『*さよならのキャラメルミルク』
昔むかしのお話です。
この森の中のお屋敷に、貴族の一家が住んでいました。街にほど近い森の中で、一家は楽しく暮らしていました。
生やした口ひげが何だか「浮いて見える」くらいに、若くて優しいお父さん。
おしとやかに見えるけど、実はけっこうおてんばなところもある、可愛げな童顔のお母さん。
きょうだい五人じゃれ合ってふざけている様子は、まるきり「子猫同士が遊んでいる」ようにも思える、まだ幼い子どもたち……。
そうして屋敷の「図書室」と呼ばれる一室には、薬草学の研究書が数千冊。「優しい学者様」と街の人に呼ばれている、お父さんの研究から得るお金で、一家は何の心配もなく、森の屋敷で暮らしていました。
「ちかごろは盗賊、強盗、ひったくり……昔と違って、この街もだいぶ住みにくくなったなあ」
……たまに訪れる街の人々の、ため息まじりのそんな言葉。そんなせりふを、森の屋敷の一家は何だか、「自分たちとは遠い世界の、じんわり悪い夢の話」みたいに思って聞いていました。
そうして、森の屋敷には「一家以外の住人」もいました。……それが屋敷の妖精です。屋敷の妖精は、「屋敷そのものの気が凝った生き物」です。彼女は透き通る体を持ち、屋敷の一家以外の人に、その姿は見えません。
彼女は当たり前のように屋敷の中を歩き回り、透き通る体をして一家と遊び、語り合い、一家にいろんな料理を作ってふるまいました。
ミルクの入ったオムレツも、ウィンナーとベーコンのたっぷり入った野菜スープも、食事をしめくくるデザートだってお手のもの。
彼女は家具や調理道具、食材以外には手を触れることが出来ません。……そう、妖精の彼女は、人間には……大事な一家の体には、指一本も触れることができません。いくらがんばって触ろうとしても、透き通る彼女の指はするすると家族の体をすり抜けて、幽霊みたいに通り抜けてしまうのです。
それでも、彼女は幸せでした。腕を振るって料理を作り、笑顔でみんなにお礼を言われ、食後に家族でトランプをして……そんな幸せな毎日が、いつまでも続くと思っていました。
そうして、「その日」はやって来ました。
その晩、真夏の新月の真夜中に、街でさんざん暴れていた強盗たちが、屋敷を襲ってきたのです。
あっという間もありません、家族は襲われ、斬られ、鈍器で頭を嫌というほど殴られて、全員殺されてしまいました。妖精は必死でフライパンを投げ、愛用の包丁を握って反撃しようとしましたが、相手は手慣れた強盗たち、何の役にも立てませんでした。
……そうしてどんな理屈でそうなったのでしょうか、貴族の一家が一人残らず殺されたとたん、彼女は見ず知らずの強盗たちの目にまで、見えるようになったのです。
「――何だあ? ぶっ飛んでくるフライパン、襲いかかってくる包丁やら……ちかごろ流行りの『ポルターガイスト』かと思いきや、こいつが原因だったのかい!」
「にしてもどういう生き物だあ? 透ける体の美人の嬢ちゃん、こいつは人外か、幽霊か?」
「どうだっていいや、こいつをうまいこと手なずけりゃあ、見世物にして稼げるぜえ!」
そう言いざま襲いかかってくる強盗たち、その背後でばあんと扉が開きました。――そうです、あまりにも今さらに、街から自警団が救けに来てくれたのです。
……自警団の人たちも、相手の激しい抵抗に遭い、数人犠牲になりました。しかしそのおかげもあって、強盗たちは一人残らず捕まって、縛り首に処されました。けれども、屋敷には「屋敷の妖精」以外、誰ひとりいなくなってしまいました。
街の人たちも「一家全員皆殺しになった屋敷、あそこには透ける体の幽霊が夜昼となく出るそうだ」とうわさし、恐れて、屋敷のある森にさえ近づかなくなりました。
……それから、もう数百年が経ちました。
屋敷の妖精は、今でもずっと独りです。ひとりっきりで、朝となく夜となく屋敷の中をうろついて、奇跡のように「どこかからやって来た旅人さん」が、この屋敷に迷い込んできてくれるのを……ずうっと待って、いたのです……。
* * *
涙を流さず泣いているような表情で、「屋敷の妖精」のお嬢さんは、そう言って話を締めました。
それからふうっと、露に濡れた小花のように微笑んで、博士と私に触れない手を伸ばします。
「……ねえ、だからあたし、あなたたち旅人さんが本当に『迷い込んで』きてくれて、本当に、ほんとうに嬉しいの……」
妖精は一瞬言いよどみ、それから決心したように、すがる口ぶりで言いました。
「――ねえ、お願い。どうかどうかあなたたち、これからずっとこのお屋敷にいてくれない? 森の中のお屋敷だから、ちょっと不便かもしれないけれど、ここからほど近い街に行って、しばらくそこで『語り部』として昔話を語って稼いで、ゆっくり休みたくなったら、またこの屋敷に帰ってくるの……!」
ねえ、お願い、おねがいよ……。
そう言って私たちに伸ばされる手が、すうすうとこちらの体を透けてうごめきます。博士はしばらく、黙って彼女を見つめていました。やがて口を開かずに、はっきりと頭をふりました。
妖精のお嬢さんは、そうよね、とひとりつぶやいて、やるせなさそうに微笑みました。透き通る虹色の瞳から、透き通る何かが一瞬流れたようでした。お嬢さんは二回三回うなずいて、またまっすぐに私と博士を見つめてきます。
「――ねえ、じゃあせめてお願いよ。あなたたちと別れる前に、あたし飲みたいものがあるの。昔むかしにこのお屋敷に住んでいた、末っ子の坊っちゃんの好きだった、キャラメルミルクが飲みたいの。だってあたし、お料理を作ってばっかりで、ひとの作ったものを口には、一度もしたことないんだもの……!」
幼げな顔で涙しながらそう言われて、断れるはずもありません。博士が手持ちの「魔術師の鏡」というアイテムで、砂糖と塩とミルクを召喚だしてくれて、私は妖精に手順を習って、起動れて初めてキャラメルミルクを作りました。
「……小鍋にお砂糖と塩ひとつまみを入れて、火にかけるの……始めは触らずそうっとしといて、ほうら、だんだん熱が回って……お砂糖が溶けてきたでしょう? お砂糖がキャラメル色にとろけたら、いったん火から下ろして、木べらを伝わせてミルクを注ぐの、そうっとね……!」
「――わわ! じゅわじゅわ言って、ミルクが一気に沸騰しました……! 何だか木べらにもなべ底にも、焦げたお砂糖が固まってこびりつきましたよ!? 本当にこれで合っていますか!?」
「うんうん、それでいいのよ、心配しないで……ちょっとずつ残りのミルクを注いで、もう一度火にかけて気長に木べらでかき混ぜて……ほら、だんだん固まったお砂糖がミルクに溶けてきたでしょう? お砂糖が全部ちゃんと溶けきって、頃合いにミルクが温まったら出来上がり……ね、簡単でしょ?」
……そうして出来上がったキャラメルミルクを、私は長年使われず、ほこりをかぶっていたカップをそれは念入りに洗い、それからカップに注ぎました。お嬢さんはキャラメル色に色づいたミルクを、それは愛おしそうに見つめて、それからひとくち、可愛い口に含みました。
「――ああ、美味しい……おいしいわ、本当に……、」
言いながら、お嬢さんは大事そうにそのカップをテーブルに置き……次の瞬間、ひらひらと透ける体が宙に崩れて、透明の花の咲くようにふわりと広がって、……屋敷の妖精のお嬢さんは、あとかたもなく、消えてなくなってしまったのです。
あまりのことに声も出せずに、ただ博士の顔を見つめる私に……博士は黙って、遺されたカップを手にとって、ひとくち口にふくんで、微笑って……、
「うまい」
と、ひとこと言ったのです。
* * *
それから屋敷を後にして、森の中を歩きながら、博士は教えてくれました。
「……何だか理由は分からんが、あの妖精、『ものを食べたり飲んだりすると、消え去る運命』にあったんだな。それを知ってて、それでも、ああ言わずにはいられなかった。数百年ぶりにひとに出逢って、話をして……またもう一度独りきりになるのが、どうにも耐えられなかったんだろう……」
「――私は」
ぼっといきなりしゃべった私に、博士は数歩先を行く足を止め、黙ってこちらをふり向きました。
「……私は、どうすれば良かったのでしょう……? 旅は止める訳にはいかない、でもあの妖精のお嬢さんは、そのせいで今、この世には……私は、いったい、どうすれば……、」
「――美味かった」
遮ってつぶやく博士の声に、私は彼を見つめました。博士はまっすぐこちらを見つめ、こちらの耳に刻むように、一言ひとことつぶやきます。
「うまかったぞ。あの、キャラメルミルク……」
その言葉に、博士がいろいろな想いを込めて口にしたのが……機械の身にもよく分かって、だから私も、けんめいに微笑ってうなずきました。
……ええ、今でも、覚えていますよ。屋敷の妖精のお嬢さんに教わった、キャラメルミルクの作り方……。
出来ることなら、この手で、博士の「ひい孫のひいまご」のあなたに、作ってさしあげたいですが……「首だけのこの姿」では、もうはや、どうにもなりませんねえ……。