夫婦の部屋
女性の胸のふくらみが分かるようになった季節。
快速も止まらない小さな駅に一番電車が入ってきた。6両編成のドアが開くと、先頭の車両から、元気良く飛び跳ねるように出てきた女性がいた。
野倉紗枝である。
淡いピンクのスーツをしっかり着こなし、34歳であるが20代にも見える、ぽっちゃりとした身長の低い女性だ。
髪はショートカットにし、薄化粧でイヤリングもつけていない飾りっけの無い女性である。紗枝はホームに降りると大きく深呼吸し、初春のすがすがしい空気を胸一杯に吸い込んで、スキップしながら改札へ向かった。
電車のドアが閉まる寸前に、一番後ろの車両からジーパン姿の男が出てきた。
まだ寝ぼけた様子で、大きく欠伸をしたかと思うと、今度は大きなため息をついて肩を落とした。
野倉順平である。
紗枝の義理の弟で、身長は高くがっしりした体型は、いかにも昔は運動選手でしたと言っているようである。建築設計の会社に勤めていたが、32歳でセクハラをして、会社内で問題は収まったものの会社は辞め、女房と離婚させられていた。今は、兄貴、つまり紗枝の夫の家に居候し、夜警の仕事から帰ってきたところである。
紗枝は一箇所しかない改札で、駅員さんに「おはよう」と元気良く声をかけた。眠たそうにしていた駅員さんも、一瞬に元気を貰い
「おっ おはよう、いつも元気いいね!」
と言い終わると、貰った元気を言葉で全て使い果たしたように、また眠たそうな顔に戻った。
後ろから順平が夢遊病者のように、焦点の定まらない目をして、ふらふらしながら無言で切符を駅員に渡し,駅員も無言で受け取った。
紗枝が駅前のコンビニで、車がまったく見当たらない赤信号を待っているとき、後ろを振り返ると順平が歩いて来ている事に気づいた。
「順ちゃん おはよぅ」と言って元気良く手を振った。
順平は紗枝を見ると一瞬で目が覚めたように、小走りで紗枝に近寄りながら「おはよう」と返し、「どうしたの」と聞いた。
「仕事をしていて、終電が無くなったからそのまま仕事しちゃった」
順平は、「徹夜か、それにしても元気だな、俺はもう眠たい」と言って大きな欠伸をした。
紗枝は悪戯っぽく「いい人でもできた。朝帰りね」
「ならいいけど・・・夜勤明けだよ」と呟いた
駅の前には大きな道路が有り、道路の反対側はアーケード街になっている。アーケードを10分くらい歩いたところに紗枝の家はある。
1階は紗枝の夫の両親が経営しているレストランで―――レストランといっても定食屋であるが、その2階に紗枝夫婦と順平が住んでいる。
信号が青に変わると紗枝は小走りで横断歩道を渡りだした。
「姉さん、歩くの速いよ、もっとゆっくり歩こうよ」
順平が息を切らせながら言った。
「早く平一さんに会いたいもん。急ぐよ」
紗枝はさらに足を速めた。
順平は「俺は、別に会いたくないけど」と言いながらも紗枝に付いていった。
商店街に入ると、お決まりのファーストフードがあり、結婚祝いにベビー服をもらった小物衣料店。
年に一回しか行かない美容院。紗枝の誕生日にコロッケパーティーをしてくれるお肉屋さん。小さなチェーン店スーパー。銀行。
平一さんのお母さんと仲がとっても良い質屋さん。若い頃の平一さんのお父さんが、お酒を飲めもしないのに看板娘目的でよく通った酒屋さん―――その看板娘は質屋と結婚した。お母さんと仲がいいのはそのせい?
順平さんが避けて通る散髪屋―――小学生の頃は「坊主にしろ」と怖い顔でよく言われたらしい。
結婚するとき店の二階に住むと聞いて、「家具はあまり置けないネェ」とガッカリしていた家具屋さん。店にカラーテレビを置けと進めた電気屋さん、東京オリンピックは商店街の人が集まって観戦したらしい。それが今では大型の薄型テレビに置き換わり、5.1CHサラウンドスピーカーもある。母は、「店に人が多いのはテレビのため、儲からないのもテレビのため」と言っていた。電気屋さんから音楽喫茶にしろと薦められた喫茶店、各テーブルにヘッドホンが置いてあり、今やインターネットで好きな曲を聴けるようになっている。
順平さんの初恋の人が勤めている郵便局。ちなみに、平一さんの初恋の人は銀行に勤めて、社内恋愛で結婚して転勤になり、今は遠いところにいるらしい。
去年小火を出した不動産屋さん、そこの一人息子は駅前のコンビニのオーナーをして儲かっているらしい。
平一さんがよく熱を出して夜中にたたき起こされた薬局。内緒らしいけど、富山の薬みたいに平一さん家に常備薬を置いて使った分だけ払っていたらしい。
義母が早く引き取りに来てよと逢う度に催促されているクリーニング屋さん。義母はクリーニング屋の事を、家の箪笥と言っている。
義父の結婚式の写真が今も飾ってある写真屋さん。最近それがカラーに変わっているのでびっくりした。私にも早く式を挙げて親子二代で飾らせてと頼まれているけど、籍を入れて5年、いまさらって感じ。
順平さんが大人の本を立ち読みして、いつも怒られていたらしい本屋さん。
それに、文房具屋さん。そこには天体望遠鏡が屋上に設置されており、平一さん達は良く天体ショーを観察させてもらっていたらしい。
そして、平一さんのご両親のお店「ソフィア」がある。名前の由来は、“ソフィア・ローレン“当時は彼女の魅惑的な写真がお店いっぱいに貼ってあり、当時の学生が生唾をおかずに食べていたと義父が話していた。
店はまだ早朝のため閉まっていたが,裏から入ると既に仕込み始まっていた。
「おい、新米、こんなスープをお客に出せるか」
開店からの付き合いである幸一が見習に怒鳴っていた。いつもの朝の光景である。
見習のぶーちゃんはしょげることなく、これ処分しますと言いながら嬉しそうに食べ始めた。
愛称の通り、ぶーちゃんはちょっと太っていて憎めない性格である。
紗枝は順平に小声で、ぶーちゃんはこの時が一番幸せなのよと言いながら、「おはようっ」と大声で挨拶し二階に駆け登って行った。
幸一が挨拶を交わそうと紗枝の方を見たときに、紗枝の姿は二階に消えており、順平が挨拶の代わりに左手を上げていた。
二階への階段を登ると小さな踊り場があり、正面はバス・トイレになっている。左側の入り口は8畳位の台所で真中に6人用のテーブルが置いてあるので、狭苦しい感じがするが、食器類がきちんと整理され、淡い黄色を基調として統一されているので、狭苦しさがカバーされている。
その奥に紗枝夫婦の部屋が2つと、順平の部屋が1つ並んでいる。どの部屋に行くにも台所を通らないと入れない構造になっている。
紗枝夫婦の部屋の一つは、台所と境が無いが4畳半ほどの畳部屋になっており、そこに机が一つ置いてある。その前に平一が台所に背を向けて座っていた。
「平一さん、ただいまっ」
と言うなり、台所の換気扇を回し、窓をあけて、「タバコくさい!」と言って、机で仕事していた平一に後ろから抱きついた。
平一はミステリー作家であるが、ここ三年は一冊も書いていない、そのため自立できず、レストランの二階に居候している。痩せており、髪はぼさぼさで、無精ひげを蓄え、机の灰皿の吸殻は富士山の形をしていた。
紗枝は出版社に勤めており、5年前に平一と知り合い、3週間後には結婚していた。いつもおとなしい平一もその時ばかりは別人みたいに紗枝を口説いた。結婚前後2年は本も順調に書きつづけたが、それ以降さっぱりである。
今は小さなミステリー専門雑誌にお情けで連載を書かせてもらっている。
「何枚ぐらい書けたの」
紗枝がからかう様に聞いた。
「書いたのは20枚ぐらいだけど、ここにあるのは5枚だけだ」
「わぉ!昨日は7枚有ったから、明日は3枚になっているかもね,締切日には無くなってるんじゃない」
「そう言うなよ、あと一週間ある。でも今回はちょっと深刻だな」
紗枝は「誰か結婚させれば」と言い
平一はそんな人物は出ていないよ、と言いながら鉛筆を机に置いた。
紗枝は、登場人物を増やせばと耳元でささやいた。
「おいおい、テレビドラマじゃないんだ、そう簡単に登場人物を増やしたり、結婚させられないよ―――でも何か考えないとナァ」
順平が口をはさんだ。
「あいつ、洋介、あいつを殺したら」
平一はごみ箱をあさり、クシャクシャになった紙を取り出して、
「洋介が犯人なんだ、このクシャクシャになった紙だ」
平一はくしゃくしゃの紙を、さらにクシャクシャに丸めてごみ箱に投げ入れた。
「兄さんもワープロにしたら」
順平のその言葉に、機械に弱い事を知っているくせにと思いながら、平一は真新しい紙をクシャクシャにして、「クシャクシャに丸めて捨てられないじゃないか」と言いながらごみ箱に投げ入れた。
紗枝が「そうよね、八つ当たり出来ないもんね。それに、あなたが一晩中考えてるんだから、そう簡単に答えは出ないよね。ちょっと着替えてくる、その後で朝食作ってあげる」と言って奥の寝室に入っていった。
平一はタバコに火をつけながら「順平、夜警の仕事はどうなんだ」と兄貴面して聞いた。
「強盗でも入ればやっつける自信は有るけど、徹夜はつらいね、退屈だし、それに、」
と言いかけてちっと間があいた。何だよと平一が促すと小さな声で、
「女の子がいないんだ、職場にじゃないよ、もう懲りたし,セクハラ騒ぎはもうご免だから。デートに誘うにも普通の女の子と時間帯が違うんだよ。彼女らは夜遊んで昼は仕事だろう。俺は逆だし」
寝室から紗枝が
「順ちゃんには、ちょうどいいんじゃないの、競争率が少ないでしょう」
順平は「そうか、そう言われればそうかもしれない」と言って手をパチンとたたき、「そういう娘を見つければいいんだ」と納得したように、舌をちょっと出し、お休みと言って自分の部屋に入っていった。
入れ替わりに紗枝が出てきた。パジャマではなく普段着を着ていた。
寝ないのかと言う平一に、昼から仕事に行くからと返事した。
「何食べる、パンとトーストでいい?」
と悪戯っぽく囁いた。
平一は「ああ頼む」と言って鉛筆を手に取った。
聞いてなかったな、と紗枝は小声で言って、平一の髪をくしゃくしゃにして台所に行った。
紗枝は順平の部屋に向かって「順ちゃんどうする」と聞いた
順平は部屋の奥から
「俺、寝るから要らない、でも食べるならトーストと目玉焼きがいいな」
と言い、
「今六時半だから姉さんが出かけるとき起こしてよ」と付け足した。
紗枝は、順ちゃんはちゃんと聞いていたのねと言って、パンをトースターに放り込んだ。
急に、平一が「あー、パンとトーストか」と言って、台所を振り向いた。
紗枝が気づいて、トーストにしていますよと言うと、平一は「今六時半といったか」と聞き、時計を見ながら、
「彩美さんが7時にくるよ、忘れていた、本の進み具合が気になるんだって」
「彩ちゃんも気が気じゃ無いでしょう。締め切り一週間前で3枚じゃ」
「5枚だ」
平一はすぐに訂正した。
「半分と言ってあるけど、女の直感が働いたのか、出社前に原稿を見ると言ってるんだ」
「彩ちゃんも27歳だっけ、責任感強いのね、あなたの担当で大変だ!」
平一は、今まではそうでもなかったと思うけど、と言いながら机に向かった。
「彩ちゃんもあなたの担当の間は結婚も出来ないわね」
と言って目玉焼きを作り出した。
目玉焼きの匂いがほんのりと漂ってくると、平一が急に元気になって「ウォー、腹減った」と叫んで、コーヒーでも入れようかと聞いてきた。紗枝は「たった今出来ました」と言ってカップ注ぎ、平一に持ってきた。平一はコーヒーカップを両手で優しくくるむようにして、香りを楽しんでからコーヒーをすすった。
「美味い! 紗枝の入れてくれたモーニングコーヒーの為なら俺は死ねるかも」
と呟いた。
紗枝は座ったままの平一に後ろから抱きつき耳元で囁いた。
「モーニングコーヒー殺人事件はどう?愛する妻がモーニングコーヒーを入れなかった為に愛する夫が死ぬの―――ロメオとジュリエットより純愛になるんじゃない。」
平一はまじめに考えて、殺人事件にはならないと答えた。
平一はコーヒーを飲み干すと、俺を死なせない為にもう一杯お代わりをくれといった。
「モーニングコーヒーはあなたの一番のお気に入りですものね」と紗枝は言って、お代りのコーヒーを注ぎながら紗枝は、
「最初のデートで、『君とモーニングコーヒーを飲みたい』なんて言ったもんね」
平一はすぐに弁解した。
「あれは順平が言えって、前の日からそそのかしていたんだ。―――やっぱりまずかったな」
「他の人なら平手打ちだけど、あなただったから笑えたわよ」
紗枝が目玉焼きを皿に移していると、一階から元気な声で「おはよう」と言う声が聞こえた。彩美である。「ぶーちゃん、食べ物を口一杯に含んでいるときは挨拶要らないわよ」と言いながら階段を上ってきた。
「皆々様、おはようござります。今日は休みですけどそれを利用して、抜き打ち検査に参りました」
と言ってぺこりと頭を下げた。
彩美は、ほっそりとした小柄の女性で、髪は肩まであり、お下げにしたら高校生でも通る位の童顔である。白のブラウスにジーパンで、リュックを背負っている。
彩美は、
「先生、10枚ぐらいは進んだんですか?半分なんて信じていませんよ」
と言いながらリュックを下ろした。
「半分はちゃんと書いたよ、ちゃんとごみ箱にしまい込んである。」
彩美は平一を睨みつけた。平一は目を逸らしてコーヒーを飲んだ。
すぐに紗枝が助け舟を出した。
「彩ちゃんご苦労様。ご免ね、お詫びに朝食でもどう」
有難うございます。でも食べて来ました、と言ったものの、目玉焼きの匂いにつられ、少し頂こうかしらと言った。
「おはようっ」
順平が元気良くドアを開け、服装雑誌から飛び出してきたような服を着て、清々しいという顔をしながら、「いやー、実に清々しい朝だ,今日も頑張らなくては―――あれ、彩ちゃん来ていたんだ、おはよう―――朝の彩ちゃんは一段と綺麗だネ。」
彩美がおはようと返す前に、紗枝がさえぎった。
「あら、1分ほど寝過ごしちゃたんじゃないの、それとも、一番いい服を選んでいた?」
「一言多い姉さんのためにお答えしましょう。その一、睡眠は長さじゃなくて深さです。その二、この一着しか持っていません。答えになっていたでしょうか?」
紗枝は彩美をチラッと見て、時と場合ではそうねと答えた。
紗枝は朝食をお盆に載せて、平一のところまで運んだ。
「さて、家の中で立ち話も何だから朝食にしましょう」と言って紗枝はテーブルに向かった。順平と彩美も後に続いた。
紗枝はテーブルの奥の流しに近いところに座り、紗枝に向かって、右に彩美、左側に順平が腰掛けた。
彩美にトーストと目玉焼きを出しながら,「彩ちゃんが来ると聞いていたから作っておいたの,順ちゃんは居るのを忘れていたから、私の分を半分あげるね」
と言って自分のトーストと目玉焼きを半分にして順平に渡した。
順平は有難うと言って食べ始めた。
彩美が平一を見て
「先生はいつも机で食べるんですか」と聞いた。
紗枝は「そういえばもう、長い事立っている姿を見たことが無いな」と答えた。
「兄さんの足元見てごらん」
順平が言うと、彩美は平一の足元を見た。
「根が生えているのが見えるでしょう」
彩美は順平に釣られて足元を見たことを後悔し、あきれた顔をして大声で、机にいる平一に聞こえるように、
「先生――― 足立さん結婚するんですって」
「アダチ?―――誰だっけ」
彩美はあきれたように、
「先生の前の担当ですよ。退職しましたけど、ショートカットの可愛い感じの、痩せすぎの女性です」
「ああ、そんな人も居たな。“おめでとう“と言っておいて」
「分かりました」と言って、小声で、出席するか分かりませんけど、と付け加えた。
紗枝は、欠席するのねと言った
「迷ってるんですけど、あまり親しくなかったから欠席しようかな」
「たぶんそうね、良く想っている人なら、“痩せすぎ”とは言わずに“スタイルが良い”って言うからね」
「さすが紗枝さん。欠席の返事出しとこう」
順平がトーストを口いっぱいにほおばりながら、
「欠席に丸を付けて、下に一言書くのが礼儀だよ。“おめでとうございます。出席したいのですが、当日は避けられない用事が有りまして、残念ですが欠席します。―――その代わり、次回は必ず出席します”って書いたほうがいいよ」
彩美は、また真面目に聞いていたことを後悔して
「わたしが結婚するときは、順平さんに招待状は出さない事にします」
「新郎のいない結婚式?」と順平が返した。
紗枝が続いた。
「彩ちゃん、新郎には招待状は出さなくていいのよ」
「紗枝さんまでからかわないで下さい。でも、先生は私が担当を外れたら同じように忘れちゃうんでしょうね」
順平が、兄さんは紗枝さんしか頭に無いと言い、紗枝もにっこり笑いながら頷いた。
彩美は「結婚式といえば、私、兄の結婚式にも出てないんですよ。私が10歳の時ですけど父が“式”というのが嫌いな人で『子供は出なくて良いだろう』って、信じられないですよね」
順平がすかさず
「俺も両親の結婚式に招待されてないよ」
紗枝が「ほとんどの人がそうね」と言って
「ところで彩ちゃん、平一さんをどこかに連れ出してよ。私は仕事があるから無理だけど、気分が変わって良いアイデアが出るかもよ」
彩美も頷きながら、そうね、気分転換がいいかもね、どうせ一晩考えても良い知恵は出ないんですからと言った。
順平が急に、
「いい考えだ。三人で行こう」
と言い出した。
紗枝が順平を見て冷やかすような口調で、三人で?と言った。
「俺はどうせ夜勤は無いし暇なんだ。彩ちゃんに兄さんの子守りは大変だよ。映画でも見に行こう」
彩美にしては珍しくからかう様に
「映画に行ったら、先生は椅子に座ったまま、また根が生えちゃうんじゃないですか。美術館にしましょう、歩いたほうがいいですよ」
順平が右手を大きく上げながら「大賛成」と言った。
「俺がここに居ることを忘れてないか」
三人は平一を見た。
「まるで本人が居ないかのように、本人のことを決めないで欲しいな」
「でも決定ですから従ってもらいます」
紗枝がきっぱりと言った。
「多数決です。」彩美が続いた。
順平が“多数決”と言う言葉にすぐに反応した。
「多数決と言うのは、判断力の無い、または、私利私欲に固まった人々が集まったときに、妥協して下す結論のことで,正しい判断とは言えないんだよ。政治家を見れば分かるでしょう。だからアメリカの陪審員制度は全員一致が原則で”多数決“じゃないと記憶してるけど。」
「多数決じゃなくて結論が出るの」
彩美が返した。
「政治家だって、選挙の得票とか、選挙区の得とかを考えないで、日本や世界の人々のことを考えて議論すると、妥協せずとも答えは出るはず。理想論であって、現実的じゃないのも分かっているけど、“多数決”を正論としちゃいけないんだ。“多数決”イコール“妥協”だよ」
紗枝が彩美を見て、順平はこういう話になると意固地になるから真剣に議論しないほうがいいよと言って順平を見ながら、
「特に、こんな清々しい朝はね」
と、きつい口調で言った。
さらに順平の目をじっと見つめて、
「順ちゃん、私利私欲を捨てて、多数決じゃなくて平一さんを外に連れ出したほうがいいと思う?三人で!」
“三人で”と言うところで語調を強めて言った。
「だから理想論で,現実的じゃないって言ったろぅ。なんかやばい雰囲気 確かに多数決で決めるべき問題ではない課題もたくさんある―――人生とか」
朝の話題じゃないわねと紗枝は言って、黙々と食事に掛かった。二人もちょっと気まずい雰囲気を味わいながら、ただ黙々と食事した。
食事が終わる頃、紗枝が
「私、今日の仕事は取材なの、50歳前の男性で25年間経理でまじめに働いていて、この不況でリストラされた人の心境と、今後の計画とか聞いてくるの。最近、何処にでもある話だし、すごく真面目な人みたい。もちろん、酒・タバコ・女性・賭け事、何も無し」
順平がしみじみと「どこにでもある話だけど、本人にとっては特別なことだからね」と言った。
紗枝が席を立ち、後片付けしながら
「私の周りでは、まともな男のほうが珍しいわね」
彩美も空になった皿を持ち、後片付けを手伝いながら、
「最近まともな男が居ないわね」と言った。
順平も席を立ち、
「さあ,兄さんも出かける支度をして」
平一は、こんなに早く出かけても何処も開いてないぜと言いながら、立ち上がった。
「いいさ、隣の駅まで歩けば」
順平は、多数決の話はまずかったなと小声で囁いて、自分の頭をこつんと叩いた。
台所では、紗枝が皿を洗い、彩美が皿を拭いて食器棚に直しながらおしゃべりしていた。
「順平さんって本当にセクハラで会社辞めたんですか?」彩美が聞いた。
「本当よ、彩ちゃんと話をする機会があったら、順ちゃんは喜んでその話をするわよ。何故、そんな事をしたのか、今でも、かなりの自己嫌悪に落ち込んでいるわよ。本人は表面には出さ無い様に無理しているけど」
「セクハラするような人に見えないけど」
「順ちゃんの事は順ちゃんに聞いて、心に想っている事を全部話してくれるわよ。さっきの“多数決”の話じゃないけど、反論し出すときりが無いくらい口論になるわよ。」
紗枝は一息ついて、
「でも、最近本音で話したことある?会社の人はもちろんの事、家族や友達まで気を使って話してない?こんなこと言っていいのかな?とか、こんな事を言ったら、何て思われるだろう、とか、順ちゃんはそれが無いのよね。言いたい事を言っても後に残らないの」
彩美は紗枝から皿を受け取りながら、
「でも本音で話したら人を傷つけるでしょう、それ嫌だなー」
「たとえばね、彩ちゃんが目玉焼き食べて『まずい』って本音で言ったら私は傷つくと思う?いつもの彩ちゃんだったら、”今日はどうかしたのかしら、生理でも始まったのかな”と思うだけで傷つきはしないわ。あまり良く知らない人に『まずい』って言われたら、『なにっ、この人』と思うわね。いつも他人の粗を探している人なら最悪ね。でも、本音でしゃべる人は“おいしい”とも言うわね、そのときは“本当に美味しいんだ、喜んでくれているんだ“って分かるじゃない。社交辞令で言っているのか、本当なのか詮索する必要も無いし、気が楽よね。日本人の長所でも有るけど、欠点でもあるわね。平一さんは私に気を使ってくれているから、逆に本音が判らない時も有るけど、順ちゃんはあの性格でしょう、判るのよ」
「独特のキャラよね」
彩美は目を細めて言った。
「でもね 彩ちゃん、順平はいつも女の人のお尻を追いかけているけど、前の奥さんとしか再婚はしないはずよ。ご存知の通り、私達に理解できない考えをしているから、―――だから深入りしないほうがいいわよ。」
彩美はその言葉を頭の中で何回か繰り返した。
「でも紗枝さんが言ったんじゃなかったかしら、『結婚が最終目標じゃない』って、人生を楽しまなくちゃ、辛さも人生の楽しみのひとつ、恋の始まるドキドキ感と、失った辛さを後で懐かしむ感覚が人生だって。」
彩美は続けていった。
「でも、順平さんに興味は有るけど恋はしてないわ――今はね―――それに、人生は他に仕事と子育てがあるわ。辛い仕事をやり遂げたときの充実感、子育てはこれからだけですけど、きっと素晴らしいと思います」
紗枝はウンウンと何回か頷いて、
「人間は愛する事で、人生の楽しみを覚え、愛を失って成長する」
紗枝は平一を見てさらに続けた。
「だから平一さんは人間として成長しているでしょう。」
「平一さんはそんなに失恋しているんですか?」
「見れば分かるでしょう。もてそうに見える?」
「いえ、そうじゃなくて、恋をしないと失恋もしないでしょう」
「人を好きになるのは趣味みたいよ、嫌いになるより好きになった方がいいだろうって、順ちゃんが言いそうな台詞でしょう。兄弟よね」
「平一さんがそうなら、男はみんな同じかしら」
「同じかどうか、いろんな人と付き合って試してみたら、人生一度、大勢の人を知ったほうが楽しいし、自分を発見できるかも、二股、三股かけて、後悔しないように自分に一番合った人を探して結婚すればいいのよ」
紗枝は小声で,
「私はね、いろんな人と付き合っているけど、平一さんが私に一番合っているって確信しているの。あんな人だけど、平一さんが一番よ」
紗枝は言い終わった後、顔一面に笑顔を浮かべていた。幸せが胸に抑えきれず顔に出てしまったような、満面な笑顔であった。それは彩美にも伝染し、彩美も満面の笑顔を浮かべていた。
「順平さんも変な人だけど、紗枝さんも常識から外れた考えかたをしてる――それって、浮気を正当化しているだけじゃないですか。変ですよ」
紗枝は慌てて弁解した。
「誤解させたみたいね。いろんな人と話をしたり、遊んだりしているけど恋愛感情はないの、たまには、凄い人生勉強になることがあるし」
「井戸端会議か、行くぞ!」
平一はせかすように台所に入ってきて言った。
紗枝は彩美に「後はいいわ、やっとくから。出来の悪い二人の男を面倒見てね」と言って行ってらっしゃいと手を振った。
彩美は紗枝に「紗枝さんも後で来たら?―――美術館に居ますから」と言い残し出かけていった。