『*みずのの右手』
昔むかしのお話です。
ある海の向こうの島国に、貧しい青年がおりました。青年の名は笹吉と言いました。幼い頃に流行り病で家族を亡くして独りぼっち、山に入っては藤づるを採り、つるを編んでかごや小物を作っては売り、それで何とか暮らしていました。
ある時、笹吉は池のほとりで、漁をする男に出くわしました。網にかかった魚や川えびの中に交じって、とても小さなしじみがいました。しじみがあんまり小さいので、笹吉は何だか可哀そうになりました。
「……もし、漁師様……あなたはこのしじみまでも、食ろうてしまうおつもりですか?」
「おうよ、小さくともしじみはしじみじゃ。みそ汁の身にして食ろうてくれる」
「――いやいや、それはあんまりひどい。漁師様、ここに藤づる細工を売ってこさえた小銭があります。この小銭全部と引きかえに、そのしじみを売ってはくださらんか?」
そう言って銅銭をじゃらりと取り出した笹吉に、漁師のおやじはにやりと笑い、「お前さんも物好きだねえ」と言い捨てて、しじみを放ってすたすた帰っていきました。
笹吉はその小さなしじみを、池に戻してやりました。「もう捕まるなよ、可愛いしじみよ」と微笑って家に帰りました。なんせ売り上げがなくなったので、その晩は何にも食べられませんでしたが、笹吉は微笑みながらせんべい布団にくるまり、良い夢を見て眠りました。
さて、その翌日のことです。笹吉が山に入って藤づるを採って帰ってくると、自分のあばら屋の戸口の前に、一人の女子が立っていました。身なりは笹吉と同じくらいに粗末でしたが、長い黒髪に黒い瞳、とても美しい女子です。笹吉は不思議に思って、女子に声をかけました。
「もし、あなた様。訪ねるお家を間違えてやしませんか? そこは見ての通りのあばら屋、中には絵に描いたような貧乏人の、俺しか住んでやしませんよ……?」
「――いいえ、いいえ、間違えてなどおりません。あなたは笹吉様でしょう? わたしはあなたの、お嫁になりに来たのです……!」
笹吉はびっくり仰天しました。自分のところにこんな美人が、「お嫁になりたい」とわざわざ訪ねてくるなんて!
「……いやいや、あんた、とんでもねえ! いいかい、俺は見ての通りの貧乏暮らしだ、山に入っては藤づるを採って、それでちまちま細工物をこしらえて売っては稼ぐ、ちんけな職人、食っていくのがやっとの暮らしだ。そんなつまらねえ俺なんかが、あんたみたいな良い娘さんをお嫁にもらう? いやいや、もったいねえにも程がある……!」
「いいえ、いいえ! わたしはあなた様のお嫁になりたくて、それでこの村に来たのです! どうかお嫁にしてください! してくれなくば……池に身を投げて、死んでしまおうと思います……!」
言いながら、女子は一瞬くすっと微笑ったようでした。その訳は分かりませんでしたが、とにかく「お嫁になりたい」というのは本気で言っているようです。さんざん戸口の前で言い合った末に、笹吉は根負けして女子と家に入りました。
女子は「水乃」と名乗りました。どこから来たのか、何をして今まで暮らしていたのか、何を訊いても黙って微笑っているだけでした。水乃は笹吉のつる細工を手伝い、あばら屋の掃除をし、食材の少ない中でもはりきって、ささやかながら美味しい料理をいろいろ作ってくれました。
……そう、中でも「みそ汁の美味さ」は笹吉が目を見張るほどでした。水乃が作るとみそ汁は何とも言えないだしがとれ、ただのねぎを入れたばかりの「根深汁」まで、腹の底から染み渡るように、しみじみ美味しくなるのです。
「やあ、美味い……! お前のこさえるみそ汁は、何とも不思議に美味いなあ。いったいどうやって作っているんじゃ?」
笹吉が何度訊ねても、水乃はいつもにこにこ微笑うだけ。気になってしょうがない笹吉は、ある時こっそり水乃がみそ汁を作るところを、かげからのぞき見ていました。すると水乃は、最初に鍋に井戸から汲んだ水を入れ、そこに右の手を入れました。
おやおや、何をする気だろう……?
笹吉がのぞいているのも知らぬまま、水乃はぐーるぐーると念入りに鍋の水をかき混ぜました。……変わった動きはそれだけで、あとはふつうのみそ汁を作るのとおんなじ手順で、何とも良いにおいのする根深汁が出来ました。
そうして出来上がったお汁を、笹吉がすっと口に含むと、いつもの通りのしみじみ美味しいみそ汁に仕上がっていたのです。
「……なあ、水乃。俺はさっき、お前がこの汁を作るところを見ていたが……ただ右手を入れて、念入りにかき混ぜただけでこの美味さ、お前は……お前はもしや、人間じゃあないのじゃないか?」
水乃はさっと青ざめて、黙って下を向きました。けれどもすぐに顔を上げて、思いつめた表情で桃色の口を開きました。
「……はい。実は私は、いつぞやあなたに救けていただいたしじみです。命を救っていただいた恩返しをしたいと思い、あの池の主の『蛇姫』様に人間の姿にしてもらい、あなたの嫁になりました。それでも……」
水乃はすがりつくような目で、じっと笹吉を見つめました。見つめて必死に言いました。
「それでも、私の正体を知った今でも、おそばに置いていただけますか……?」
笹吉は黙ってうなずいて、水乃をぎゅっと抱き寄せました。抱き寄せて、赤くなる耳もとへ口を寄せて言いました。
「……ああ、もちろんだ……水乃。俺はもうお前なしでは、生きていけなくなってるからなあ……!」
最後はちょっとおどけた口調で、けれども本気でそう告げました。水乃の黒い瞳から、塩辛い水が落ちました。二人はかたく抱き合って、泣きながら笑い出しました。
しかしその様子を、戸のふし穴から盗み見ていた若者がいました。菊丸というその若者は、水乃の正体を村中に言いふらして回りました。それは焼きもちゆえでした。……そうです。菊丸は人妻の水乃に恋をして、この前ひそかに言い寄って、きっぱりはねつけられたのです。
腹いせの放言は村の外にも広がりました。やがて、近くの城に住む殿様の耳にも入り、殿様は家来に命じました。
「そのしじみ娘をわしの城で煮炊き方として働かせよ。わしはその娘の作ったみそ汁が飲みたい」と……。
「それはそれは女好きの殿様」として悪名高い人物なので、笹吉はどうしても「はい」と言いません。腹を立てた殿様は、家来を笹吉のあばら屋へさし向けました。
「――許せ。命令を聞かねば、私の首が落ちるのだ。私には妻もおる、小さな子もおる……殿様はこう言うのだよ、『わしはそやつのみそ汁さえ飲めれば構わない』とな……!!」
もう今にも泣き出しそうな顔をして、家来は刀を抜きました。そうして水乃の右腕をさっと斬り落とし、泣きながら帰ってゆきました。水乃の腕の切り口からは、しとしとと貝のにおいの白っぽい汁が垂れました。
驚いて声もなく、目を赤くしてとりすがる夫に、水乃も泣きながら言いました。
「……もう、お別れです。こうして大きな傷を負っては、私は人間の姿を保っていることが出来ません。私は池に帰ります……」
そう言い残し、あっという間に水乃は姿を消しました。笹吉は家中を探し回り、もうどうしても水乃はここにいないと知ると、転がるようにいつかの池に行きました。そうして池のほとりで、必死に何度も名を呼びました。しかし、どうしても水乃は姿を見せません。
水乃、みずのと呼びながら、笹吉はどんどん池に入っていきました。そのうち体がどんどん水に濡れるように、笹吉の頭にある考えが大きくなっていきました。
――そうだ。以前は水乃の方から、棲みなれた池を離れて俺に逢いに来てくれたんだ。だから今度は俺の方が、水乃に逢いに行けば良い……。
そう念じながら、笹吉はずんずんと水に入っていきました。脱げたわらじが水に浮かんで、笹吉の背後でぷかぷかしていました。
……そうして笹吉は、頭のてっぺんまで水につかって、それでも奥へもぐっていって、とうとう浮かんできませんでした。
そうして殿様も死にました。殿様は「水乃の右手でかき回して作ったみそ汁」をひとくち口に含んだとたん、血を吐いて倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。お毒見の人も、他にそのみそ汁を飲んだ人たちもまるっきり平気だったので、殿様の死因は分からぬままに、墓に埋められて終わりました。
……そうして残された菊丸は、内臓が潰れるほどに悔みました。池に浮いていたわらじのことを聞いた時には、一瞬心臓が止まりました。菊丸は笹吉の、今は誰もいなくなったあばら屋へ行き、遺されていた藤づるを手に、池のほとりまで行きました。
「すまん水乃、すまん笹吉……! 悪かった、この俺が悪かった! まさか……まさか、こんなことになろうとは……! 俺も死ぬ、死んで詫びる! 笹吉、お前の遺した藤づるで、木にぶら下がって首をくくって……!!」
心の底から死のうとしている菊丸の耳に、どこからか声が聴こえてきます。
「良いんだ、菊丸……そう気に病むもんじゃねえ。俺は今は『魚の精』に生まれ変わって、この池の主様の養子になって、また水乃と夫婦になって、幸せに暮らしているでなあ……」
声は何とも穏やかです。恨みもつらみも、この世の中の悪いことはみんな忘れてしまったような声でした。
「……さ、笹吉? 笹吉なのか?」
「ああ、そうだ。な、菊丸、だからそんなに気に病むな。お前は人間で長生きしろな。……なあ、お前に良いことを教えてやろう。この池の水な、ちょっとすくってみそ汁を作る時になあ、だしなしの水に混ぜると良いや。そうして飲んでみると良いや……」
菊丸は「自分の耳が壊れたのか」と疑いながらも、言われるままに水を汲んで帰りました。そうして家でみそ汁を作って飲んでみると、それは貝のだしがうんと効いた、美味しいみそ汁になっていました。そのことで、菊丸は「許してもらったのだ」と確信し、髪をそりお坊さんになりました。
そうして菊丸の話を聞いて、池の近くの村の者は、みそ汁を作る時には決まってその池の水を、ほんのちょっぴり混ぜるようになったといいます……。
* * *
「……さあ、お話だけじゃあなんですからね、ぜひぜひ『例のおみそ汁』をあがっていってくださいな! それにしても珍しいこと、こんなお若い異国の方が二人して、はるばると昔話を探しにねえ……!」
品の良いおばあ様にお昼ごはんをすすめられ、博士は何とも言えない渋い顔で、「……いただきます」とお椀に口をつけました。そうして例のみそ汁をちょっぴりすすって、ぱあっと急に明るい顔になりました。
「――これは美味い! いや不思議だなあ、臭みもなくて、これは本当に心底美味い!」
博士はそう言って、びっくりした顔をして、みそ汁のおかわりまでしていらっしゃいました。
……え? 「何でそんなに笑っているの」とおっしゃいますか? ……ふふ、いえね、実はあなたの「ひいおじい様のひいおじい様」は、幼い頃のあなたと味覚が似ていらして……「貝類が大嫌いだった」のですよ!
それでも、「本当に美味しいみそ汁」を食べた後、舌がだんだん慣れていったのか……旅の終わり頃には、魚貝でだしをとったスープなんかが大好物になっていました……。ふふ、変われば変わるものですね!