『*つぶやきのピゼッロ』
昔むかしのお話です。
国から国を渡り歩く、「さすらいの歌うたい」という人たちがおりました。
さすらいの歌うたいは、旅から旅へ、文字どおり「さすらう」人たちです。ですから彼らは、故郷らしい故郷を持ちません。ルーツはどうやら「ミモーサ」というブーツの形をした国らしいのですが、詳しいことは本人たちも知りません。
彼らはひたすら、歌を歌い、歌っては聴いてくれた人々からわずかな旅の路銀を稼いで、土地から土地へ、国から国へと、あてもなく旅をしておりました。
さてその一族の中に、幼い兄弟がおりました。
兄はピゼッロ、弟はファジョロといい、四つ違いのそれは仲の良い兄弟でした。兄の方はとてもとても声が良く、弟の声はいささか割れていました。
兄は歌うのが好きでした。弟は物語るのが好きでした。弟のファジョロが思いつくままにでたらめなお話を語るのを、兄は聞くのが好きでした。けれど弟は自分の声を恥ずかしがって、兄にしかお話を語ろうとはしませんでした。
成長すればするほどに、二人の声はどんどん変わっていきました。兄の声はますます美しく銀の鈴をふるように、弟の声は割れた鐘の音のように、どんどん壊れていきました。
――それと共に、弟の兄に対する想いも、どんどん歪んでいきました。
ピゼッロ兄さんは、表面じゃ「そのうち声も良くなるよ」なんて言ってぼくをなぐさめてくれるけど、内心じゃきっと馬鹿にしてるんだ。
「こんなに美しい声の僕の弟が、どうしてあんなに醜い声をしてるんだ? ああそうか、あいつはきっと僕と『父親が違う』んだ。それとも内面の醜さが、声にまで出てしまってるんだろうか。そうだ、そうに違いない!」なんて思って笑ってるんだ――。
ぐるぐるぐるぐる渦を巻く黒い想いは、やがて凝り固まってどす黒い大きな塊になり、弟の心にずうんと居座りました。弟は、物語らなくなりました。兄のピゼッロにも、お話を語らなくなったのです。
「たまには幼い頃みたいに、語ってくれよ、ファジョロ!」
兄が淋しそうにおねだりするのを、弟は黙って冷たい瞳で見つめるだけ……。
そんなある日、一族の可愛い女の子にあいさつのキスをしたピゼッロは、弟がたまたまその場を目撃したのに気がついて、はっと目を見張って弟の方を見つめました。……弟のファジョロも、その女の子を好きなことを知っていたからです。
しかし弟の目には、そうとは映りませんでした。彼の目には、兄のピゼッロが笑ったように……勝ち誇ってこちらをせせら笑ったように、灼けつくように見えたのです。
ファジョロの頭にかっと血が昇り、彼は思わず足もとの大きな石を掴んで、兄に殴りかかりました。相手の胸に思いきり石を打ちつけると、兄はごとりと倒れました。ごとりと倒れて、ぴくりとも動かなくなりました。
……倒れる一瞬、兄はかすかに微笑いました。
いつか仲の良かった幼い日、弟の頭を撫でて微笑ったあの表情と、まるきり同じ笑顔でした。
けれど、今目の前の兄は笑顔を見せてはくれません。彼はしいんと押し黙り、死体のように倒れています。……自分のせいで。自分の手に握った、この大きな石のせいで。
女の子の口から今さらのように悲鳴が上がり、彼女は叫んで駆け出しました。
「――誰か来て! 誰か来て! 人殺し、ひとごろし!!」
ファジョロの耳に、その声は妙に遠くに響きます。がっくりとその場にひざをついた弟の目のくもりは、今は悪夢から覚めたみたいに取れてしまって、彼の脳裏にさっきの光景が蘇ります。
……ピゼッロは、嘲ってなどいませんでした。真剣な目でこちらをじっと見つめていました。張り詰めた目で、「ごめん」と心からあやまるように、こちらをじっと見つめていました。
「兄さん」
ファジョロののどから、割れた声が漏れました。兄さん。にいさん。にいさんにいさんにいさん……。ファジョロは壊れた機械のようにくり返し、やがて兄のかたわらで声を上げて泣き出しました。泣いてないて、声は涸れて、生まれてから今までで一番ひどい声になりました。
……ピゼッロは死にませんでした。何とか命は助かりました。けれどもその声はかすれてしまい、肺から息の漏るような声しか出せなくなりました。
「胸に受けたダメージの影響だ。歌など歌って無理に声を張り上げていたら、体がもたない、長生きできない」と、一族の医者は診断しました。
あの銀の鈴のような声はもう聴けないと、一族の人々は嘆きました。そうして口には出さなくとも、みんなが弟を責めていました。ピゼッロひとりが笑っていました。
「なあに、声をまるまる失くしちまった訳じゃない。これからね、僕は『つぶやきのピゼッロ』と名乗るよ。歌うたいじゃなく『語り部』になって、何とか生計を立てていくよ。僕はもうじきこの一族を去ることにする、僕はもう歌うたいじゃあないからね……」
かすれ声で兄が周囲に笑ってそう告げるたび、弟の胸は張り裂けそうに痛みました。割れた鐘のような声は、もう聞けなくなりました。弟はぴたりとしゃべらなくなったのです。
……そうして、兄がいよいよ旅に出る日の朝早く、弟は自ら死にました。いつか兄からもらった、可愛らしいフルーツナイフを、自分の胸に突き立てて。
兄が「良かったら、お前も一緒に旅に出るかい?」と告げようとして、小さなテントの幕をめくって目にしたのは、弟のファジョロの変わり果てた姿でした。
――ピゼッロは、独りあてのない旅に出ました。
分からない。生まれ変わりなんてあるかどうかも分からないけど、僕ははるばる旅をして、弟の魂を持つ人をいつか見つけ出そう。いつか再び出逢えたら、今度はもっと仲良く、お互いの心の内まで話せるような、そんな仲の二人になろう……。
「つぶやきのピゼッロ」は、やがて流れながれの語り部として、さまざまな国の文献に名を遺しました。文献によると、彼はいつからか相棒を連れて旅をしていたそうです。相棒は物語をこしらえるのがとても上手く、ピゼッロの語り残したお話の半分以上は、彼の作ったものだそうです。
そうして「二人は仲が良かった」と……本当の兄弟のように、いっそ小鳥のつがいのように、本当に仲が良かったと……どの国のどの文献にも、必ず記されているそうです。