『*血の器ではないものを』
昔むかしのお話です。
昔むかしのとある国には、コウモリという生き物はいませんでした。コウモリは一匹もいませんでしたが、吸血鬼がひとりいました。
吸血鬼の名はルティーリ。さらさらの金髪に赤い瞳、ビロードの黒マントを羽織った、青年貴族のような見た目……。そうして吸血鬼なのに日光も平気、十字架もニンニクもまったく効果がありません。彼は「無敵」の生き物なのです。
そうして彼は霧に姿を変えてどこにでも侵入し、生き物の血を吸って殺しては生きていました。そうして住む家を持ちませんでした。
屋敷住まい? そんなのめんどう極まりない! 大体、掃除はどうするんだ? メイドや執事を雇うのか? そいつらに正体がバレないように、気を使って暮らしていくのか?
――ああ、面倒、めんどうくさい! だったら住む家もいらないさ!
ルティーリはそういうたちだったのです。だから普段は霧になり、ふわふわと大気を漂って生きていました。
そんなある日の昼下がり。春先のぽかぽか陽気の中で、吸血鬼はとあるお城の上を飛んでいました。お城の屋根のかたすみには、ガラス張りの天井が……そうしてその陽の当たる巨きな窓からは、いつものように中の温室が見られます。
(……おや? 誰だろう、温室の色とりどりの花に埋もれるように、日なたぼっこをしている少女は……?)
霧はもやもやと立ち止まり、温室の中のひとの姿を眺めました。赤に紫色、水色に黄色……虹を植物にしたような彩りの花々に囲まれて、十歳くらいの少女がぽうっと窓を眺めています。
少女の肌は浅黒く、真っ白なワンピースからすらりと細い手足が、ミルクチョコレートみたいな色をしてのぞいています。そうして腰まで伸びた髪は白い絹糸のよう、瞳は見ていると心がざわつくピンク色……。
(……ふぅん、なるほど。食欲をそそる少女だな……)
ルティーリは内心でつぶやくと、さっそくわずかなすきまから、霧の姿で温室の中へ這入り込みます。そうして見る間に「青年貴族の姿」になり、やっほうと少女に愛想よく手をふりました。
「――やあ! いきなり目の前に『美青年』が出てきてびっくりしたかい? 突然だけど、自己紹介をさせてくれるね? 僕はルティーリ! 吸血鬼なんだ!」
少女はすこし驚いたように身を引きましたが、黙って彼を見つめています。その目にちょっとした戸惑いはあるものの、思ったみたいに騒ぎはしません。吸血鬼は何だか妙な気もしつつ、「自己紹介」を続けます。
「……で、分かるだろう? 僕は君がとっても気に入っちゃったんだ! 霧の姿で空を飛んでて、君を見かけて、食欲に火がついちゃったんだ! ……ねえ、だからさ、血を吸わせてよ……大丈夫、ちょっとちくっとするだけだよ、吸血鬼に血を吸われるのはとっても気持ちが良いんだよ……!」
「――やめて! わたしの体に血はないわよ!」
ルティーリは、自分の耳が壊れたのかと思いました。「わたしの体に血はない」だって? いやいやそんな馬鹿らしい! この子はなんだ? 言い訳にしてももう少しりこうな断り方が……!
混乱する吸血鬼をピンクの瞳で見つめながら、今の今までだんまりだった少女は薄い微笑いを見せました。
「……本当よ、わたしの体には『一滴も血がない』の。その代わりといっては何だけど、あと半年待ってちょうだい? 血なんかよりもっとずっと良いものを、あなたにプレゼントしてあげる……!」
そう言ってはにかむ美少女は、嘘をついているようにも見えません。真実ばかり並べ立てたような表情して、いたずらっぽく笑っています。
――なんだろう、この子は少しおかしいのかな? この子の頭じゃ今言ったことが、みんな本当のつもりだろうか?
吸血鬼は剥き出した牙をおずおずと引っ込めて、とまどいながらもうなずきました。何ともおかしな気分でした。自分を見て、牙を剥き出した自分を見て、怯えなかったのはこの子が初めてでした。
「……ねえ……また、遊びに来てもいいかい?」
「ええ、もちろん! こんなとこにひとりで置かれて、わたしとってもヒマなんだもの!」
少女はことこと笑いを立てて、吸血鬼を手招きました。ぐっとかがんだ背の高いルティーリの耳に口を寄せ、「わたしは、フロース。フロースって言うの」とくすぐったくささやきました。
ルティーリは、何だか妙にぽっぽと熱の上がったほおをして、霧になって飛び去りました。
いったいどうしたというのでしょう……? 吸血鬼の自分を見て、初めて笑顔を見せてくれた相手……美しい少女、フロースを思うと、胸がきゅうっと痛くなります。彼女と出逢ってからというもの、どんな動物の血を吸っても、どんな美人の血をすすっても、美味しく思えないのです。
ルティーリは霧になってもなお熱い体をもてあまし、もてあましながらそれでもやはり、フロースのことばかり思っています。
――ああ、叶うなら、フロースの首すじに牙を突き立てて、その赤い血を吸ってみたい! 彼女の言ったことは本当とは思えない。やっぱり嘘? それとも彼女の思い込み? 分からないけどどうしても、あの浅黒い肌の下、赤くて温かく美味しい血が流れていないとは、僕にはどうしても思えない!
……半年? 半年経ったらフロースは僕に「血よりもっと良いものをあげる」って……! それが何なのか知らないけれど、そうしたらものの流れで彼女の首に、口づけて牙を立てちゃおうか……? いやいや! そんなひきょうなこと……!
妙に焦らされて、思い悩んで……出逢ってひと月も経たず、吸血鬼は血を飲まなくなりました。血を飲めなくなりました。ユニコーンの気高い血でも、美しい女王様の鮮血でも、彼の渇きは癒せません。今や彼の頭にあるものは、温室のフロースだけでした。
ああ、フロースの血を飲みたい、可愛いフロースの血が飲みたい……!
吸血鬼なのに血を飲めず、ルティーリはどんどん痩せていきました。青年貴族の姿になると、吐息は死にそうな香りがしました。フロースはそんな彼を気遣いましたが、その理由が自分にあるとは、思ってもみないようでした。
……そうしてやっと、「半年後」が訪れました。霧の姿で温室の中へと這入り込み、ルティーリは人の姿になって、一生けんめい微笑みました。フロールはがっくりと床にひざをつく吸血鬼に、痩せこけたほおに手を触れました。
「……ああ、ひどいわね、あなたのほお……骨が当たってごつごつよ。そうしてまあ、あなたの吐息の病人みたいな香りといったら……!」
そう言って心配そうに首をかしげるフロースこそ、その吐息はなぜだか土の香りがします。少女は何だかどこか苦しそうに、まゆをひそめてはにかみました。
「……半年、よく待ってくれたわ。今よ、今こそわたしはあなたに……『血より良いもの』をあげられる……!」
言いながら微笑う少女の頭が、びっと音立てて割れました。割れ目は見る間にばきばき広がり、少女の頭に大きな穴が開きました。死にかけの吸血鬼は飛び上がりそうにびっくりし、きつい力で少女の肩をつかみます。
「心配しないで……時が来たのよ」
フロースはつぶやくようにそう言って、死にそうな微笑を見せました。
――ああ、何ということでしょう。少女の頭はがらんどう、内側はまるで「土の壺」のよう、腹の底からその頭の割れ目の方へ、植物のつるが伸びてきます……。
「……わたしはね、古代の土人形なのよ。昔むかしの遠い異国の王様たちが、当時の魔女たちに造らせて、趣味で飼っていた土人形……わたしはちょうど一年前に、このお城の王様に買われて、飼われていたの……」
がらんどうの少女は、吸血鬼の腕の中で、ぽつぽつ語り重ねます。語り、語れば語るほど、異形の植物はつるを伸ばし、つぼみをつけて……甘い悪夢のように大きい、それは薔薇のつぼみでした。
「……あのね、わたしの体内に花の種を埋めて、半年寝かせて、そのあと半年陽に当てると、とても美しい花が咲くのよ。……埋め込まれる花の方も、わたしたち土人形を栄養に咲いているうちに、独自に歪んで進化して……そのうちに、『わたしたちを苗床にしなければ咲けない』までになったのよ……」
もう何も言えずに口をぱくぱくするルティーリに、頭のかち割れた土人形は、弱々しくはにかみました。そのはにかみが合図のように、つぼみは赤くほころんで……まるで異国の牡丹のような、恐いくらい大きな血色のバラを咲かせました。
「言ったでしょう、だからわたしに血はないと……でもね、ルティーリ……わたしあなたに、この鮮血色のバラをあげるわ。わたしはもうじき『死ぬ』けれど、あなたの力であの天井のガラスを割って、わたしもろとも飛び立って……それでわたしをどこかで売れば、きっと素晴らしい高値がつくわよ……!」
そんなこと。そんなこと。
やっと分かった、今わかった……血なんかじゃない、食欲じゃない、僕が、僕がほしかったのは……!
それを言葉にしようと、吸血鬼は口を開いて……音がのどからこぼれる前に、少女は微笑い、わらいながらもピンクの瞳に、見る間に生気がなくなって……、
そうして少女は、古の土人形は、花を咲かせて務めを終えて、本当に動かなくなりました。
ルティーリはぼろぼろ泣きながら、ひしと亡骸を抱きしめました。抱きしめながら赤いあかい、鮮血色のバラを口でむしって食みました。ひらひらとバラが口をこぼれて舞うにつれ、少女の亡骸はぼろぼろの土くれになって、ごとごと床に落ちました。
――ルティーリは泣きながら霧になり、霧になってガラスのすきまから飛び出して、それから無数のコウモリになって、てんでばらばらに飛び去りました……。
* * *
「……それからこの国にも、コウモリが生息するようになったのです。けれどここいらのコウモリは、バラの花しか食べないのです。『バラクイコウモリ』と言いましてね……園芸家には迷惑ですが、なかなか愛らしい顔をして……。よく詩や小説で謳われる、ずいぶん美しい生き物ですよ」
「休憩に」とたまたま入った喫茶店で、私と博士は壮年の「語り部」の男性に、そういうお話を聞きました。語り部の方のほうこそむしろ嬉しそうに、語り終えてこう喜んでくれました。
「いやあ、このごろは『昔話』もすたれてきまして……若いもんはやれオペラだ、映画だって、語り部の語る場がそもそもなくなって……かえってありがとうございます、語れて楽しかったですよ!」
そう言って微笑う男性にお礼を言って、彼の分もお茶代を置き、博士と私は喫茶店を後にしました。店から出ると、夕暮れの街をひらひらと、数匹コウモリが飛んでいました。近くにバラ園があるのでしょう……。
私はふっと立ち止まり、数歩前を行く博士の背中に問いかけます。
「――博士、」
「うん? どうした、ザフィー?」
声をかけて、立ち止まってふり返られて、なぜだか機体が熱くなります。
「……いえ、博士……もしあなたが吸血鬼であったなら、血のない私を……、」
言いかけて分からなくなって、私は言葉を重ねます。
「……いえ、何でしょう、自分でも何を言おうとしたのか……忘れてください、ね、博士。綺麗に忘れてくださいね……」
博士も何だか、何か言おうとしたようですが……けっきょく二人何も言えずに、そのまま歩き始めました。
夕暮れは赤いバラのよう、飛び交うコウモリは黒い切れぎれの小花のようで……博士の赤い髪も瞳も燃え立つように、夕暮れになお美しく見えました。