ホテル
ホテルの25階、入口のドアから入ると、そこは広いリビングルームになっている。
壁はほんのりと黄色味を帯びた白色で、左側には白い木製の丸いテーブルと4つの椅子、右側にはガラスのテーブルと薄いグレーのソファーがあり、ソファーの奥に大型テレビ・ステレオ・パソコンが置かれていた。
さらにその奥はベッドルームへのドアになっている。
正面の壁は一面のガラス窓になっており、白いレースのカーテンと黄色のカーテンが掛かっていた。
平一と、見た目には若いが―――よく見ると目にしわのある女性が部屋に入ってきて、照明スィッチを押し、もうひとつのスィッチを入れると、カーテンが自動的に左右に分かれて開いていった。
窓からは、近隣のビルの屋上が無造作に並んでいるのが見えた。
そのむこうには、赤く大きな太陽が、早送りしているかのように沈もうとしていた。
女性は、平一と大学時代の小説クラブの仲間である。
「どう? 小説の参考になった―――かな?」
ストレートのロングヘアーは、シャンプーのコマーシャルに出てもおかしくない黒髪で、薄紫のスーツの肩を隠していた。
彼女は“由香枝“で、結婚してアメリカへ行き、離婚して帰国して来たばかりである。
平一の処女作 ”闇の中の黒髪“ は彼女がいなければ出来なかった作品だ。
学生時代の二人は小説家を目指す仲間で、平一がストーリーを展開し、由香枝が文章や情景を整えていた。
卒業後、由香枝は外資系の会社に就職したが、平一はアルバイトをしながら本を書き続けた。
由香枝もアフターファイブは平一と一緒に意見や感想を言いながら、ワープロ叩いていた。
平一は共作を主張したが、
「私は文才があるから、いつでも書けるけど、あなたはこれが最後だよ」と言って平一の名前で出版された。
そして、いつの間にか結婚して、アメリカへ渡った。15年前、25歳のときである。
「えっ なんて言った?」
平一は入口に立ったまま、女性とホテルに来たことに困惑しており、広い部屋を見回していた。
「小説の参考になりましたか?」
「“マディソン郡の橋“は推理小説の参考にはならないよ」
平一は少し照れながら、
「君が綺麗になって、見惚れていたよ」
「えーーー うそー 平一さんもお世辞を言うようになったんだ!大人になったね」
「10年以上経つから 少しは」
と言って、この部屋に泊まる金が良くあるなといった。
由香枝はラジオに近づきながら、今、お金はたくさん持っているし、1週間の滞在だからと言いながら、ラジオのスィッチをいれた。
平一はまだ入口でうろたえていた。
由香枝は洋曲専門のFM局に合わせながら、
「いい映画観た後にいつも思うのだけど、余韻を楽しむ場所が欲しいと思わない?
観終わったらさっさと帰ってじゃなくて、観た人だけが味わえる余韻の空間。
周りには今観た映画のパネルとか、予告編とかが流れていて、あの女優素敵ね とか あの男優に恋したとか、ストーリーが素敵ね とか 語らえる場所が有ったら良いのに、確かに、近くに喫茶店は有るけど、雰囲気が違うし、周りが映画に関係ないと話題も飛んじゃって、私たちも食事しながら、映画の話はしなかったわ。
私が平一さんの事を聞いてばかり。」
平一も頷きながら、10年後に余裕が出てきたら、映画館だけじゃなくて、コンサートホールもゆとりの有る“余韻空間”が出来るようになると良いねと言った。
由香枝も、「ゆとりが欲しいね」と言って、
「あの映画は、熟年女性の浮気の映画じゃないわよ。
前から観たかったけど機会が無くて、まさか、日本で、リバイバル上映で、しかも、平一さん と一緒に観るとは夢にも思わなかったわ」
由香枝はラジオのダイヤルを回すと少し曲を聴いてまたダイヤルを回しながら、
「良き妻、良き母、でも 彼は、・・・“女”として見てくれた。この年に成ってからね、女として見られているか気に成るのは。――― 私に子供はいなかったけど、良き妻だったわ。」
「だった?」
由香枝はラジオから、サイモンとガーファンクルの“アメリカ”が流れている局でダイヤルを動かすのを止めた。
平一は言葉に驚き、やっと動けるようになり由香枝に近づいて行った。
「私、離婚して昨日帰ってきたの、結婚の報告も平一さんが最初だったけど、離婚の報告も平一さんが最初なんだよ」
平一は何を言っていいか迷っていた。
沈黙!
「何か言ってくれないの。“どうした” とか “何故”とか」
由香枝は平一の顔を下から覗き込んだ。
「何を言ったら良いのか、何を言わないといけないのか、混乱中で―――」
「何も言わなくていいの、ただ“がんばれよ”って気持ちを込めて、抱きし閉めてくれれば」
平一は迷いながらも手を由香枝の肩に置き、さらに近づいて抱きしめた。二人は黙ったまま、抱き合っていた。
由香枝が選んだチャンネルは懐かしの音楽を専門に流している局で、ディスクジョッキーは高揚も無い口調でただ単に曲名とアーチストを紹介するだけだった。
「次の曲は、俺の携帯の曲だ。 翻訳してよ」
由香枝はそっと平一から離れ、ラジオのボリュームを少し上げた。
ラジオからビリー・ジョエルの“オネスティ”の曲が流れてきた。
平一も由香枝の後に続いて後ろから抱きしめた。
「もし、君が優しさを探しているなら、見つけるのはそんなに難しくないよ・・・・・
ごめんなさい。後は良く聞き取れなかった」
そして二人はただ抱き合っていた。
「“正直”なんて寂しい言葉だろう」
平一は由香枝の耳元で優しく「ありがとう、もう訳さなくていいよ、曲を聞こう」と言った。
平一は歌詞を知りたがったが、翻訳するのに平一にわかる言葉を捜して頭の回転を上げて、曲に浸ることが出来ないと感じたために出た平一の優しさだった。
“オネスティー”の曲が終わっても二人は会話も無く、ただ抱き合ったままだった。
ラジオからは、うって変わってロック調の曲が流れていたが、もう二人には聞こえていなかった。
平一は後ろから抱きしめていた手をゆっくり下へ動かし、由香枝の手を握った。
3曲目が終わったときに口を開いたのは由香枝であった。
「これ、たち悪いよね。抱き合うだけで満足するなんて」
「君は今、辛い時だから」
ラジオではDJが次の曲を紹介していた。
「ねえ、キスする?」
「君はしたいのかい?」
「私はこのままが良いけど、平一さんがしたいかなと思って、こんな魅力的な女を前にしているんだから」
「なぜだろう、不思議だけど今のままでいい。黙って」
「私は慰められているから満足だけど、平一さんはなぜ?」
「君が満足しているから―――黙って」
平一はそう言って、人差し指を由香枝の唇に優しく当てた。
さらに1曲が流れた。
今度の曲はブラザースフォーの七つの水仙だった。
美しいハーモニーでバラードの曲に、由香枝はとろけそうにウットリしていた。
弱々しくやっと喋るように
「わたし、喋るね。 喋らないと倒れそうだから」
彼女は喋り始めた。なぜ平一の元を離れて結婚したか。
由香枝は平一が好きだった、一緒に本を書いて楽しかった、しかし、本を書き終わって、ふと感じたのだった。『この人とセックスは出来ない』
丁度その頃、会社で知り合った主人と付き合い出した、
でも気持ちは平一さんを好きだった、愛していた、でも、一生、一緒に暮らすことを想像できなかった。
夫はとっても優しくて、何も問題なかった、言葉の壁は有ったものの、それが逆に、お互いの気持ちを一生懸命伝える誠意が愛を育てた。
デートしても、日本人同士なら、1分で終わる会話も、二人は身振り手振りで、辞書を片手に10分以上の会話になった。それが、苦にならず、逆に楽しかった。
「彼との新婚生活は―――」
由香枝は言葉を捜した。
「彼との新婚生活は、普通かな―――多分」
由香枝は言葉に詰まった。そして、結婚生活を振り返りながら、
「でも、映画じゃないけど、良き妻、良き夫にうんざりしたのかも。子供がいれば違ったでしょうけど。良き妻を演じていた訳じゃなくて、良き妻だったの、主人も同じだと思うわ。主人が浮気でもすれば少しは波風も立って、離婚しなかったかもしれない。変だけどね―――すごく変だけどね。そして、いつの間にか離婚していた。
波風が立つことも無く離婚していたの。裕福すぎたのかな――― なんか――なんか分からないや」
平一は、由香枝が小刻みに震えているのを感じた。
そして、震えを押さえるかのように強く抱きしめた。
「例えばね」由香枝が急に元気良く話し出した。
平一はびっくりして腕の力を緩めた。
「“マイ・フェア・レディ”観たよね。綺麗になってからのオードリー・ヘップバーン
って、綺麗なだけで魅力無いよね、花売りのヘップバーンは小汚い格好をしていたけど、キラキラ輝いてて、すごく魅力だったじゃない」
平一は頷いたものの
「そうかな、イライザ・・・ オードリー・ヘップパーンじゃなくて、役の中のイライザはどうかな?花売りのほうが良いかな。
レディーになって良かったと思っているんじゃないの。
風呂にも入れるし、チョコレートもいっぱい食べられるし。
元の小汚い花売りに戻れって言うのは、いくら輝いていても酷じゃないの」
「わたしは、レディーが嫌だったの、花売りに戻りたいの。キラキラ輝いていたいの」
「それは、君本来がレディーじゃないからかも」
由香枝はやさしさの無いこの言葉に昔と変わらない平一の無神経さを感じたが、平一が変わっていないことに対して嬉しくも思った。
「それって、この雰囲気で言う言葉じゃないわね、わたし、落ち込んでいるの―――少しね」
平一は、女性と話しするときは、“反論しないで同意しないといけない“と紗枝が言っていた言葉を思い出した。
「そうだね、確かに、“カサブランカ”の若いイグリット・バーグマンより“サボテンの花”の中年のバーグマンの方が魅力は有るね」
「サボテンの花? 観てないな」
ラジオからは、スメタナの“モルダウ”が流れた。
大きな窓から太陽は完全に姿を消し、一番星や、ビルの明かりが点きはじめていた。
ラジオの曲で沈黙が続き、二人の心は解け合ってひとつになっていた。
SFの世界では“精神融合”とでも言える状況だった。
二つの心が一つに、お互いの魂の中に入り込み、その喜び、悲しみ、苦痛、孤独さまざまな感覚をお互いに体験した。
・・・・・かのように思われた。
「なぜ笑うの?」由香枝が顔だけ振り向きながら言った。
「えっ、最初に笑ったのは君だろ?」
「わたしは、この最高の雰囲気に漂いながら、空中散歩していただけ―――最初は上も下も右も左も全部真っ白で、宙に浮いていた。
その内、下の遠いところが薄い青色になって、それが徐々に濃くなり、あたり一面が緑に変わって、色とりどりの花が咲き出し、川が流れ、空が徐々に暗くなり、あふれんばかりの星が輝き、そのうち星が流れ出した。あまりの美しさに後ろを振り向くと―――」
由香枝はそう言ってうつむいた。
「どうした?」
「でも―――」
由香枝はうつむいてポツリと言った。
「ひとりだった」
平一は、腕の力を入れた。
平一は由香枝の孤独さに気づいた。
由香枝は考えていた。なぜ一人だったのか。最高の雰囲気、最高の気分、なのに・・・
誰かと一緒じゃなくて、ひとり・・・・
孤独感は全く無い。
ひとり、だから幸せ?そんなはず無い、今、平一さんがいないと、きっと寂しいはず。
抱かれているから、落ち着いていられるし。
ひとりだけど、遠くから優しく見守られている気分?
守られている安堵感。 なのかな?
由香枝がそのようなことを考えていると
「俺では駄目かな」平一は由香枝の言葉に少なからずショックを受けていた。
由香枝は返す言葉が見つからずに黙っていた。
長い沈黙の後、平一は気を取り直し、話題を変えた。
「最近はラジオを聴かなくなったなぁー。あの時以来だよ」
「懐かしいわね。よく一緒にラジオ聞きながら、ああでも無い、こうでも無いって良く話しをしたよね。ナッチャン、チャコチャンを聞きながら、よく笑ったよね。
あの頃よネ、私が急に部屋に入ると平一さんが女装していたのを見たのは、『女性の感覚で書きたかった』とか何とか言っちゃって、懐かしいナーあの頃。
あの頃のわたしは平一さんの手が触れただけで、―――物を渡す際に一瞬触れただけで―――」
由香枝は涙声になっていた。
由香枝の言葉が詰まった少しの間に平一が割って入った。
「手が触れただけで心が見透かされているようで動揺した。でも表情に出ないよう平静を装った」
「同じ気持ちだったんだ。なのに―――」
「手って不思議だよね。ちょっと触れただけで体中に電気が流れる人と、何にも起こらない人がいて、まったく気にしていない人の手に触れて電気が走り、俺はこの人に興味があるのかなって思ったり」
由香枝は涙声で「懐かしかったけど、これから奥さんのところに帰るのね」