『*テーブルよ、食事のしたく』
昔むかしのお話です。
ある田舎に、貧しい家族がおりました。若いお父さんは、先祖から受け継いだわずかな農地を耕して、収穫のほとんどは国や領主に取られてしまい、残るのは一家三人やっと食べられるだけのライ麦と野菜……。
お母さんは病弱な息子をかかえて粗末な小さな家を守り、ぐーるぐーるとお鍋のスープを混ぜる日々。五歳の息子はひっきりなしにせきをして、小さな手足は骨に皮がついたよう。
そんな毎日が過ぎていき、ある日の日暮れ前のこと。お母さんは急に具合の悪くなった息子を連れて、田舎のはずれのやぶ医者に。一人残されたお父さんは、心配でならない気持ちを押し殺し、小さな地下室に農具の手入れに降りていました。
――ああ。どうして俺はこう甲斐性がないんだろう。いつまで経ってもちっぽけな農地を耕して、毎日妻の作ってくれたスープを食べて、黒いパンをかじっては、「きっとそのうち良くなるよ」なんて言って息子の頭を撫でる日々。どうにか、どうにか、この貧しい暮らしから抜け出す方法はないだろうか――。
灼けつくように思っているお父さんの頭の上で、ばあんと激しい音がしました。びっくりして見上げるお父さんの耳に、どなり声が聴こえます。どうやら数人の男のようです。
お父さんはどやどやと地下室へやって来る足音と大きな声に、とっさに物陰へ隠れました。大きな体の、がらの悪い男三人がもろい扉を蹴破って、悪態をつきつつ部屋の中へと入ってきます。
「――ったく! やってらんねえな、『けちな農家、ただのあばら屋と見せかけて中にはえらいお宝が!』とか言ったのはどこのどいつだ? 見やがれ、本当にただの貧乏な家、金貨の一枚も見つかりゃしねえ!」
「おいおめえ、もう探すな探すな! こんな地下室、ぱっと見たとおり農機具しかありゃしねえぜ!」
「ご、ごめんよアニキたち! ね、ねえ、今度はあれを探しに行こうよ! 『テーブルよ、食事のしたく』って言うと、何にもしてないのにテーブルの上がごちそうだらけになる魔法のテーブル! あれを手に入れて売り払ったら、おれら大金持ち間違いなしだよ!」
農具のすきまに隠れているお父さんの耳に、男たちの会話はありあり届きます。息を殺して様子をうかがうお父さんは、じっと聞き耳を立てています。そのことに少しも気がつかず、強盗たちは大声で会話を続けます。
「ったく、てめえはまたそれだ! 何度言ったら分かるんだ、そのテーブルは異国の魔女の持ち物だぞ! しかも魔女の城にテーブルを奪いに行った奴らは、一人として自分の家に戻らなかったって話じゃねえか!」
「ほらほら、グズグズしねえでとっととここからズラかるぞ! 結局なんにも奪えずに、近所からの通報で警備隊にとっつかまったら大損だ!」
強盗たちは、どやどやとぶっ壊した扉から逃げ帰っていきました。……独り残されたお父さんは、ずっと黙って農具と農具とのすきまに、挟まって考えておりました。
……「テーブルよ、食事のしたく」。テーブルよ、食事のしたく……。
その日暮れ、息子を連れて帰ってきたお母さんは、家の荒れようを見てびっくりしました。でもその後にお父さんの言った言葉に、心臓が止まるほどびっくりしました。
――お父さんは、旅に出ると言うのです。
「ねえお前、俺はその魔法のテーブルを探しに、旅に出ようと思うんだ。考えてもごらん、ここでこのまま暮らしていては、一生かかっても貧しいままだ。幼いこの子も、もしかしたら大人になれずにこの世を去ってしまうかもしれない……」
息子を抱いて大きな瞳を見張る妻に、お父さんはありったけの想いを込めてキスをしました。
「――でも俺がここで旅に出て、無事にテーブルを手に入れてそれを売ることが出来たら、たくさんのお金が手に入る。この子ももっと腕の良い医者に診せられる、もっと良い薬も飲ませられる。……だから……」
何がなんだか分からずに、幼い息子がぐずり出します。その息子の頭を撫でて、細い肩を抱きしめて、お母さんは精一杯の甘い笑顔を見せました。
「……いってらっしゃい、あなた。留守のあいだ、わたしはご近所の縫い物仕事を引き受けて、何とか食いつないでいるわ。あなたの畑は留守のあいだ、ご近所さんに貸してさしあげて、代わりに耕してもらっているわ。大丈夫、何とかなるわ、わたしはこの子とこの家でずっと待っているわ……」
こうして年若いお父さんは、はるばると異国まで旅に出たのです。
農作業でならした腕で、旅のとちゅうあちこちで力仕事を引き受けて、旅の路銀を稼ぎながら、何年もかけて、はるばると……。
長いながい旅でした。なにしろ「異国」とはどこなのか、魔法のテーブルを持つ魔女は、どの城に棲んでいるかも分からないまま、彼は旅に出たのですから。
長いながい旅でした。旅のあいだに護身用に剣をたずさえ、時にはそれを振りかざし、強盗や野獣、魔物たちを屠り、追い散らし……。そうしてやっと辿り着いた城の魔女は、それは美しい乙女でした。乙女はにこやかに旅人を迎え、笑顔でこう打ち明けました。
「よくぞ参った、旅人よ。お前も『魔法のテーブル』のごちそうを食べたくて、この城に参ったのだろう? お前の目の前にあるのがそのお望みのテーブルだ。実はな、このテーブルは神にもらったものなのだ……」
そう言うと乙女は妙に声をひそめて、旅人に顔を近づけて口づけるように耳打ちしました。
「実はわらわは、その昔は『この城が大好きな王女』でな。産まれた時から一歩もこの城から出ずに過ごして、『そこらの土地神は哀れだな! 冷たい沼の底や暗い洞窟の奥に棲もうて、自分が偉いと思うておる!』とある時に口走ったのだ……」
そう言うと魔女は本当に旅人のほおにキスをして、妖しく微笑って告げました。
「そうしたら近くの湖に棲む土地神のひとりがえらく怒りおってな、わらわを歳をとれない魔女にして、城から人々を追い散らし、わらわ独りをこの城から一歩も出られぬように閉じこめたのだ。『食事の用意くらいは、憂いのないようにしてやるからな』とこのテーブルをくれた上でな!」
魔女はそう言うと、いっそ誇らしげに「テーブルよ、食事のしたく!」と声高らかに呼びかけました。するとまたたく間に、テーブルの上はごちそうでいっぱいになったのです。
真っ白なパン。
豚の骨付き肉のステーキ。
色も長さもさまざまなソーセージ。
牛肉の薄切りでピクルスを巻き、赤ワインで煮込んだもの。
バターと卵黄のソースをかけた、きれいなホワイトアスパラガス……。
そしてデザートは赤いイチゴをたっぷりのせたチーズケーキ、飲み物は最高級のロゼワイン……。
魔女のキスを受けた旅人は、何だか酔ったみたいになって、ふらふらと食卓につきました。そうして魔法のテーブルの上のワインをひとくち口にしたとたん、何もかも忘れてしまったのです。
妻のことも、子どものことも、自分がどうして、どんな想いで、どれだけ苦労を重ね続けて、この城に来たかも、何もかも……。
そうです。魔女は、こうして夫を手に入れたのです。
……そうして、また何年も過ぎました。テーブルの上のごちそうは、一品たりとも変わりません。毎日毎晩まったくおんなじメニューのまま。
……毎日毎晩まったくおんなじ生活に、旅人は飽いてゆきました。飽きると一緒に、魔女のキスと魔法のテーブルにかけられた呪いも、知らぬ間に薄れてゆきました。
そうしてある時、旅人は昔住んでいた遠い国の、郷土史の本を一冊、城の本棚から見つけ出してしまったのです。
ぺらぺらと何の気なしにめくると、開かれたページには農作業にいそしむ農民の姿がペンで書かれていました。旅人は、頭のどこかがことん、と音立てて動いた気がして、かすかに首をかしげました。
……同じページに、農民の食生活についての記述がありました。
『この国の農民はみな貧しく、年貢に取られて残ったわずかなライ麦や野菜でパンを作り、スープをこしらえて食べている』……。
黒いパンと、野菜のスープ。
あの貧しい、けれど温かいスープ。温かかった俺の家庭。俺の妻。俺の……、
旅人の美しい瞳から、つうと塩辛い、熱いしずくが落ちました。
「思い出したな」
自分のすぐ後ろから、妖しい冷たい声がしました。肩をはね上げて振り向くと、魔女が立ちはだかっていました。
「――お前も、帰ると言うのだな。今までの夫たちもそうだった。何が不満だ。この城に、魔法のテーブルのごちそうに……」
魔女の瞳からも、ひとしずく涙が落ちました。けれど魔女はすぐ濁って歪んだ笑みを浮かべて、旅人に指を突きつけました。
「お別れに、お前の記憶を消してやろう。この呪いが解けた時には、呪い自体が何よりの祝福となるだろう……。呪いが解ければの話だがな!!」
からからと嗤う魔女の声を背中に浴びて、旅人はふらふらと城を後にして歩き出します。もうその時には、旅人はまた何も思い出せなくなっていたのです。
――旅から旅へ、また旅へ。もう何も目的のない旅でした。何年も、何年もかけて旅人は魂の抜けたようにそこらをうろつき、青年から中年になって、いつか故郷へ帰ってきました。
……心のどこかに、昔の記憶が残ってでもいたのでしょうか。やがて辿り着いたのは、ぼろぼろになった我が家でした。ひびの入った窓からのぞくと、奇跡のように立派に成長した息子が、中年になったお母さんと一緒に夕食を食べていました。
「……ああ、お父さんは今頃、どこで何を召し上がっているんだろうね……」
「……大丈夫だよ、きっとどこかで、温かい美味しいものを食べているよ。……生きているよ、きっと……」
つぶやいた息子がふっとこちらへ顔を向け、スープをすくったスプーンを取り落としました。息子が叫んで立ち上がり、お母さんも泣くのと笑うのとまるでごっちゃになった表情で、お父さんを家の中へと連れ込みました。
お父さんは、何も思い出せません。そのことに気づいたお母さんは、「何より体を温めなくては」と、自分の分の野菜のスープをさし出しました。
ひとさじ、ふたさじ。……スプーンを口に運ぶごとに、お父さんのくすんだ瞳に生気が戻っていきました。
「……うまい……」
つぶやいたお父さんの瞳から、ぽろりと涙がこぼれました。魔女の呪いも一緒くたに、涙となってこぼれました。
ぽろぽろ、ぽろぽろ、泣くたびに、呪いは涙に混じって流れて、水色の不思議な宝石になってことことテーブルへ落ちました。
……そうして、宝石の粒でテーブルがいっぱいになるころには、お父さんはもう全てを思い出していたのです。
魔女の不思議な言葉のとおり、「呪いは祝福に」なりました。一家三人はその宝石を売って商売の元手にし、ささやかな食堂を始めたのです。
食堂は年々人気になって、お父さんの旅の話を聴きたいと、流れながれの旅人たちの憩いの場にもなりました。
……けれどもどんなに繁盛して、どんなに素敵な食堂になっても、一番人気のメニューはずっと「呪いを解いた野菜のスープ」だったんですって!