美術館1
美術館の絵が展示されているホ-ルから出てくると、そこは広い喫茶店になっていた。喫茶店の中央にはモービルが置いてあり、その中央にはモービルに合わせて回転する時計があり、ちょうど11時を指していた。モービルは銀色に輝く金属の板や棒が、空気の流れに抵抗できず形がいろいろと変化していた。
広いスペースの割にはテーブル数は少なく、いたるところに、ポスターや写真製版された絵画が飾ってあった。窓の向こうには池があり、人工の滝が流れており、山奥に立っている未来の空間を思わせている。
平一、順平、彩美の三人が滝に一番近いテーブルについた。
順平が回りに飾ってあるポスターを見ながら彩美に話しかけた。
「やっぱり本物の絵画は違うね、ポスターで出せない何かを感じるね。たとえば立体感とか、人物だけが浮き出て見えるんだよネ」
彩美は奇怪な動きをするモービルをじっと見つめたままで順平の話を聞いていなかった。
「彩美さん、どうかしたの。絵画に心を吸い取られちゃった?」
順平はそう言いながら、手を彩美の目の前で上下に振った。
「あっ、ごめんなさい、あの動きに見とれていたの。何というか予測できない動きに気を取られちゃって、次はどんな形になるんだろう、一直線になることあるのかな?とかいろいろ考えちゃって、見ていて飽きが来ないの」
順平もモービルを振り向いて
「予測できない動きって面白よ。金魚も見ていても飽きないし、絵は動かないで止まってるけど、観る側の心が動くから飽きないのかもしれない」
彩美は急にモービルから目をそらし、順平のほうを見て言った。
「いけない、モービルを見ていると気がとられちゃって―――見ない様にしよっと」
「何の話だっけ? 集中するから話し続けて」
「本物は違うなって言ったの、でも、贋作は専門家でも区別しづらいだろう。贋作でも感動するだろうな」
「著作権の問題ね、感動はすると思うけど」
「だったら、一層の事、贋作の展示会をして入場料を安くして欲しいな、主催者側も絵に気を使わなくてすむし」
彩美はあきれたように、
「贋作と知ったら見る目も変わるでしょう。観に来る人はいないでしょう、順平さんだけじゃない。 先生はどう思われます?」
平一は「ああ」と答えただけで、聞いていなかった。
バッグにしてもそうだけど、物の価値は、本物と見分けのつかない偽物と本物で違うの?もちろん、著作権は別としてだけど」
そこへウエイトレスがおしぼりと水を持ってきた。
「ご注文決まりでしょうか」
放心状態の平一が即座に真顔で答えた。
「モーニングコーヒー」
「はぁ?」
ウエイトレスは困ったように
「モーニングサービスでしたらもう終わっておりますが」
と言って、また無茶なお客がきたと思ったのか、
「朝煎れたコーヒーはお客様には出さないようになっておりますので、今、煎れ立てのコーヒーで宜しいでしょうか」
彩美はウエイトレスが困っているのを察して、ウエイトレスに向かって、
「ごめんなさいね、ホット3つお願い」
ウェイトレスは黙ったまま立ち去った。
彩美は、先生、困らせたら駄目ですよと言ったが、平一が滝を見つめており、聞こえていないのに気づいた。
彩美は順平に向かって、
「先生に話し掛けないでね。今、小説の中に居るみたいだから」
順平は平一を覗き込んで、小声で言った。
「寝ているだけだよ」
「ウエイトレスは順平さんの好みでしょう。童顔で、痩せていて、小柄で、可愛さの中に知性が潜んでいるような」
と順平をからかった。
「俺、誰でも好きになれる、嫌なところは嫌でも目に付くけど、良い所って見ようとしないと見えない部分が多いから、俺はできるだけ長所しか見ないようにしている。だから人を嫌いになることはめったにないし、反対にその人の魅力に気づいて、誰でも好きになってしまうから問題も起こすわけ。嫌いになるより好きになるほうが良いでしょう―――聞いているでしょう、俺のこと」
「今朝、紗枝さんも同じ事を言っていたわよ」
順平は「姉さんも魅力的な人だけど」と言って、
「彩美さんも非常に魅力的だけど、その人は彩美さんとはまた違う魅力的な人だった。小柄で、童顔で、非常に純粋な女性だった。」
彩美は目を逸らして、話したくなければ話さなくていいよと言った。
「俺、本当は誰かに話したい、会社では絶対にその話題に触れたらいけない事になっていたから、二次災害を防ぐ為にね、ただでさえ、彼女は嫌な思いをしているのに、第三者がその話題に触れたら嫌でしょう。からかわれたりしたら嫌でしょう。だから絶対に口外できなかった。俺としてはそれが最悪だった。誰が何処まで知っているのだろうか、馬鹿なやつだと言われたいけど誰も言わない。女房も出て行ったことだし、会社を辞めちまえッと思って辞めたけど、辞めるまでは辛かった。もちろん自分でまいた種だから仕方ないけど、ドラマに出てくる犯罪者の気持ちが分かって来た。あれだけ悪いことをして自己嫌悪にならないって羨ましいとも思った事がある。あの頃はいつも怯えていた。何か有ると自分のことじゃないかとか、聞き耳を立てていたよ。悪い事した政治家が証人喚問に応じる前日の気持ちが分かるような気がする。表面上は強がっているけど、内心はドキドキじゃないかってね。
俺も、表面上は平静を保っていたけど、それがまた辛かった。俺はこんな事をしましたって叫びたかった。でも、二次災害を考えるとそれも出来ないし、最悪だった、まだ続いているけど」
少しの沈黙の後
「一年経てば落ち着くかなと思っていたけど、いまだに罪悪感だけは消えない。あの頃は、その日が終わりに近づくと、今日も1日消化できたと思った」
感慨深そうにさらに続けた。
「やっと1日が終わったという感覚じゃなくて、消化という表現がぴったり合うんだ」
彩美は、うつむきながら話している順平の顔を退きこむようにしながら聞いた。「消化?―――夢も希望も無いって事ね」
「俺はそれでも良いけど、彼女が―――彼女の人生が変わると思うと、罪悪感に襲われる。今でも―――恐らく、いつまでも、―――男性恐怖症にならないで、幸せな人生を送ってくれると良いんだけど」
「ふーん、幾つ位の人?」
「22歳」
「物事の判断のつく大人ね」
「でも、22歳でも純粋な女性もいるんだよ」
「でも、そのおかげで素敵な人生を送る可能性もあるわね、彼女次第かもよ」
「そう願いたい―――俺に出来ることは、過ちを繰り返さないこと」
「何の過ち?」
「彼女も俺と一緒にいて幸せなんだと思い込んでしまったこと」
「実際は違っていた事ね」
「順平さんは私の人生も大きく変えたかもしれないわよ。会社を辞めなければ今こうして一緒にいることはないし、もしかしたら、私は今頃、素敵な男性と大恋愛をしていたかも―――結婚詐欺にあっているかも」
順平がまだ喋ろうとした時にウエイトレスがコーヒーを運んできた。
「兄さん、コーヒー来たよ」
順平が平一の肩を揺すった。
平一は我に帰って、
「いつのまにか寝てしまった」
と言ってコーヒーカップを手にとった。
彩美は深刻な顔をして外を眺めていた。
突然、ビリー・ジョエルの“オネスティ“の曲が鳴り出した。
「兄さん、携帯だよ」
平一の携帯はめったに鳴らないので、慌てていた。慌てて鞄から取り出しどれを押すんだ?と言いながら、順平に通話ボタンを押してもらった。
呼び出しの曲を設定をしたのも順平である。
順平は砂糖をコーヒーに入れながら、この曲を知っているか彩美にたずねた。
彩美は聞いたことは有ると答えた。
「この曲は、俺が一番のお気に入りなんだ。“誠実!なんて淋しい言葉だろう。”
二番目のお気に入りは、ダイアナロスの“マホガニーのテーマ”この二つの曲は十回連続で聴いても飽きない曲、映画では、“2001年宇宙の旅”、“草原の輝き”,“アメリカの夜”映画の話をするとモーニングコーヒーを飲む羽目になるから辞めるけど、人生って、こんな良い曲や、いい映画に出会えて、ほんとに素晴らしいと思う。もちろん、友達や、恋人、妻、子供も含めてだけど」
平一は携帯電話を順平に渡して切ってもらうと、
「糸口がつかめそうだ。構成のヒントが出そうだからちょっと人に会って来る」
と言って、アツーと言いながらコーヒーを一気に飲み干し、順平にコーヒー代を渡し、携帯を受け取って、席を立った。
先ほどのウエイトレスが近くに居たので、コーヒー美味しかったよ、と声をかけて小走りに喫茶店を出て行った。
ウエイトレスは変な客じゃなくてほっとした様子で笑顔を返して、有難うございましたと言った。
順平は、平一がコーヒーを一気に飲み干すしぐさや、携帯を慌てて鞄にしまう動作が、テキパキとしていつもと違う平一の姿を見た。
「兄さん、いつもと違うよね」
「手がかりが見つかって、慌てたんじゃないの。よっぽど気になってみたいね」
その会話の後、沈黙が二人の周りを覆い尽くした。
順平は、自分の事を聞いて欲しかったが、彩美は聞きたくないだろうと思い、彩美は話を聞きたかったが、順平は話したくないだろうと思い聞き出せなかった。
周りは笑い声などでガヤガヤとしていたが、二人の周りは外と遮断されていた。
順平は沈黙のカーテンを引き裂こうと彩美の好きそうな話題を探したが、彩美のことは何も知らない事に始めて気づいた。
順平は彩美に対して好意を持っていたが、何も知らなかった。外見だけで好意を持っていたのだろうか?順平はこれではいけないと思い、趣味は何かと尋ねた。
彩美は、初めて会った人みたい、お見合いかしら、と笑って趣味の話をした。
「趣味か、無趣味かな。映画も、音楽も、読書も好きだけど、人に話せる程の知識は無いし―――」
と言い、何気なく順平の考えを聞きだせるような答えを探しながら、休日の過ごし方などを話していた。そして、新聞は出来るだけ読むようにしている事、その中で、“DV法―――ドメスティック・バイオレンス法が気になったことを話した。
予想通り順平は乗ってきた。
「俺は、DV法は必要ないと思う。人が人に暴力を振るうのに、夫婦だから甘く見ること自体がおかしいと思う。人が他人に暴力を振るったら、当然、犯罪でしょう。妻が訴えたら警察は動きだすべきだよ。夫婦だから許されることは無いから、一般の犯罪として処分すべきでしょ?本当に必要な法律は、暴力の夫が刑務所に入ったり、離婚した場合に収入がなくなることで、それを法が援助すべきだと思うよ。少しばかり良い生活をしたいとか、海外旅行に行きたいとか、子育てより働いていた方が良いとか、そんな女性のために法律が有るけど、本当に必要なのは、夫に先立たれた、別れた、刑務所に入っている、病気、などの収入源を絶たれた女性を救う法律が必要だと思う。今の政治家は票が目的だから、数が少ない人を無視して、票の取れそうな人の為の法律を作るけど、“夫が暴力を振うなら、別れなさい、後は国が補助して、身も守ってあげます”くらいは言って欲しいと思わない?子供がいなければ当人の問題だけで終わるけど、子供がいれば、まず第一に、子供の将来を考えて次の行動を考えるべきだから、国にも何かして欲しいよね」
さらに順平は一気に喋り出した。
「子供といえばアフガニスタンの戦争問題も同じだと思う。動機がどうであれ、死んだ人には悪いけど、子供にとって良いか悪いかで論ずるべきだと思う。隣の家が暴力を奮う家庭で子供が虐待されているとして、干渉はいけないと見て見ぬ振りするか、警察に通報して子供を救うか。国家権力の干渉は危険だけど、自分では助けに行かないけど、国は助けるべきだと思う。オウムの子供たちも親権を取り上げるくらいはすべきだと思う。
イラク戦争にしても、“戦争反対“と言うのは簡単だけど、わかっているのかな?
日本にいるから“反対“って言えることを、ある放送局も戦争反対の立場でアメリカを非難して放送していたけど、彼らはイラクの放送局で働けるのかな?働いても良いと思っているのかな、結局は”他人事”だから言えるような気がする。
もっとも、当事者の立場に立って“戦争反対”って行動できる人は立派だけど。
評論家で、核を持っている国が、核を持とうとする国に、“核を持つな”というのは変だ “という評論化がいたけど、日本の警官が、一般市民に”銃を持つな“と言うのは変かな?アメリカが、核を使うのを、アメリカ国民は止められると思うけど、イラク国民や、北朝鮮の国民が核の使用を止められるかな?―――イラクでデモが起きるのは良い兆候だし、テロは絶対だめだけど、日本もイラクの子供たちのために復興を援助すべきだよ。―――消防士は管轄外の隣に町で大火災が起きたら、どんなに危険でも協力するでしょう。そのために訓練を受けて、給料を貰っているんだから、管轄外だし、危険だから協力しないとは言わないでしょう」
順平は彩美の目を見て、喋るのを止めてくれと言った。
彩美は、熱っぽく語る順平が魅力的に思えた。話の内容に全面的には賛成できない箇所もあったが、反論はせずに順平の熱弁を楽しんでいた。
彩美は時計を見て、
「順平さんの持ち時間はまだたっぷり有るわよ」と言い、
「やっぱり安い時計は駄目かしら―――遅れているわ」と言った。
順平は、息を切らしていた。おしぼりを手に取り、汗ばんだ手を丁寧に拭いて気分を落ち着かせた。
順平は落ち着くと、喋りすぎたと思った。話題を変えないと彩美が退屈してしまう、嫌われてしまうと思い、軽い話題に変えようと、「俺の時計を見て」と言って左の腕時計を見せた。
「俺の時計は高級だよ。」と言って間を取り、彩美が笑う顔に期待しながら
「だから遅れることはないし、普通の時計より速く進む」と言った。
彩美はエレベータガールのまねをして、右手を肩まで挙げて「上へ参ります」と言った。
順平は「そうか。やっぱりくだらなかったか」と言い、彩美の笑いを取れなかったことに、ガッカリしながらも、これはどう?と言って、
「リサイクルセンターの張り紙で、『中古の落下傘あります。開かなかったら新品とお取替えします』と書いてあったと言って、今度はどうだと思い、彩美の顔を覗き込んだ。
まあまあネ、と彩美に言われて、雰囲気が和らだ事で満足することにした。
順平は和んだ雰囲気を保つために、彩美の生い立ちを聞いてみることにした。
「彩美さんの生い立ちを話すと何時間掛かるの?」
「そうね、5分くらいかな」と言って微笑んだ。
彩美の微笑みは、順平のジョークで得られなかった微笑であった。
「彩美さんの人生を映画にすると5分なの?―――俺ね、映画が好きなのはいろんな人生が観れるから。自分の人生は一度きりだけど、映画の中でいろんな人の人生を味わえるから映画が好きなんだ。特にヒューマンコメディーが好き。シリアスなのはちょっと苦手だけど、ニール・サイモンの作品は特に好きだね。映画になった『第二章』の中で、マーシャ・メイスンが、『私は、あなたが欲しいから努力している。あなたも私が欲しかったら努力して』と言うんだ。でもその後に、『私はそれだけの価値がある女よ』って言うんだ。日本人には言えない台詞だよね。すごくインパクトの強い台詞だった。マーシャ・メイスンって女優は知らないだろうけど、年は当時40位で、美形じゃないけど非常に魅力的な女優で、その台詞を言ってもおかしくないんだ。もっとも、一生懸命生きている人なら誰が言ってもおかしくないんだけど、日本人には言えないよね。」
順平は、はっと気付いて、
「話がそれてしまった。また自分の話をしてしまった、彩美さんの生い立ちを聞いていたのに、ご免―――話し続けて」
彩美は、順平がずっと話し続けてもいいのにと思いながらも、話し出した。
「現在、彼氏は居ません。一人暮らしで普通のOL、スリーサイズは内緒―――
以上、まだ聞きたい?」
「続けて」
「本当に平凡なの。父は公務員で中学校の先生、母は専業主婦だし、下に兄が1人」
「下に?」、と順平は聞き返した。
「引っかかったわ、兄の部屋は1階で、私の部屋が2階だったの」
「ほう、彩美さんも冗談を言うんだ。―――続けて」
「家族会議を開くことも無かったし、夫婦喧嘩も見たこと無いし、大恋愛もしたこと無いし」
彩美は急に黙り込んでうつむいてしまった。「―――いやだぁ、落ち込んじゃった。私の人生って何なんだろう。」
彩美は本当に落ち込んでいるみたいだった。順平はまずい状況になったと思い、
「まだ若いんだし、気にすること無いよ、不倫でもすれは人生変わるよ」と言って、また追い討ちをかけるように、まずいことを言ったという顔をした。
「不倫も良いかな」順平は慌てて、「そんな気じゃなかった、つい、いつもの癖で口に出てしまったから気にしないで」
彩美は微笑みながら、
「私、泣いたこと無いの。もちろん子供の時は泣いたけど、大人になってからは、親戚一同皆元気だし、いじめられたことも無いし、映画を見て涙するぐらいで、心から泣いたり、怒ったりした事無いの。心から笑うことは有るけど、死ぬ直前に人生を振り返って何も無いって淋しいよね。今まで気にしてなかったけど、淋しいな」
「それって、一番幸せって事じゃないの」順平は慰めた。
彩美は「大恋愛をするか、不倫するか、大失恋が一番記憶に残って人生って感じがするかなぁ」
「俺は大失恋なら経験豊富だ」
順平はちょっと声を低くして、
「人間は愛することで喜びを覚え、愛を失うことで成長する」
順平は口の右側だけを上にあげた。そして、
「失恋は大賛成だ、いろんな人を好きになって、失恋して、また好きになって、これぞ人生だね。又は、仕事に専念して大きな事を達成する、これも人生、子育てに専念する、これも人生、彩美さんなら、その全てを経験できるよ、―――これからね、まず失恋する為に恋をしなくちゃね。」
彩美は笑いながら「失恋する為に恋をするの?」
「その通り、その方が人生は楽しいよ―――まっ、もっとも最初から生涯の伴侶に出会って、他の人を知らずに満足なら、それも素晴らしい人生だけどね」
「生涯の伴侶と思って結婚したら違っていて、生涯の伴侶に後から出会ったら最悪ね」と彩美は悪戯っぽい笑いを浮かべながら言った。
「私はそれだけの価値にある女よ、と自分で言えるようにしたいよね。」
順平さんは言える?と聞いてきた。
順平は、さめたコーヒーをイッキ飲みして
「彩美さんには言えないな、もっといい男が彩美さんにはふさわしいと思うけど、女房―――違った、前の女房なら言える。過ちは犯したけど、ちゃんと言える―――と言うか、言ったことがある。」
「よっぽど奥さんを愛してらしたのね」
「勿論」と言って
「愛の話になったな。愛の話になるとまた喋りが止まらないぞ」
「良いわよ、思う存分話して」
「まず、さっき話したけど、フランソワ・トリュフォー―――映画監督なんだけど―――『アメリカの夜』って映画があるんだ。テーマが、“本物と偽物では、偽物のほうが本物らしき見える”と言うテーマで、映画の中でいろんな愛を描いている、恋人・夫婦・親子―――そして、本物の愛と偽物の愛を見せて、偽物が本当らしく見えると言ってるんだけど、その通りだと思う。俺が始めて“愛”を感じたのは、高校生の頃で、会いたい―――何時までもいっしょに居たい―――話をしたい―――という自分の感情から、相手の気持ちを考えるようになった自分に気付いたときに、これが愛なんだと感じた。つまり―――上手く言えないけど、自分の感情を無視して、相手の気持ちを優先したとき、彼女は何をして欲しいのか―――何をしたら彼女は喜ぶのか、どうしたら幸せになるのかだけを考えた―――自分の感情を無視するから、とっても辛かった。
彼女の幸せが、自分の欲求と違うこともあるから、辛いことだよね。
“愛は辛い”・・・本当だなぁと思ったよ。
“愛する人の悲しむ顔を見たく無い―――じゃ無くて、悲しませたくない”って事かな」
「あの世に行っても一緒なのね」彩美は羨ましいと思った。
順平は真面目な顔をして、『実はそうでもないんだ』と言った。
「実は、俺、―――死んだら天国に行っちゃうから、一緒になれないんだ」
彩美はあきれてものが言えない状況だった。
「ごめん、雰囲気壊しちゃったね」
彩美は本当に怒って、
「なぜ、人が真面目に話しているのに、そう―――なんて言えばいいのか―――あきれたとしか言いようが無いわ」
順平は「ごめん、照れ隠しなんだ。前にもあった。うんと若いとき、女の子を誘いたくて、素直に言えなくて、『今度花見に行こう』って言ったんだけど『いいわよ、いつ行く』、彼女はうれしそうに答えたんだ。そのとたんに照れちゃって、『桜が散った頃』と言ってしまって―――その後、彼女は何を言っても相手にしてくれなかった。」
「あの時、真面目に誘っていたら付き合っていたかもしれないし、俺の人生は変わっていたかもしれない。たった一言で人生が変わったかもしれない。今の人生を後悔しているわけではないけど―――」
紗枝はまだ怒っているような口調で言った。
「彼女の人生も変わっていたかもね。―――悪いけど、わたしも天国に行くから、向こうで会ったら声ぐらいはかけてよね」
「まだ怒っているな。天国はつまらないよ」と言って、
「こんなジョーク知っている?」
順平は言った後で、またジョークかよと思い、彩美もまたジョークねと思った。
「ある男が死んで、真っ白な場所に連れて行かれた。召使らしき男が現れて、『ここがあなたの場所です。必要なものが有ったらわたしに言ってください』と言った。男はまず、食事を頼んでみた、すると、今まで食べたことも無いようなご馳走が並んだ。男は信じられずに、偽者だろうと思い、恐る恐る食べてみた。美味しかった。男は調子に乗り、綺麗な女性を頼んだ。スキーをしたい、泳ぎたい、山に登りたい、ドライブしたい。全てが叶った。召使に頼むと全てが叶った。そして、長い年月が流れた。男は望むもの全てを手に入れていた。全ての場所にも行って退屈しだした。男はふと思った、まだ地獄を見学してないな。そこで、召使を呼んで、地獄を見学したいと言った。召使は―――『今、何処にいるとお思いなんですか?』と言ったそうだ」
順平は喋り終わると、彩美の様子を伺った。
彩美は笑いもせずに、『順平さんの好みそうなジョークね』と言った。
「やっぱり受けなかったか」
「時と場合によるわ」彩美は続けて言った。
「順平さんは自分だけの世界に入っている。わたし、その世界に入れないの」
順平はあせった。今まで良かった雰囲気が一気にかき消された。何とか雰囲気を戻さなくては、しかし、間単に行きそうも無かった。何したら笑ってもらえるだろうか。何しても、『時と場合によるわ』で終わってしまいそう。その時、近くをウエイトレスが通った。
「すみません」順平は呼び止めた。
「チョコレートパフェを2個ください」
ウエイトレスはお礼を言って立ち去った。
「わたし、食べないわよ。ちゃんと聞いてから注文してよね」
「俺が2個食べるんだ。欲しかったらあげるよ」
順平は開き直っていた。ちょっと怒った彩美の顔を見るのも悪くないかと思った。めったに怒らない彩美が怒ったから、もしかしたら、心を開いてくれたかもしれないと思った。
もし上司だったら、あの程度の言葉では怒らないだろうと思った。
彩美自身も不思議に思っていた。なぜこんなに感情的になっているのだろう?―――たわいも無いジョークなのに。
最近怒ったことあるか考えてみた。上司の気まぐれな言動に“ムッ”としたこと、
車に水を撥ねられたこと。その昔、付き合っていた人が浮気して別れたとき。
彩美はこのちょっとした感情の動きに快感さえ覚えていた。
「有難う。感情を外に出したのは、付き合っていた人に浮気されて以来よ。ちょっと心地よい気持ち。隠していた感情を外に出すって必要よね、スッキリしたと言うか、一人暮らしだと機会が無いし」
「浮気されちゃったの?さっきの5分の人生には出てこなかったけど」
「そう言えばそうね。すっかり忘れていたわ。」
順平は、彩美の目を下から覗き込んで、「また、怒らせることを言っていいか」と尋ねた。
彩美は笑いながら「いいよ」と答えた
「最初に言っとくけど、最高に嫌われそう、ナイフでグサリ―――」
順平は手でナイフを持って彩美の心臓を刺す仕草をして話し出した。
「なぜ浮気されたか考えたことある?浮気したほうが悪いのはなぜ?彩ちゃんより他の女性を求めたのはなぜ?―――体?―――心? なんにせよ彩ちゃんが持っていなかったものを相手の女性は持っていた。それに―――」
彩美が話の途中で怒ったように「だから浮気して良いことにはならないでしょう」と言った。
順平は「これは俺の持論だから、自分でも正しいとは思ってない。だから途中で口を挟まないで最後まで聞いて欲しい。責めているんじゃない。ただの持論だから」と言って先を続けた。
「なぜ、付き合いだすと相手を束縛するの?―――相手に気に入られようとする努力を続けたくないから?―――努力する必要が無いと思っているから?―――努力を怠ったら振られても当然だと思うでしょう。もちろん努力というのは、物を贈ったりとか、相手に媚びることじゃなくて、相手を想い労わる事だと思う。付き合っているからと言って、ほったらかしにされたら浮気されて当然、振られて当然だよね。前にも言ったけど『私は、あなたが欲しいから努力している。あなたも私が欲しかったら努力して―――私はそれだけの価値がある女よ』って台詞を引用したけど、私はそれだけの価値がある人だということを実行して、相手に分からせないと。“金の切れ目が縁の切れ目”と言われるけど―――そういう関係があるのも認めるけど、“おもいやりの切れ目が縁の切れ目”で良いんじゃないの。それに、価値観の違いもある。思い遣りは有るけど、体を許してくれなかったとか、セックスのタイミングが合わないとか、努力して直る部分と直らない部分も有る。おとなしい娘がいいなと思って付き合って、別の気性の荒い娘に興味を持った時、おとなしい娘と別れてからじゃないと気性の荒い娘と付き合えないとすると、おとなしい娘が良かったとなった時に後悔しないために、二股をかけておくのも有りだと思うよ。とにかくこの世は素敵な女性が多すぎる。人それぞれ魅力を持っているし―――中には興味もわか無い人がいるけど、ほとんどの女性が魅力を持っている。そこに惹かれてしまう。それは、容姿だったり、気持ちだったり、ちょっとしたしぐさだったりするけど、独身だったら試してみるのもOKじゃない。A君は優しいけどセックスが下手。B君は面白くない人だけどセックスは上手。C君は二人の中間。遊びはB君、結婚はA君かな」
順平は彩美が反論することが分かっていたので、「後で反論を聞くから、先に話させて」と言った。彩美の顔を見ただけでいらいらしているのが手に取るように分かった。
「大きな買い物をするときでも二股・三股掛けるでしょう。もちろん人間は物と違い感情が有るから、そう簡単ではないけど、将来の伴侶を見つけるのだからそれ位しなきゃ。―――特に女性がすべきなんだ。結婚に失敗したら女性のほうがダメージは大きいから、女性の方が二股・三股掛けて慎重に選ばないと―――後悔しないために」
順平は一息ついて「パフェ遅いな」と呟いた。
彩美は一気に反論してやると意気込んでいた。
「もちろん結婚している人は別だ。結婚のため仕事をやめた女性に、別な人が出来たから離婚とか簡単にされたら生活がめちゃくちゃになるし、許されないことだと思う。特に子供がいたら、母親になると特に夫の面倒まで見切れないし、夫への思い遣りが有っても行動できないと思うから、あくまでも独身者に限るけど、―――大半の女性は社会的に優位に立てないのが現状だから、せめて恋愛・セックスに関しては優位に立たないと、―――
これは個人的な問題だから、女性の考え方でどうにでも成る事でしょう。
例えば、男性が女性の肩を組むでしょう、これは身長差の問題ではなくて、上下の問題。身長の高い後輩が身長の低い先輩の肩を組まないでしょう。
そういうこと、女性は肩を組まれることを許している。自分からハイヒールを履いて肩を組んだら?
セックスでも上下関係が決まる。男は突っ込む、女性は受け入れる。男は良かったかどうか気にするのは、優越感を確かめるため―――喜ばせることが出来たという優越感―――
このように、性的に男は優位に立っている。だから、女性は精神的に優位に立って、積極的に男を品定めしないと弱者になってしまうよ。
哺乳類の進化って雌、つまり女性が鍵を握っていると思う。生物の本能は子孫の繁栄で、雄はただ単に何も考えずに種を撒くだけ、でも女性は違う、生まれた子がちゃんと成長しないといけないから、生きていける雄を選ぶ。
キリンの例だと首が長くて高い枝の葉を食べられるキリンが健康だから、雌は首の長い雄の子を産む。雌が首の長い雄を選んでいるうちに、長い時間をかけてどんどん首が長くなる。
ここで、仮定だけど、植物が十分に育ち、低い枝にも十分に葉が付いて、キリンの食糧問題が解決すると、雌は長い首なんて邪魔なだけと考えたら、キリンの首はどんどん短くなると思はない?
哺乳類の進化は女性の好みで決まると思う。
もし、俺と彩美さんが付き合っていたとしても彩美さんが別人と付き合うのを認めることが出来る。もちろん彩美さんを得るために努力をする。逆に、今、彩美さんが付き合っている人がいたとしても、二股目に選んでもらいチャンスが欲しいと思う。そしたら相手の男も考えるでしょう。何か足りないものが俺にあるかな?―――思い遣りが足りなかったのかな?―――束縛じゃなくてそういう風になるべきだと思っている。女性にとって損じゃないでしょう。でも俺の考え方では女性の方は“愛されてない”と感じるだろうな。常日頃優しい男より、暴力を振るわれた後に異常なほど優しくしてくれる男のほうに走るのはなぜ?俺には全く理解できない」
順平は「フー」とため息をつき、「反論どうぞ」と手を差し伸べた。
彩美がさぁ反論するぞと意気込んで喋ろうとしたときに、
「お待ちどう様でした」と言って、チョコレートパフェが二人の前に並べられた。ウエイトレスは、飲み干されたコーヒーカップをお盆に戻し「ごゆっくりどうぞ」と言って立ち去った。出されたチョコレートパフェは高さが30センチほど有り、かなり豪華なものだった。彩美は「すごい―――順平さんが一人で食べるのは無理ね」と言いながらスプーンに手を伸ばした。
「休戦だな」順平もそういいながらスプーンを手に取った。
彩美は順平のスプーンを持っている手を押さえて
「自分だけ喋っておいて、わたしの番になるとパフェを出して怒りを冷まさせてしまおうって訳なの。もしかして、パフェが出てくるタイミングで喋ったわけ?」
「これも人生の運さ、冷めない内に食べようぜ」と言って右唇だけを上に上げた。
彩美は順平の手を離し「この怒りを忘れるな、この怒りを忘れるな」と呟きながらパフェを口に運んだ。
「美味しいっ」彩美は思わず微笑んでしまった。なんて単純なんだろう。パフェごときで心が休まるなんて、さっきの怒りはどこへ行ったの。と思いつつも、順平が話をしだすと怒りが戻ってくるのは分かっているから、とりあえず今はパフェを楽しもう。そう思いながらパフェを食べることに専念し、順平の「おいしいね」と言う言葉は完全に無視した。
彩美はチョコレートパフェを全部平らげて順平を見た。順平のチョコレートパフェはまだ半分しか減っていなかった。残りを食べてあげようかと言う彩美の言葉に『ありがとう』の言葉を期待した彩美だが、返ってきた言葉は「太るよ」だった。彩美は「うるさい」と返し、空になった彩美のチョコレートパフェと順平のパフェを置き換えて食べだした。
順平は、チョコレートパフェをおいしそうに食べる女性を見ているのが好きだとか、前の女房はチョコレートパフェを嫌いで食べなかったとか、彩美が食べ終わるまで楽しそうに話をしていた。彩美は順平の話を無視して食べ続けていたが、話だけは相槌を打たないように注意しながら聞いていた。そして、順平への反撃を考えていた。
「ご馳走様、さて、反論していいかしら」彩美は空になったチョコレートパフェを横に置き直しながら、順平の目を睨み付けながら話し始めた。
順平は睨んできた彩美に最初は押されたが、その目に魅力さえ感じて微笑んでいた。
「笑っているのも今のうちよ」と言いつつ、何を反撃するか思いつかなかった。
「まず第一に―――確かこう言ったわね『二股掛けろって』そんな事をしたら、本命に逃げられちゃうでしょう」
「黙っていればいい」
「よしてよ、コソコソとしたくありません」彩美はきっぱりと言った。
「それに、相手を裏切るようなことは出来ないし、思い遣りが大事なんでしょう。二股をかけるのは相手への思い遣りが無いからじゃないの」
彩美は思い遣りを強調して皮肉っぽく言った。
「女性は二股掛けるものだと言う風潮を作るんだよ」
「私が風潮をつくるの?」
「女性が優位に立つためにも誰かが作らなきゃ」
「わたしは二股掛けられたら嫌よ。自分に自信ないし、それより、順平さも言ったとおり、愛されてる実感が無いでしょう。 『彩美 いのち』 と言ってくれたほうが嬉しいの」
「受け身なんだよなー。愛したいの? 愛されたいの? どっちが先? 彩美さんは愛されるのが先でしょう。先に愛したら―――二人同時に―――愛されるのは後でもいいでしょう」
「順平さんが言っていた“思い遣り”は本当に大事だと思うわよ。でも、思い遣りと二股は相反するものでしょう。両立しないでしょう」
順平はちょっと“例え”を考えると言って黙り込んだ。彩美は勝ったと思った。なぜか順平にだけは負けたくなかった。他の人なら『そうね』で済ますところだが、意地でも反論して勝たなくてはと思っていた。
「例えばだ、俺が彩美さんに二股掛けろと言うのは思い遣りから出る言葉で、彩美さんは俺の思い遣りに対して、思い遣るために二股を掛ける―――苦しいな」
「非常にね、息が出来無いくらい苦しいわね」
「では、言い方を変えよう」順平はまた黙り込んだ。
「相手が二股を認めてくれれば両立できる。確かに現実では難しいとは思うけど、束縛しあうよりいいんじゃない。それに、愛と束縛も両立しているし」
彩美はさらにイライラし出した。貴重な休日を使ってなぜイライラしなきゃならないの。そう考えるとさらにいらだたしさが増してきて、考えもせず口走ってしまった。
「セックスしようか」