揺れる秩序
夜のティレナは、いつだって酔っぱらっている。
街灯の橙より、酒の甘酸っぱい霧が濃く立ち込め、商人も貴族も冒険者も、今日の命を乾杯で祝うように《ヴァーミリオン》へ流れ込んでくる。
ここは――世界で一番、くだらなくて、息を呑むほど美しい混沌の巣窟。
カウンターでは、ミニスカのメイドが注文を捌いていた。
裾から覗くガーターストラップに、異世界の貴族が目を細め、燕尾服の袖口から銀の懐中時計を弄ぶ。その隣で、日本人の商人がスーツの襟を緩め、静かにワイングラスを回す。
「ほう、この酒の香り、まるで魔法の残り火だな」
「ええ、“魔葡萄”の品種でして。……人によっては、幻覚の花火が見えるとか」
「それは、交渉の味方だ。ほどよい酔いは交渉を円滑にする」
二人の笑いが、背後の喧騒に溶け込む。
そこでは、鎧を纏った冒険者たちがテーブルを囲み、酔いに任せて歌を吼え、椅子ごと転がる。
片手に泡立つビール、片手に揺らぐ火球。
床は酒か血か、判別不能のぬめりで滑る。
外では、決闘の火蓋が切って落とされていた。
「金貨五枚、どっちが生き残るか賭けるぞ!」
賭け屋の叫びに、観客の歓声が沸き、金貨が飛び交う。
片方は槍を振り回す冒険者、もう片方は輸送ギルドの護衛――
理由? 誰も覚えていない。ティレナでは、勝者が正義を刻み、負け犬が、吟遊詩人の詩になるだけだ。
銃声と詠唱の渾然一体の轟音が、星空を裂き、火花が散るたび、街が一瞬、息を止める。
喧騒の中心で、バーテンは黙々とグラスを磨いていた。
無口で、眉ひとつ寄せない男。
だが足元――カウンターの影に、黒光りする魔導リボルバーが、静かに息を潜めている。
誰も知らないわけじゃない。この男が、“言葉より速く引き金を引く”伝説を。
今日も、騒ぎを起こした客が一人、音もなく店から消え去った。
外の歓声の隙間に、誰かが呟く。
「……グラスが割れた音だけ、響いたな」
「マスターの銃声は、いつも、澄んだ水晶みたいだ」
奥のテーブルでは、カードゲームが繰り広げられていた。
――賭けるのは、金じゃなく、人生の欠片。
ディーラーの女性が、柔らかな声で問う。
「お客さん、もう帰った方が身のためですよ?」
客は目を血走らせ、吠える。
「持ち金全部溶かして、帰れるかよ! 次は家を担保に――」
その夜、一つの家族が、カードの山に埋もれた。
バーカウンターの奥――深紅のカーテンの向こうに、もう一つの“玉座”があった。
そこに、白髪をきっちり結い上げた老婦人が、煙草をくゆらせて座っている。
カルメン婆さん。この街の快楽、金、治安を、蜘蛛の糸のように操る女王。
彼女は、芸術品にランプにかざし、鼻を鳴らす。
「……偽物ね。光の描き方は綺麗だけど、情熱が足りないわ」
手を振るだけで、背後の屈強な男たちが、それを音もなく片付けた。
そこへ、バーテンが空のグラスを持って入ってくる。
「新しい客が、騒ぎを起こしかけました」
「死んだ?」
「いえ。黙りましたよ」
「なら、問題ない」
カルメン婆さんは、ワインを一口傾け、その瞳を、炎より冷たく細める。
「この街じゃ、理性も信仰も酔ってる。でもね、酔いが深まるほど、金はよく回るのさ。科学の歯車も、魔法の詩も、同じリズムで踊るんだよ」
夜が更け、魔導灯が一つ、また一つと息絶える。
冒険者の歌声が遠くに溶け、決闘の火花も、闇に飲み込まれる。
バーテンは、最後のグラスを磨き終え、カルメン婆さんはランプを消して席を立つ。
残るのは、酒の残り香と煙のヴェール、そして、ほんの僅かな静寂。
――ティレナ。
ここでは、秩序も混沌も、同じカウンターで、同じ値段で売られている。




