あなたの知らない婚約者の顔
春の並木道を、オリビアは笑顔で歩いていた。
隣には、手を繋いだ婚約者――ルーク・ハインツ。幼なじみであり、恋人であり、将来を誓い合った相手だ。
「オリビア、風が気持ちいいね」
「ええ。ルークと一緒にいると、なんだか世界がやさしくなる気がするの」
通り過ぎる人々が、二人を振り返っては微笑む。
美男美女であることもさることながら、そこに流れる空気が、あまりに自然で幸せそうだったからだ。
誰もが羨む理想のカップル。
――少なくとも、オリビアにとってはそうだった。
彼女は人を疑うことを知らない。
この世界が、自分にやさしくできていると信じている。
そして、ルークのことも――疑ったことなど、一度もなかった。
その日、ルークと別れて街を歩いていたオリビアの前に、ひとりの女が立ちふさがった。
黒いマントを羽織り、目元を隠すように帽子を深くかぶっている。
それでも、彼女の声は鋭くはっきりとした。
「あなたの婚約者のルークは、あなたが思っているような人じゃないわよ。あいつは――ケダモノだわ」
オリビアは瞬きをした。
「……ルークのことを、そんなふうに呼ぶなんて。あなた、ルークの知り合いなの?」
「知り合い? ええ、もちろん。とても“深い”関係だったわ」
女は口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
オリビアの心に、薄く陰が差す。だが、それをすぐにかき消した。
(きっとこの人は、ルークに恋をしていて、私が彼の婚約者だと知って嫉妬してるのね)
そう、ルークは誠実で、優しくて、ユーモアがあって、非の打ちどころのない男性だ。
彼を悪く言うなんて、この女のほうが異常なのだ。
「ご忠告ありがとう。でも、ルークを悪く言うのはやめて。失礼するわ」
そう言って立ち去ろうとした瞬間――
女の帽子が風で飛ばされた。
あらわになったその素顔を見て、オリビアは絶句した。
女の顔は、彼女と瓜二つだった。
「……っ!?」
「ようやく思い出すかしら、私のこと」
女は笑いながら言った。
「“私”は、三年前にルークに殺されたのよ。崖から突き落とされて、ね」
その言葉を、オリビアの脳が理解するよりも早く、足元がぐらりと揺らいだ。
「信じられない? でもあの男は、最初から“完璧なオリビア”が欲しかっただけ。
私が少しでも思い通りじゃないと知ったとたん、手にかけたのよ」
オリビアは目を見開いたまま、かすかに首を振った。
いやだ、そんなこと、あるわけが――
「今の“あなた”は、あの男が魔術で作った模造品。
本物じゃない、けれど都合のいいお人形ってわけ」
「……うそ、よ……っ」
「嘘でもいいけど――気をつけなさい。ルークは、またあなたを**“更新”**するかもしれない。
次の“オリビア”にね」
女はそう言い残すと、霧のように消えた。
オリビアはただ、その場に立ち尽くした。
指先を見つめる。
手を握る。鼓動を探す。
自分が、自分であると、確かめるように。
――しかしその夜、ルークの書斎で、彼女は見てしまった。
本棚の奥に隠された、同じ顔をした女性たちの肖像画。
日付が添えられ、過去の“彼女”たちが、整然と飾られていた。
そして――
一番新しい肖像画の隣に、まだ描かれていない空白の枠があった。
ルークの手で用意された、それは確かに、彼女の“未来”だった。
――End.