夜へ
夜。
両親が寝静まった家で、うきはそっと窓を開けた。
部屋の空気がひんやりと動き、眠れなかった胸のざわつきが外へ逃げていく気がした。
「五分だけ……見るだけだから」
霧の夜が、彼女を吸い込むように静かだった。
電灯の光が揺らぎ、街がぼんやりと息をしているように見える。
カメラを構える。指先が少し震えていた。
――ピッ。
画面が勝手に明るくなり、ライブ配信の文字が浮かぶ。
コメントが流れた。
「はい」「はい」「はい」
……同じ言葉が、波のように、途切れず続いていく。
「なに、これ……バグ?」
心臓が、すこしだけ速くなる。
背中に風はないのに、髪が勝手に動いた。
息を吸おうとした瞬間――声がした。
「――ねえ、わたし、綺麗?」
喉が固まる。
視線を画面に戻すと、自分の背後に“それ”が映っていた。
女の顔。裂けた口。笑っているのに、目だけが冷たい。
(……こたえなきゃ)
恐怖よりも先に、何かに引き寄せられるように。
言葉が喉までせり上がってきた。
自分の声なのに、誰かに操られているようだった。
「……っ――」
その瞬間、背後で風が弾けた。
強い力に引かれ、体が後ろへ倒れ込む。
耳元で、低い声が囁いた。
「言うな。言葉は契約だ」
神野だった。
彼の声が夜の底から滲み出るように響く。
外套が風をまとい、符の匂いが霧に溶けた。
うきの背を押さえる掌の感触は、人間より少しだけ冷たかった。
もう片方の手が、風を切る。
紙札が光を放ち、女の顔に突き刺さる。
白い火花。影が裂け、悲鳴が夜に溶けた。
「……危ないところだったな」
声は落ち着いていた。
けれどその眼差しの奥に、微かな焦燥が滲んでいた。
「……でも、今の、録画が――」
「もう壊れてる。録画も、記録も、向こう側に吸われた」
淡々と告げながらも、神野の視線がうきの頬で止まる。
何か言いかけ、彼は指先をほんの少しだけ伸ばした。
けれど、触れる直前で止める。
「……触られたな」
低い声に、抑えきれない緊張が混じる。
「浅いが印だ。口角のすぐ横――」
うきが頬に触れると、指先に赤い線。
微かに痛みが走った。
「今日は鏡を見るな、夜は出るな」
「……こわい。でも、知らないままの方が、もっとこわい」
神野は目を細めた。
夜風が二人の間を抜け、符の灰をさらっていく。
「怖さを知るのは、生き残る第一歩だ。だが――次は助けられないかもしれない」
翌朝。
古びたドアベルが、静かに鳴った。
外は朝の光なのに、部屋の奥はまだ夜の匂いがした。
神野が顔を上げると、そこにまひるが立っていた。
背筋を伸ばし、まっすぐに。
その後ろには、頬に絆創膏を貼ったうき。
眠れなかったせいか、瞳の奥がかすかに赤い。
「――うきを助けてくれて、ありがとうございます」
まひるの声は静かだった。
けれど、その静けさの底に、焦げたような決意が宿っていた。
「礼はいらない。……でも君たち、まだ夜に出るつもりか?」
「はい」
即答。
神野は眉をひとつ上げた。
「止めても無駄か」
「無駄です」
まひるが答える。その瞳には夜の闇を映したような光があった。
うきがそっと、その袖をつかむ。
指先は冷たかったが、その力は確かだった。
「うきは、夜を見た。でも――わたしは見てない。何が起こったのか、どうして彼女があんな顔をしたのか。知らないままで隣に立つなんて、できないんです」
その言葉に、うきの喉がかすかに震えた。
「……まひる、もういいよ。怖かったの、わたしだけだから」
「怖かったのは、わたしもだよ」
まひるは言葉を重ねる。
「だって、うきがいなくなる夢を見た。呼んでも返事がなくて、光の向こうに立ってるのが、もう人じゃなかった。……それだけは、いやだから」
うきは、声を出さずに笑った。
その笑みは、恐怖のあとにようやく見つけた小さなぬくもりのようだった。
「なら――最低限の知識は覚えろ」
神野は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
白く、ざらついた申請書。
《臨時調査補助員 第二級魔素安全認定申請書》
「……補助員?」
「正式に“調査に関わる者”として認められる。つまり、夜に名前を刻むってことだ」
うきが小さく息を呑む。
夜に名を呼ばれる――それがどんな意味か、もう理解していた。
「それでも行くのか?」
「行きます」
まひるが言い切る。
その横で、うきが静かに言葉を重ねた。
「怖いけど……あの時、“綺麗?”って聞かれて、わたし、ほんの少しだけ――答えたくなったんです。それがいちばん、こわかった」
神野は視線を伏せ、短く笑った。
「人は、知らないものより、知りかけたものに惹かれる。それが“物語”だ。夜は語られるためにあり、語った瞬間に形を得る。――君たちが“面白い”と思った時、向こうも微笑む。“綺麗?”ってな」
まひるは、うきの肩に手を置いた。
そのぬくもりが、現実の確かさをぎりぎり繋ぎとめていた。
「それでも、見たい。夜がどんな顔で笑ってるのか」
神野は小さくうなずいた。
その仕草に、諦めと祝福の両方が混じっていた。
窓の外では、昼の光がやわらかく差し込んでいた。
シャッターの銀が、風に合わせてかすかに歪む。
その線は、笑顔のような形をしていた。
――昼でも、もう、滲んでいる。




