美術館3
彩美は、順平が立ち去ったあと、レモンスカッシュを注文した。
動揺した心を炭酸の力で静めようとした。
中央のモービルは、何事も無かったように奇怪な動きをしていたが、彩美が見るホンのちょっと前に一直線になった。その瞬間を彩美は見逃し、予想以上に落胆した。
自分でもこんな下らない事に落胆したことに驚いていた。すると、自分がどう見られているか急に不安に思えた。
男に取り残された自分をほかの人はどう見ているのだろうか。急に用事が出来て、男性だけ先に帰ったと見てくれるのか、男に振られた哀れな女と見られているのだろうか、彩美は周りの様子を観察した。
右のほうには若いカップルが楽しそうに話をしていた。その奥は、老夫婦、5歳くらいの子供をつれた父親。左には、眼鏡を掛けたインテリ風の30歳くらいの、スタイルの良い女性がファッション雑誌を読んでいた。
モービルの横でこちらをくいるように見ている男性に気づいた。50歳前後で白髪が少し混ざっている様子で、彩美が男を向いたときにあわてて目をそらし、鞄から文庫本を取り出し読み始めた。ミニスカートの時はたまにいるので気をつけてはいるが、今日はジーパンだから覗かれることはないので、単なる偶然だと思った。
「ミニスカートだったら良かったのにと思っていたんです」
彩美には男がそう言うのがはっきり聞こえた。しかし男はモービルの横にいて、10メートルは離れていて、大声でないと聞こえない距離である。周りを見回しても話しかけられそうな男性はいないし、横の女性が男声で話しかけてきたとは考えられなかった。
「周りにはいませんよ、―――そう、正面の中年の男です」
彩美は困惑した。正面の男は文庫本を読んでいて、こっちらを見ていなかった。
「あなたが先に話しかけてきたんですよ。スカートじゃないか気にしていたでしょう。あなたみたいな魅力的な女性が、ミニスカートを穿くと、世の男性人も街に出て来るでしょう。―――デパートの婦人服売り場で、若い店員や肌が露出した人が一杯いると、それだけで幸せな気分になれるんですよ。その結果、使わなくても良い金を使うから、経済は良くなるんですがね」
昨日のテレビで、お笑いタレントが言っていた事だった。
彩美は順平の悪戯だと思い、テーブルの下を覗き込んだ。何も無かった。自分のバッグを取り出して中を調べたが、変なものは何も入っていなかった。すると、また男の声がした。
「あなたが先に話しかけてきたんですよ。テレパシーで」
「うそぉー」彩美は声を出して言った。その声は周りの人に聞こえ、一瞬の注目を浴びたが、彩美はポケットや、財布の中を見て、物を忘れた振りをした。
「声に出さないほうが良いですよ。―――携帯電話で話をしている振りをするとか、何か読んでいる振りをしたほうが良いですよ」
彩美は男の言葉に従いバッグから文庫本を取り出した。
紗枝から借りている本で、SFの原点らしい。SFにはあまり興味が無かったのでまだ読んでいないが、紗枝が絶賛する本だそうだ。表紙には“冷たい方程式”と書かれてあった。
「あなたは何者?」彩美は心の中で話しかけた。
「驚いているのはあなただけではありませんよ。わたしもあなたからの声が聞こえてきた時はびっくりしました。わたしにこんな経験は無いから、きっと、あなたが超能力者なんですね。わたしに最初に聞こえたのは、わたしへの話しかけではなくて、さっき出て行った男性―――順平さんって言いましたっけ―――その人への想いでしたよ。好きなのか、ただの友達か、自分でも分からないみたいですね」
「そっ、そんな―――名前まで伝わっているんですか?」
「あなたの気持ちが伝わってくるんです。女性を残して独りでさっさと帰ってしまう男なんて、と思いつつも、意地を張らずに素直にご馳走してもらえば良かったという後悔の念や、なぜ、こんな事で帰ってしまうのか分からない男への不満―――心が揺れてますな―――誰かに相談したいんでしょう。わたしで良かったら相談に乗りますよ。―――心を見透かされて怖くなって帰ろうとしていますね。でも、このテレパシーはわたしが出しているのではなく、あなたが出しているから、どこに行っても同じですよ。また別の人が困惑して、あなたに答えるでしょう。心を読まれるのは怖いでしょう。わたしも怖いんですよ。わたしの心がどれくらいあなたに流れ出ているが、変なこと考えないように堪えているんですよ。―――好きなら好きと言ってしまえば良いじゃないですか」
「女のわたしから言えません―――それに、まだ前の奥さんを忘れられないみたいですから」
「不安―――好きと言えない理由は振られたときの不安ですな。でも、そうやって煮えきれないで待っているより」
「待ってはいません。ただ、―――ただ、わたしから告白するほどじゃないというだけです」
「そうかな?―――わたしにはあなたの気持ちが分かるということをお忘れなく」
「じゃぁ、教えて、今のわたしの気持ちを」
「あなたに分からないのに、わたしに分かるはずが無いでしょう。ただ分かるのは、さっきの言葉が本心ではないということです」
「わたしの本心って?」
「よく分からないけど、振られたときのプライドが傷つくこと―――ですかな?」
「わたしに、そのようなプライドはありません」
「告白する必要も無いでしょう。食事ぐらい誘ったり、怖い映画を観て手を握ってもらったり、胸をちょっと彼の体に触れてみたり、男はイチコロですよ」
「でも、セックスしようかと言っても乗ってこなかったですよ」
「だからこそ、ソフトな誘い方が必要なんです。―――街を歩いていたらショウウィンドウに素敵な服が飾ってあった。眺めているだけじゃ、誰かに先に買われちゃうよ。それとも、また欲しい服が見つかるまで待つ?買ってみて、合わなかったら、捨てる、誰かにあげる、ストックしておく、買う前に試着してみる。―――いろんな選択肢があるのに、それを放棄するの?―――まぁ、売ってくれない場合もあるけど。―――仕事でチャンスが回ってきたらしがみつくでしょう。なぜ、恋にはしがみつかないの?今度逢ったら、『お腹が空いたからご馳走して』って言ってみたら。それから先は思い通りに事が進むよ―――きっと―――かなぁ?」
男は腕時計をみて、読んでいた文庫本を閉じ立ち上がった。
「帰ってしまうんですか」
「あぁ、疲れた。今度逢っても話しかけないでくれ」
男は会計を済ませて出て行った。
彩美は若いカップルを見た。二人で手を握り合って楽しそうに語り合っていた。
彩美に声は聞こえてこなかった。
隣の女性を見た。相変わらずファッション雑誌を読んでいた。
「あんたもバカねぇ」女性の声がした。
彩美は、びっくりしたが表面には出さないようにして、本のページをめくった。
「あなたにもわたしの声が聞こえます? 」彩美は恐る恐る、心の中で尋ねてみた。
「えぇ、さっきの男の人との会話が聞こえていたわ。おかげで、本に集中できなくて」
「ごめんなさい」
「いいけど、―――何も悩むこと無いでしょう。食事して、気が向いたらセックスして、後の事はそれから考えればいい事よ。―――私のこと聞きたいのね。私はキャリアウーマン、自活しているから男なんて必要ないし、欲しかったらいくらでもいるわよ。今は恋より仕事のほうが楽しいし。―――そうね、老後は寂しいわよね。今は男が寄ってくるけど、そのうち見向きもされないわね。その時は年下の男の子でも見つけて結婚するわ。―――
でも、TVドラマで言ってたけど、20代はラグビーボール、皆で奪い合う、30代はバレーボール、粗末に扱われるけど、まだ拾ってくれる、40代はサッカーボール、皆でけって遊ぶ、50代はドッジボール、皆が避ける
私はね、運命の出会いなんて信用していないから。反対側のカップルいるでしょう。あの男性、優しそうでしょう。あの人と数ヶ月間一緒に生活すると愛情が芽生えてくるわよ。愛し合って結婚するか、結婚した後に愛を育てるか。」
「結婚した後で愛せるとは限らないでしょう」
「ほとんどの男は愛せると思いますよ。私は暴力的な人は嫌いだから、お酒飲ませて暴力を振るわないかテストしたりしているけど、一緒にいて楽しくて、友達になれそうな人なら愛せるわよ。あなたの若さだったらご両親若くて、恋愛結婚かもしれないけど、もう少し年配のご夫婦に恋愛結婚は少ないでしょう。それでも幸せそうよ。―――確かに時代が違うし、誘惑も多いけど、―――昔は女性が我慢したことも確かね。―――遊びなさい」
突然隣の女性が手を振り出した。若い男が近寄ってきて、隣の女性の前に座った。
「えぇ、彼氏がいたの?さっきの話と違うんじゃないの」
もう女性の声は聞こえてこなかった。
彩美は隣の女性が、幸せそうに男性と話をしている様子を横目で見て、からかわれていたのだと思った。
彩美は、氷の解けたレモンスカッシュをまずいと思いながらも一気に飲んで、喫茶店を出ることにした。誰かの声が聞こえても無視しようと決めて、本をバッグにしまいこんでいるときに、「まだ居てよかった」と、紗枝の声がした。彩美は振り向こうとしたが無視して立ち上がろうとした。
「ちょっとだけ話して良い?」
紗枝と目が合った。本物だ。彩美はあわてて座りなおした。
「ごめんなさい。うっかりしていて」
紗枝はウエイトレスに「すぐ出ますから」と言って注文を断った。
「大丈夫?」
「大丈夫――じゃないみたい」
「こっちに向かっている最中に、順ちゃんから電話があって、こっちに来るんだったら、彩ちゃんがまだ居るかもしれないから様子を見て来てと言われたの。何かあったの?―――これから順ちゃんと会って昼食するけど、お仕置きしてあげても良いわよ」
「大丈夫じゃないのは、順平さんのことではなくて、私の精神状態なんです」
彩美は相談すべきか迷った。相談しても信じてもらえそうもないし、彩美自身も信じていなかったからだ。しかし、一人で悩むのはもっと辛いことが分かっていたし、紗枝なら馬鹿にされないという事も分かっていたので、思い切って話すことにした。
彩美は俯き、心の中で呼びかけた。
「紗枝さん、聞こえています?―――私、テレパシーの能力があるみたい。私の心がわかります? 」しばらくの間、何もおこらなかった。彩美は俯いたままだったが、紗枝の声が聞こえた。
「彩ちゃん大丈夫?―――」
彩美が顔を上げると心配そうに見つめている紗枝の顔があった。さえの唇が動いていた。
「どうしたの?急に俯いちゃって。気分でも悪いの?」彩美も声を出して言った。
「大丈夫です。すごく変なこと聞きますけど、―――何か感じました?」
「えぇ?―――質問の意味がわからいけど」
「私、テレパシー能力が有るみたいなの。私の気持ちが相手に伝わるみたいなの」
紗枝は唖然とした。順平と仕組んでからかっているのか?―――彩美はそんなことするはずが無いし、気が狂ったのか、本当にテレパシー能力が有るのか?
「少なくとも、私には伝わらなかったわ。話して」そう言うと、ウエイトレスを呼んでアイスコーヒーを注文した。彩美は突然男の人の声がしたこと。その男の人は10メートルほど離れていたこと。そして、隣の女性とも話をしたことを紗枝の耳元で囁いた。彩美は正直に話した。紗枝は黙って聞いていた。彩美は全て話すと、「私―――怖い」と呟いた。
「妄想ね、彩ちゃんは順ちゃんとの交際を否定的に考えて、後の二人はせかし立てた訳ね。それは彩ちゃんの本心の声だわ。否定的なのが彩ちゃんの本性で、積極的な方が彩ちゃんの意識していない本心よ。理性とか、対面、プライドなどが彩ちゃんを抑えて、それに反発して意識下の本心が他人の振りして出てきたんじゃないの。―――もし、そうなら大丈夫ね。今度声が聞こえても自分だと思えばいいから。でもね、一人歩きされたら困るからちゃんと専門医に診てもらいなさい。良くあることよ」
彩美は目を輝かせて「紗枝さんもあるんですか?」と言った。自分だけじゃないという安心感が沸いてきた。
「ないわ」紗枝はきっぱりと否定した。
「良くあるといったのは、例えば、いい男に出会うわね。抱かれてみようかしら。―――これが私の本性。でも、意識化の本心は、平一さんじゃないと満足しないことが分かっている。他人の言葉では聞こえないけど、心の中では会話しているわよ」
「逆じゃなくて」
「そう、逆じゃないわよ」
「と言うことは、私は表面上は順平さんに対して積極的じゃないけど、本心は欲しがっていると言うことなの?」
「プライドなのか、防衛本能とか、諦め、育った環境のせいよ、私もね、結婚前だけど、嫌な上司がいてね、いつも喧嘩していたわ―――喧嘩するほど仲が良いって事かもしれないけど、いつも気になっていたの。奥さんがいたけど誘っちゃった。別れさせて結婚しようって気はまったくなかったし、浮気するタイプの男性じゃなかったから、諦め気分だけど、自分の気持ちに区切りをつけたくて、―――本当に浮気するような人じゃないから、私から誘わないと何もなかったでしょうね。―――そんな人でも浮気するんだなーって思ったわ。3ヶ月くらい付き合ったかなぁー、やっぱり、奥さんに罪悪感を感じるから別れてくれと言われて、私も彼の気持ちが分かっていたから別れたけど、今は普通の上司と部下よ。愛していたから別れられたんだと思う。辛かったけれど、私の人生のエピソードのひとつね」
「紗枝さんの人生のエピソードのひとつかぁ―――エピソードという事は、紗枝さんの人生で本筋には直接関係ない物語って事ね。で、本筋のほうは?」
「平一さんとはね、その上司の紹介なの」
「厄介払いされたの?」
「別れて落ち込んでいたけど、すぐに立ち直ったの―――表面上はね、そしたら、『いい男がいるけど紹介しようか。俺と正反対の好青年だ。君を幸せにしてくれると思う』って言ってきたから、『あなたと、正反対の男性ならきっと最高の男性ね』と言ってやって―――立ち直っていたつもりだったけど、まだ立ち直っていなかったみたいね。あてつけも有ったみたい。それで紹介されて、めでたし―――めでたし―――ってとこね」
ウエイトレスがアイスコーヒーを運んできた。
紗枝は「平一さんの話をすると体がほてってきちゃうのよ」と言って、一気に半分飲んだ。
彩美は別れた恋人へ男性を紹介することが信じられなかった。私だったらバカにしないでといって怒るなと思いながら聞いてみた。
「いくら円満に別れたといっても、紹介したり、紹介されたり、信じられないんですけど」
「私が彼と別れたのも、彼が私に紹介してくれたのも、お互いに幸せになって欲しいという気持ちなの。私が紹介されたのは、あてつけも有ったけど、彼の気持ちも分かっていたの。―――理解できるかな?」
「出来ません」
その時、紗枝の携帯が鳴った。普通のリリィーンという音だった。
紗枝はゴメンねと言って携帯に出た。
「メールだわ」と言いながら不器用に操作していた。
彩美は喫茶店を見回し、独りで座っている人を探したが、カップルだけだった。ウエイトレスは、客が来るのをただ待っている様子だったので、心の中で話しかけてみた。―――やっぱり、何の変化も無かった。精神病よりテレパシー能力が有ったほうが良かったのにと思いながら周りの幸せそうなカップルを眺めていた。
「ゴメンね、順ちゃんから―――まだ来ないか? だって」
「私は大丈夫だから行ってください」
「いいわよ、待たせておいて―――私が仲立ちする必要がある?」
彩美はまだ自分の気持ちがわかっていなかった。ただ黙ってどうしようと考えていた。紗枝は彩美の様子を見て揺れ動いている彩美の感情を感じることが出来た。
「彩ちゃん、私から何もしないから、私に出来ることがあったら言ってね。最後は自分の判断よ。積極的に出るのも良いし、受身に立つのも悪くないと思うし、私は順ちゃんの気持ちを探ってみるわ。―――順ちゃんはいい人なんだけど、理屈っぽいし、ロマンチックなところも無いし、きっと、夜空の星を見上げて綺麗ねと言っても、あれは何座であの星はどれくらい離れていて―――なんて話になるわよ」
「よく考えて見ます。その前に病院に行って、診断を受けます」
「テレパシーとの勘違いは問題ないとして、何か他の病気の前兆かもしれないからね。」
紗枝は残りのコーヒーを飲み終えると、「そろそろ順ちゃんのところへ行くか」と言った。
彩美はもう少し此処に居て、買い物をして帰るといった。
紗枝は元気出してねと言い、手を振って出て行った。