Down the rabbit hole ―恋の魔法は抜け出せない―
発作で百合回を挟みました。萌えのオタクゆえに
午前の講義室には、甘い花の香りが漂っていた。
壁に刻まれた魔法陣が、淡いピンクと金の光をゆらめかせる。
暖かい春の陽気と、少しの緊張。
「――本日のテーマは、“精神操作魔術”」
エリュナがいつもの優雅な微笑みを浮かべる。
「“魅了”や“暗示”の基礎です。他者の心を動かす、最も繊細で――最も危うい魔法ですね」
「魅了……って、つまり“惚れさせる”とか?」
莉音が興味津々に身を乗り出す。
「うふふ、そう。軽率に使うと恋愛模様が戦争になりますから、注意」
エリュナは、アーヴェリスには魅了にまつわる様々な悲劇が言い伝わっているとも付け加えた。
教室には小さな笑いと、淡いどよめきが広がった。
けれど、漂う光の奥には、言葉にできない緊張が潜んでいた。
「では、ペアを組んで簡単なチャームを試してみましょう。威力は最低限の呪文です。あくまで実験ですからね」
ユウと鷹真、直人と美月、美咲と莉音――いつもの組み合わせ。
……のはずだった。
美月が、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべるまでは。
「ねえ、“魅了”ってどこまで効くんだろ? ちょっと試してみよっか♪」
「ちょ、美月ちゃん、それ危な――!」
美咲の制止よりも速く、詠唱が走った。
――“アド・メー・プロピウス”。
美月が唱えて見たのは、今日の講義では使わない呪文。
おそらく、ページの後ろの方に載っていた魅了魔術。
光が弾け、ハート形の魔法陣がふわりと咲いた。
次の瞬間――
「……美月ちゃん、かわいい」
「ねえ、こっち見て?」
美咲と莉音の瞳が、とろんと溶けるように光った。
ふたりと美月の距離が、ふいに近い。
息が、重なる。
頬の熱が一気に上がる。
袖がかすかに触れて、そこから体温が伝わる。
美月の心臓が、魔法よりも早く跳ねた。
「え、ちょ……近い近い! 顔、近いってば!」
焦って笑った声が震えていた。
莉音の指先が、袖口をそっと掴む。
「美月ちゃんの声……甘くて、魔法みたい」
その言葉が、鼓膜をかすめて胸の奥に沈む。
「いやいや、『魔法みたい』じゃなくて、魔法なんだって! これ魅了魔術だよ!?」
叫んだ声が裏返った。
「ううん、これは恋の魔法だよ? だってこんなにかわいいもん」
美咲の指が、美月の頬をなぞる。そしてそのまま口を近づけようとして――
――エリュナが杖を軽く振る。
解除の詠唱。光が霧のように散る。
魔法が解けても、頬の熱は消えなかった。
「……え、わたし、なにしてたの?」
美咲が頬を押さえる。
「わたしも……なんか、夢見てたみたい」
莉音が恥ずかしそうに微笑んだ。
美月は机の端に手をつき、息を整えた。
胸の鼓動がまだうるさい。
「ご、ごめん……ほんとごめん……」
でも、手のひらに残る温もりが、離れていかなかった。
莉音が小さく言う。
「……でも、ちょっと嬉しかったかも」
美咲も、照れたように笑う。
「うん……あったかかった」
その一言が、胸の奥に刺さる。
美月は笑い返そうとして、うまくできなかった。
――その様子を見ていたユウが、ぼそっと呟く。
「……俺達も試してみるか?」
「いいえ、やめときましょう」
「……それが、無難ですね」
窓の外、夕陽が差し込む。
光が三人の髪を金色に染め、教室を柔らかく包む。
エリュナが最後に言った。
「“心を動かす魔法”は、最も強く、最も危うい。けれど、それを理解できる人だけが――“誰かを守る”ことができます」
その“誰か”が誰なのか、まだ誰も知らない。
けれど、美月の視線は、無意識に二人を追っていた。
魔法よりも静かに、何かが心に芽吹いていく。
笑いと照れと、少しのざわめき。
春の午後に、甘く危険な香りが残った。




