わらず、タオル一枚の姿でしゃがみ込み、こちらの顔を覗き込んでいる。
近い。
視界の端で水滴がぽたりと落ちた。もう少しで、彼女(いや、彼?)の顔が、私の鼻に触れるところだった。
「なんだ、気絶するほど貴重なものでもあったか?」
「いや……そういう問題じゃ……」
状況の整理が追いつかない。昨晩の襲撃。芽久佐の正体。水槽での半裸の舞。極めつけは、あの無造作に投げ出された女性下着。
夢であってくれと願っていた矢先、
「うわっ……な、なにやっとんのアンタら!!」
ガラリとガラス障子が開く音とともに、時江ちゃんの絶叫が破れ長屋の一角にこだました。
芽久佐は反応する間もなく、タオルを押さえることすら忘れてこちらを振り向いた。
私は反射的に跳ね起き、無理やり立ち上がった。
「ち、ちちちがうんだこれは!」
「いやどう見てもそうやろ! なに!? この状況!! デリ? 呼んだん?!」
時江ちゃんは顔を真っ赤にして、すっかり硬直している。視線は芽久佐の全身に釘付けだ。芽久佐はタオル一枚、私はうつ伏せから寝返ったばかり、しかも室内には水の匂いと微妙に湿った空気が漂っている。
(終わった……)
「と、とにかく説明する!」
私は両手を掲げ、意味のない降伏ポーズを取りながら必死にまくし立てた。
「この人は、あれだ、大学の同輩で、芽久佐って言うんだけど、ほら、いろいろあって……そう、アパートがね、ダメになっちゃって、それで、臨時で、うちに……その……」
脳内の言語回路が火を噴いた。時江ちゃんの目が、ますます細くなるのが見える。
「同輩?」
「そう、同じ大学で、学部とか専攻は……まあ詳しくは聞いてないけど、ほら、急な話で……事情が……あるんだと思う」
「はあ?」
「だから、あの、当然だけど、この人、男だからね? 下宿させるって言っても、もちろん同性なんで!」
「ふーん。じゃあ……この下着は?」
——しまった。
彼女の手には、例の下着が握られていた。水槽脇の床から、絶妙なタイミングで拾われたに違いない。
「そ、それは……!」
芽久佐の視線が私に向けられる。すぐさま私の脳がフル回転した。
「えっと、その、芽久佐、余興でね。学園祭の出し物で女装するって話になって、それで、練習してたんだ。そう、そういうことなんだ!」
芽久佐は一瞬だけ目を伏せ、嘆息した。
「致し方あるまい……」
そう呟くと、すくっと立ち上がり、何やら見慣れぬ手つきで空を切った。
パチン。
印を結び、タオルの端を掴むと、芽久佐はためらいなく——股間からタオルをひらりと払いのけた。
「うぎゃっ!!?」
時江ちゃんが悲鳴を上げた。
次の瞬間、彼女はくるりと背を向け、ドアの方へ駆け出しながら叫んだ。
「アンタ……ほんまに男なん!? しかも、男の娘とかそっち系!? ま、まさか、そんなのが好みなん!? ちょ、無理! しばらく話しかけんといて!!」
そして、破れ長屋の障子がバタンと閉まった。
私はその場に崩れ落ち、床に頭を打ちつけた。
「……終わった」
「ふむ。あれは怒っていたのか?」
床に落ちたタオルを拾いながら、無垢な顔で芽久佐が問いかけてくる。
「ところで、さっきの『男の娘』ってやつ、どういう意味だ?」
「え? ああ……それは、つまり……」
言葉を選ぶ暇もなく、私の口は勝手に動いた。
「見た目が完全に女の子なのに、実は男っていうジャンルのことだよ。漫画とかアニメで時々あるだろ? そういう……なんというか、ギャップの妙で……こう……性癖の……深淵を……」
次第に自分で何を言っているのか分からなくなってきた。芽久佐はしばし考え込み、やがてポンと手を打った。
「ああ、つまりお稚児遊びだな」
「お稚児……って、それ古すぎる表現だろ!」
「でもそういうことだろ? かつての武家社会においては、若衆道という文化があってだな。美少年を愛でることに関しては、男色とはいえ一種の教養とされたわけだ」
「いや、そうじゃなくて……いや、それも近いのか……でも違うような……!」
「はは、やっぱりキミは元々そういう傾向にあったもんな」
「は?」
聞き捨てならない言葉に、私は芽久佐を見上げた。
「おい、いまの、それ、どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。ボクと最初にそういう関係になったときも、キミはボクのことを男だと思ってたから、すごく丁寧に、ねちっこかったじゃないか」
「……え?」
「それで、前戯の途中でおかしいと気づいたのか、急に顔が引きつってさ。ボクはずっと、キミがボクを女だと分かった上で来てくれてるんだと思ってたから、ショックだったよ。なんだ、こいつ、男だと思ってたのか……って」
「いやいやいやいや待て、何の話だそれ!?」
「うーん……あれは、百三年ほど前の話だったかな? いや、違うか。もっと前。いや、正確には——最初の前世か」
頭の中でガラスが割れるような音がした。
「最初の前世?」
「そう。キミ、覚えてないのか? 前世でもボクは芽久佐って名乗ってたけど、いまよりずっと古風だったよ。江戸の終わりか、あるいは明治のはじめか。キミは諸藩から指名手配を受けてた浪人で、なんていうか、ろくでもないやつだった。辻斬りは言うに及ばず、密偵まがいのことまでやって、方々で恨みを買ってた」
「……」
「で、ボクは仇討ちの旅の途中で、道端でぶっ倒れてたところをキミに拾われて、それで意気投合して、旅路を一緒に過ごすようになって……」
「や、やめろ、その先は聞きたくない……!」
「いや、でも言わせてくれ。キミ、夜の営みに入る前、いきなり『拙者、こういうことには不慣れでござる』とか言って、すごく手探りでね。こっちもサービスしなきゃって気を遣って、自分からご奉仕しまくったのに、キミが股間を触った瞬間に『あっ!』って叫んで、刀抜きかけたからさ、こっちが死ぬかと思ったよ」
「殺しそうになってんじゃねーか!」
「その後、しばらく口もきいてくれなかったけど、まあ、ボクも未練がましくあとをつけたりしてさ。でもね、後日、ボクを遠ざけるためにキミが語った過去の罪状を聞いた時は驚いたよ。なんと、親の仇が——キミだったんだ」
「何その昼ドラみたいな展開!? どこの平行世界の話なんだそれは!」
「平行世界? 違う違う、ちゃんと地続きの話だよ。ボク、転生者としてはかなり上級な方なんだな。普通は忘れるもんなんだけどなあ……。まあ、あのときボクがショックのあまり修行した術が、さっきの変身術ってわけ」
芽久佐は自慢げに指先で印を結び、小さくパチンと鳴らしてみせた。
その指先の白さに見惚れそうになる自分がいて、私は自らの頬を軽く張った。
「……じゃあ何? あんた、俺のせいで変な術を身につけたって言いたいわけ?」
「まあ、そういうことになるかな」




