襲撃
学校の門を出たところで、美月が足を止めた。
「お兄ちゃん、今日ってさ……ほら、わたし友達と帰る予定あったんだけど」
「……へえ」
「うん、でもほら、かわいそうなお兄ちゃんが“ぼっちで寂しそうに帰ってるのを見たら”……放っとけなかったわけ! わたし、慈悲の塊すぎない? マジ聖母!」
「お前、それ今月3回目な。一昨日も言ってたぞ」
「うそ!? そんなに使い回してた? じゃあ今日の分は“最も崇高な姉的存在”とかにしようかな?」
「妹だろ。あと何が“姉的”だよ。なんで遠ざかるんだ」
「いやいや、“精神的には”こっちが年上感あるでしょ。そもそもこの非常時に頼りない兄とか、逆に貴重すぎて保護対象だよ」
ユウは呆れたように苦笑しながら、駅前のカフェに向かって歩き出した。
美月は当然のように横に並ぶ。
はたから見れば、中のいい兄妹でしかなかった。
店に入ると、制服姿の学生がぽつぽつといた。
カウンターに異世界語の翻訳端末が付けられていて、最近では獣人や耳の長い客も珍しくないらしい。
ユウは適当にアイスティーとケーキを頼み、美月のぶんも注文した。
「わたしの分も……? お兄ちゃんありがとっ」
「一緒に注文しただけだが。当たり前みたいに奢らせるなよ」
「だってぇ~、お兄ちゃんのお財布って、無限じゃないけど私の前では無力じゃん?」
「意味わかんねえよ」
「ふふん、その行き場のないやさしさ。ありがたく受け取ってあげよう。“女性との会話の機会に困窮する兄に微笑みを与える、聖なる妹”として」
「さっきから“聖”が安売りすぎるだろ。あと兄をバカにしすぎだろ」
「でも事実でしょ?」
「……」
2人はこなれたようにコントを繰り広げる。
注文を受け取ったあと、二人でカウンター席に並んで座って、甘いものをつついた。
店内には緩いBGMが流れ、外の喧噪もガラスの向こうで滲む。
それでも。
どこか、背後には“現実”が貼りついていた。
窓の外。通りを巡回する装甲車。
上空を飛ぶ、監視用の低速ドローン。
手をつないで歩く親子の子どもが、小さな魔導警棒を腰に差しているのが見えた。
ユウはそれを見ながら、残りの紅茶を一気に飲み干した。
美月が、口元を拭きながら言った。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「何か、今日……変な感じしない?」
「……ああ」
感じていた。朝からずっと、どこかがズレていた。
風の重さ、音の遠さ、空の輪郭。
でもそれが“どこまでズレるのか”までは、まだ、誰にもわかっていなかった。
その数分後だった。
ジリジリとした静電気のような空気のしびれの後、空が――裂けた。
破れるような音が、空から降ってくる。
光が反転し、空の狭間に穴が穿たれた。
その内部から、ねじれた影が這い出してくる。
地上に届く前に、質量の塊が空中で一度蠢き、跳ねるように地中へ潜った。
幸か不幸か、彼らからはその姿は鮮明には見えなかった。
次の瞬間――交差点が、爆ぜる。
衝撃波と、わずかに遅れてきた轟音。
カフェの窓ガラスは一斉に割れ、アスファルトが真上に向かって跳ね上がり、停まっていた車両が吹き飛ぶ。
破片が建物の壁を穿ち、悲鳴が木霊した。
「っ、デスワーム……!?」
ユウは声にならない声を漏らす。
その単語を発した瞬間、事態が現実として飲み込まれるのが分かった。
その事実に気が付いた誰かが叫び、その現実に気が付いた誰かが泣き、その絶望から逃れるように誰かが人を突き飛ばして走り出した。
大通りが、朝の通勤ラッシュのように混雑し始める。だが誰一人、同じ方向を向いていない。
パニックだった。
避難誘導など機能するはずもない。
デスワームが食い破っただろう車道は波打ち、衝撃で歩道も崩れ、排水口から泥のような水が吹き上がる。
「お兄ちゃん、こっち……!」
美月が手を伸ばしてきた。
その手を掴み、ユウは人の流れに逆らって路地裏へと駆けた。
ユウは大通りを破壊する、下手な雑居ビルより大きなデスワームの陰を横目に捉え、そちらに美月の視線が向かないようとにかく路地裏へ急ぐ。
古い商店街の裏手。
半ば廃業したコンビニビルの裏口から、錆びたシャッターの隙間をこじ開けて入る。
中は静かだった。
かつては冷蔵棚が並んでいたであろう場所には、散乱した商品とガラスの破片だけ。
その奥に、身を潜める。
冷蔵ケースの影。しゃがみ込んだ美月の肩が、かすかに震えていた。
「お兄ちゃん……」
美月の声が震えている。ユウはそっと頭を撫でた。
息をひそめる。
聞こえてくるのは、遠くの爆音と、単発的な戦闘の音、そして瓦礫が崩れる音だけ。
――カチャ、カチャ。
異音。
なめらかで、粘性を帯びたような“足音”。
その音が、近づいてくる。
床を這い、壁を撫でるような気配が、確かにビルの中に入り込んでいる。
ユウは息を止めた。
ガラスの隙間から見えたのは、泥でできた皮膚と、ゆがんだ瞳をもつ影――
ゴブリン、だった。
目が、光っている。
その大きな鼻の穴が動き、舌がぬるりと垂れる。
腐葉土を煮詰めたような、湿った匂いが鼻腔を刺した。
(動いたら気づかれる)
身体中の神経が、粘土のように固まる。
ゴブリンは、しばらく店内を物珍しそうに眺める。
そして、こちらに向かって一歩踏み出す――そのとき。
外で、瓦礫が崩れ落ちる音。
反応するように、魔物はそちらを向いた。
(一体ならやれるか……? 後ろを向いているし)
警棒を握りしめる。隣の美月を見つめ直し、ユウは覚悟を決めた――
しかし、運がいいことに足音が遠ざかっていく。
(今は美月を守るのが優先だ……!)
大切なことを思い出し、ユウは、美月の耳元でそっと囁いた。
「……行くぞ。今なら、まだ――」
頷く美月の手を取り、立ち上がる。
――その瞬間。
背後の薄い壁を突き破って、別のゴブリンがなだれ込んできた。
「っ!」
思わず、美月を庇うように壁のあった方へ向く。
しかも、その一体だけではなかった。壁の向こうから、ゾンビ映画かホラー映画みたいにのたうつ腕が、少しずつ数を増していく。
もうだめか。と二人が思ったその刹那。
「生存者発見! 周囲に小規模ゴブリン集団、安全を確保します!」
閃光。衝撃。金属音。
そして、戦闘服の男たちの姿。
「お前らは民間人の保護を優先しろ! 第三小隊は路地裏から逃げるゴブリンを狩れ!」
銃声。そして鳴り響く、ゴブリンたちの悲鳴。
火花が散り、ゴブリンたちの身体が崩れていく。
視界が赤く染まる。
遠ざかる意識の中、ユウはただ、美月の手だけを握りしめていた。




