『だいじなこと すきなこと』
――やあ、昨日ぶりだね、ザフィーア……。
ね、怒ってる? 怒ってない?
「……何ですか、グラナート? どうして私が怒っていると思うのですか?」
だ、だっておれ、昨日勝手に怒っちゃって、君にひどいこと言っちゃったし……ねぇ、だからこれ! おわびにと思って、「くちなしの花の香りのアロマキャンドル」持ってきたんだ!
「……くちなしの? それはまた、どうして……?」
だって君、こないだ言ってたじゃんか! 「私は八重咲きのくちなしの花の香りが、何より好きです」って! だからね、これを持ってきたんだ! もちろんマッチも持ってきたから、火つけて一緒にかごうよ、ザフィーア!
「……マッチ? 危なくないですか?」
えぇ、大丈夫だよマッチくらい! おれ火ぃつけるの得意だよ? 冬の暖炉の着火とか、いつもおれがやってるんだよ? ほら、ちゃんと水入れた器も持ってきたしさ! 燃えさしをここに入れれば安全、安全! ……ほら、火ぃつけるよ? ちゃんとかいでてね、ザフィーア……!
* * *
ぽぅ、とキャンドルに灯がともり、ふんわりと香りの煙が立ちのぼる。甘いにおい……頭の芯が甘さに酔ってじんわりしびれていくような、どこか官能的な香り。
……うっとりと香りをかいでいる首だけの機械の脳内に、うっすらと一つの人影が現れる。それは目の前の少年の、「ひいじいちゃんのひいじいちゃん」……その昔、共に旅をした、自分を造った博士の姿。
――博士。
本当は「くちなしの香りが好きだった」のは、私の博士の方だった。この国、ガルデーニエ国の国花である八重のくちなしの花の香りを、博士は何よりも愛していた。
昔話を集めて回る、半生かけた旅のとちゅう、博士は何かというとくちなしの香りのアロマキャンドルを買い求め、宿屋でぽつんとくゆらせていた。
そのささやかな灯を見つめる時のまなざしは、いつだってひどく懐かしそうで、なんとも言えずに淋しそうで……、
……博士。
あなたは本当に、旅が好きだったのでしょうか。それとも本当はいつだって、故郷に帰りたかったのでしょうか。それでも、私との長いながい、二人っきりの旅を選んでくださった。その理由はいったい、どこにあったのでしょう……、
「――ね、ザフィーア? どうしちゃったの? ぽーっとしちゃって!」
その声にはっと我に返る。気がつけば自分は首だけの姿で、博士の「ひい孫のひいまご」と二人で、ほこりっぽい物置でキャンドルの灯を見つめていた。
「――いいえ、何でも……なんでもありませんよ、グラナート……」
「……そぉお? ん、まあいいや! じゃあキャンドル、そろそろ消すね! もうじき晩ごはんになるからさ!」
あ、と声を出しかけて、ザフィーアが言葉を呑み込んだ。博士と同じ「赤毛で赤目」の少年は、火を消したキャンドルと水の入った器とを持って、空いたほうの手できゅうくつそうにちらっとこちらへ手をふった。
「じゃあね、ザフィーア! また来るね、おやすみっ!」
いかにもあっさり言葉をかけて、グラナートは去っていく。扉が閉まって、明かりのない物置の中は、いつもよりよけい暗く感じる。
宵闇のせまる暗がりで、首だけのからくりは独りしんねり目を閉じる。……目の裏にキャンドルのほのかな灯りが灼きついて、ちらちらと閉じた視界をあぶる。
ほこりだらけの空間に、漂った香りの帯は消えることもなく、整った形の鼻を優しくしつこく弄ってくる。
――何だかなんともやるせなくて、ありもしない胸の内側が、甘くかきむしられるようで……、
一緒にいてほしい。一緒に残り香をかいでほしいその相手の足音は、ぱたぱたと扉越しに、遠くとおくなるばかりだった。……