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蛇の恩返し

作者: 雉白書屋

 え~、『人』という字はですね、ひとりの人がもうひとりの人を支えている形を表した文字だと言われています。人間というのはお互いが支え合って生きている……いや、実は片方が寄りかかっているだけだとか、いやいや、ひとりで堂々立っている姿を表しているんだとか……まあ、ごちゃごちゃ言っておりますけども、結局のところ、いろいろな物の見方がありますよねって話です。はい。

 まあ、なんにせよ、人が支え合って生きているってのは確かなことでして、持ちつ持たれつ、優しさには優しさを、礼には礼を、恩には恩で返し――そういうもんです。

 でも、この恩返しってやつは、なにも人間だけの美徳じゃございません。時には、動物だって恩を返すことがあるもんです。

 もっとも、動物ですから、物の見方は人間とはまたちょっと違ってくるのかもしれませんがね。 

 ところで、『人』という字、蛇の舌にも見えませんか……?




 むかしむかし、あるところにみすぼらしい家に住む一人の男がいた。怠け者で定職にも就かず、日銭を稼いでは酒と飯に消え、その日暮らしを続けていた。

 当然、食うに困る日もしばしばあり、この夜も腹を空かせていた。

 男は「まあ、寝ちまえばいいだろう」と、いつもの調子で気楽に構え、灯りを消して布団に潜り込んだ。

 すると、しばらくして――。


 ずずず……ずずずず……ゴトッ。

 ずずず……ずずずずず……。


 天井の向こうから、何かが這いずるような音が聞こえてきた。

 気になった男はむくりと起き上がり、押し入れの襖を開けて、天板を外した。灯明皿を片手に、そっと天井裏を覗き込む。


 ――おお、こいつはでかいな。


 すると、そこには大きな蛇が一匹、とぐろを巻いてじっとしていた。

 こいつはいい。捕って食ってしまおう。

 腹を空かせていた男はそう考え、手を伸ばした。だが、すぐに思いとどまった。家に棲みついた蛇は縁起がいい――そんな話をどこかで聞いたことがあったのだ。それに、ネズミ避けになるかもしれん。あいつら、たまにうるさいからな。

 放っておいたほうが得だと考え直し、男は布団に戻り、やがて眠りについた。




 ――おっ、まだいるな……よしよし。


 それからというもの、男は毎日天井裏を覗くのが習慣になった。蛇は逃げることもなく、ずっと同じ場所でとぐろを巻いている。どうやらこの家が気に入ったらしい。

 もしかすると、近いうちにいいことがあるかもしれん。男はそんな淡い期待を抱き、満足げに頷くのだった。

 ある晩のことだった。

 男は帰り道、道端に転がるネズミの死骸を見つけた。

 うへえと顔をしかめ、避けて通ろうとする。が、ふと足を止めた。


 ――そういや、あの蛇、ちゃんと食えてんのか? 


 昨日も一昨日も、まったく動いた様子がなかった。ひょっとすると、どこかへ行かないのは腹が減って動く体力もないからでは。それでは、狩りもできまい。

 そう考えた男は、ネズミの尻尾をつまんで拾い上げ、家まで持ち帰った。

 天井裏にそっと置いてやる。すると、蛇はゆっくりと頭をもたげ、ちろちろと舌を出してネズミを舐めた。そして、大きく口を開け……ぱくりっ。


「ああ、やっぱり腹が減ってたんだなあ」


 男は蛇のぷっくりと膨らんだ腹を見つめ、満足げに頷いた。

 翌朝、天井裏を覗いてみると、蛇の姿はどこにもなかった。どうやら元気を取り戻して、どこかへ行ったらしい。少し残念だが、まあ、天井裏で死なれるよりはいいか。

 男はそう思い、天板を戻すと、ひと仕事終えたように大きく伸びをしたのだった。

 そして、その夜のこと……。


 トントン、トントン。

 戸を叩く音がした。


「はいはい、はいっと」


 ちょうど眠りにつこうとしていた男は、しぶしぶ布団を出て、戸口へ向かった。


「こんばんは……」


「や、これはどうも……」


 戸を開けると、そこに立っていたのは若い女だった。長い黒髪に白い肌。すらりと背が高く、どこか気品があり、そこそこ美しい。


「旅の者です。もしよければ、一晩泊めてくださらないかしら?」


「え? まあ、構わねえが……」


 どこか妖しげな雰囲気をまとった女に、男は押され気味になりながら、家の中へと招き入れた。


「油がもったいねえし、もう寝るとこなんだ。おれの布団を使っていいから、あんたも寝ちまいな」


「いえいえ、お構いなく。私はあちらがいいですわ」


「あちらって……あそこかい?」


 女が指さしたのは押し入れだった。


「ええ、狭いところのほうが落ち着くんです」


 なんじゃそりゃ、と男は少し訝しんだが、こちらを警戒しているのかもしれない。それに、人それぞれ好みもあるもんだ。

 男はそう納得し、深く詮索することもなく、再び布団に入った。女のことを気にしていたのもほんのわずかな間だけで、すぐに眠気に誘われ、まどろみの中へと沈んでいった。


 ずずず……ずずず……。


 夢の中に、どこかで聞いたような音が心地よく響いた。

 翌朝、目を覚ますと押し入れの襖が音もなく、すうっと開いた。中から、あの女が姿を現し、男に深々とお辞儀をした。


「おお、おはようさん。よく眠れたかい?」


「ええ、とても。それで、泊めていただいたお礼に、こちらをどうぞ」


「ええ、そんなのいいのに……って、こ、こりゃなんだい? に、人間の皮……?」


 女が差し出したのは、首から上のない、ひらひらとした人の皮だった。血の気が失せたような白さで、しっとりと湿り気を帯びており、まるで濡れたウエットスーツのようだった。


「それを町で売れば、お金になりましょう」


「いや、ならんよ」


「え、どうしてですか?」


「気味が悪いからだよ! これ、どうしたんだ? まさか、あんたの古い皮か? は、吐き気がする……」


「ご満足いただけなかったようなので、もう一晩泊めていただきます」


「なんでだよ!」


 男は当然拒否したが、結局押し切られ、女をしぶしぶもう一晩泊めることになった。

 そして翌朝。女が『お礼に』と差し出したのは……


「おお! 小判か! なんだなんだ、てっきりとんでもないクレイジーサイコ女かと思いきや、ちゃんとしてるじゃないか!」


「おほほほほ! 価値観は常にアップデートしていかなくてはなりませんわ」


 男は上機嫌で小判を受け取り、その晩は酒と飯をたっぷり買い込んで帰宅した。


「お帰りなさい、あなた」


「ただいま。当たり前のようにいるんだな」


「今夜も泊めていただきたいのです」


「ああ、構わんよ。何日でもいてくれや。ほら、この酒と飯。あんたの分も買ってきたんだ。お静ちゃん、驚いてたぞお。ツケまで払ったんだからな」


「……お静ちゃん?」


「行きつけの飯屋の看板娘さ。とってもかわいいんだあ、へへへ」


「なるほど」


「さあさあ、飲んで食おうじゃねえか!」


「いえ、私はもうお腹いっぱいですので、休ませていただきますね」


「そうかい? まあ、我が家だと思って好きにしてくれ」


 男は晩酌を存分に楽しみ、満ち足りた気分で眠りについた。

 そして翌朝。目を覚ました男は、びくりと体を強張らせた。女がすぐそばで、じっと男の顔を覗き込んでいたのだ。


「お、おはよう……」


「おはようございます。これ、昨晩泊めていただいたお礼です」


「お礼って、あの小判で十分だが……って、また皮かよ!」


「あら、お気に召しませんか?」


「まあな、うへえ……」


「では、肉ならどうでしょう?」


 そう言った瞬間、女の口がじわじわと裂け始めた。それはまるで、巨大な赤い花が咲くかのようだった。その口内では、無数の巨大なミミズを縫い合わせたような、ぬめぬめとした肉のひだが蠢き、腐臭にも似た生臭い匂いが漂ってくる。

 ぐちゅ……ずる……と、不気味な音が響いた。女がえずいているのだ。ほどなくして、口腔の中央の黒い穴――喉の奥から何かが覗いた。

 それは、人間の腕だった。

 白い筋と艶やかな赤色の束で練り上げられた、剥き出しの獣欲。ずるずると、やがてその全容が唾液にまみれながら、どさりと床に放り出された。

 男は恐怖で凍りつきながらも、かろうじて正気を保っていた。

 そこに見知った顔があったからだ。皮膚は首から上しか残っていなかったが、それで十分だった。どの道、衣服の下の柔肌を見たことなどなかったのだから。数分前、それと知らずに手に取って眺めたことを除いては。


「これ……お静ちゃん……?」


「お好きなんでしょう?」


 女は静かに笑った。一度閉じたその口が、またゆっくりと裂け始めた。




 え~、その後、女に食われた男とお静ちゃん、ああ、それと小判目当てに襲われた行きずりの男も、ぶりっと見事な糞になりまして、野原のど真ん中でとぐろを巻いていたところを、物好きな城主に拾われ、家宝として大事にされたとさ。

 ともすれば、『人』という字は、尻の割れ目にも見え……って、これはいらないオチでしたかね。

 でも、仕方ないじゃないですか。だって、これは蛇に足が生えた話なんですからねえ。

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