7.
翌日。
図書館でのキヨさんの様子が気になった私は、縁結びカフェで狐月さんにその話をしてみた。すると狐月さんは、コーヒー豆を挽く手を止めて私を見た。
「有栖川教授か。あのひとに会ったんだね」
「狐月さんも有栖川先生を知ってるんですか?」
「少しね。前に一度だけ会って話したことがあって」
簡潔に答えて、狐月さんはすぐに豆挽作業に戻る。こだわり派の狐月さんは、豆を挽くのも手挽きだ。
ゆっくり丁寧に狐月さんがハンドルを回すのに合わせて、香ばしい香りとカラカラという音がカフェの中に広がる。
それをぼんやりと眺めながら、私は頬杖をついた。
「キヨさん、なんか様子がおかしかったんですよね。先生に会えてものすごく嬉しそうなのに、なぜか同じくらい寂しそうっていうか。有栖川先生の授業だけは出るってのも気になるし……。あの二人、何かあるんですか?」
「――よし。豆が挽けたよ、水無瀬さん。さっそくハンドドリップ、やってみよっか」
「あ、はい!」
笑顔で促され、私は用意しておいたお湯をドリップポッドに注いでスタンバイする。
狐月さんは、紙のフィルターをセットしたドリッパーに挽きたてのコーヒー粉を適量入れてくれる。軽く振って表面をならされた粉は、砂浜のように滑らかで綺麗だ。
今の時刻は午後4時。ティータイムも落ち着いて――と言っても、今日もお客は妖怪だけなので、別段混雑はしなかったが――手が空いたので、狐月さんにコーヒーの淹れ方を教えてもらうことになったのだ。
「まず全体にお湯を含ませて蒸らして……うん。そのくらいで大丈夫。いいね、上手だよ」
(ひゃあああ)
後ろから覗きこまれながら囁かれ、私は手元が狂わないように鋼の精神で堪えた。
イケメンの優しい美ボイスで囁かれながらの見守りシチュエーションとか、どこで売ってるドラマCDだ。私もぜひ購入したいし、なんなら今この現状に対してお金を払いたい。
「そろそろいいかな。そしたら、のの字を書くみたいに先端を回して……そうそう。いつもそばで見てたからかな。水無瀬さん、筋がいいよ」
にこっと嬉しそうに微笑まれ、私の心臓はどっきん!と大きく跳ねた。
この無自覚イケメンめ。店長自身が楽しみながら教えてくれるのはバイトとしても嬉しい限りだけど、こちらは男性免疫のない初心な乙女なのだ。その辺のところよく考えたうえで自重していただきたい。
そうやって何とか淹れたコーヒーを、私は二人分のカップに注ぐ。今日の器も、狐月さんのこだわりセレクト。底が蒼いガラス釉で大分感じは違うけれども、キヨさんが愛用している器と同じ、萩焼のカップだ。
カウンター席に並んで座り、コーヒーを飲みながら、狐月さんはゆっくりと話し始めた。
「キヨさんの核はね、どうやら有栖川教授が研究する古典の中にあるらしいんだ」
「えっ。キヨさんの元の本が、源氏物語レベルの文献ってことですか?」
「僕も詳しくは知らないけどね。本人に聞いても、ちゃんと答えてくれた試しがないし」
狐月さんは苦笑して肩をすくめる。コーヒーを一口飲んで「ん。美味しい」と微笑んでから、狐月さんは再び口を開いた。
「前に話した通り、文車妖姫は書物や手紙に宿るひとの想いが集まって妖怪になったものだ。けれども力の強い文車には、存在の核となる文献があるんだ」
「キヨさんの場合、それが平安時代の名のある書物で、有栖川教授の研究対象だった……」
「そう。キヨさん性格からして、初めは面白半分だったんだろうね。けれどもそばにいるうちに、キヨさんの中で有栖川教授は特別な存在になっていった。――キヨさんは有栖川教授に、1000年越しの友情を抱いてるんだよ」
"書物は、時代を生きたひとびとを映す鏡です”
先だっての講義で、有栖川教授が話した言葉が耳に蘇る。
"言葉に隠された想いを読み解き、匂いを感じ、筆を走らせる書き手の姿に想いを馳せる――。すると、1000年の時を超えて著者が直接語りかけてくるような、そんな心地を味わう瞬間があるのです”
私は教室の後ろの方に座っていたから、キヨさんの表情をはっきりと確認することは出来なかった。
けれどもふと目に止まったとき、わずかに見えたキヨさんの横顔は、きらきらと子供のように輝いて見えた。
「なんとかしてあげられないんでしょうか」
コーヒーの苦味を味わいながら、私は手元のコーヒーカップに視線を落とした。
「たぶんキヨさん、本当は有栖川先生と、ちゃんと話してみたいんだと思います。先生と会った時のキヨさん、すごくそわそわしていたから」
狐月さんはすぐには答えなかった。カップを持ったまま考え込んでから、やがて口につけずソーサーに戻した。
「残念だけど、それは難しいと思う」
「どうしてですか? 店長の――狐月さんの妖術なら、有栖川先生も妖怪を見られるようにできるんじゃ……」
事実私も、狐月さんの妖術でキュウ助やほかの妖怪たちと出会えたわけだし。そう思って私は身を乗り出したけど、狐月さんは静かに首を振った。
「前に、キヨさんに頼まれて同じことをしたんだ」
「え?」
「有栖川教授とキヨさんは、僕の目から見ても深く強い縁で結ばれている。縁結びカフェに招く人間の条件は、十分すぎるほどに満たしていたからね」
だから狐月さんは「有栖川教授と会ったことがある」のか。
納得すると同時に、私は薄々先が読めてしまった。
「それなのに、難しいってことは……」
「そう。有栖川教授には、僕の術式が効かなかった。コーヒーを飲んでなお、彼女にキヨさんは見えなかったんだ」
私は想像した。
あの有栖川教授が、すっと背筋を伸ばしてカウンターに腰掛けている。
彼女の手には、湯気のたつ淹れたてのホットコーヒー。時折喉を湿らせながら、教授はノスタルジックな店内の雰囲気を楽しんでいる。
笑顔で話す彼女の視線の先にいるのは、エプロン姿の狐月さんだ。
傍に立つキヨさんの姿は、教授の目には映らない。近くにいるのに、触れてしまいそうな距離なのに。教授の世界に、キヨさんは存在しない。
「僕の術式は、飲んだ人の妖力を高めるというものでね。水無瀬さんみたいにもともと妖力の高い人は馴染みがいいけど、そうでなければ効果は五分五分。ましてや妖力がほとんどないとなると……」
「有栖川先生のように術式がまったく反応しない?」
「もどかしいことにね」
そう言って、狐月さんは当時を思い出すように視線を横に流した。
「キヨさんの希望で二人の縁は残したけど、教授は店に来たことも忘れているし、もう一度術式を試しても望みは薄いと思う。キヨさんもそれをわかっているから僕に頼んでは来ないけど……そっか。やっぱりまだ有栖川教授の講義は受けてるんだね」
--それから1週間がすぎ、再び有栖川教授が教壇に立つ日が来た。
私は前回と同じく、真希ちゃんとふみちゃんに挟まれて大教室の後ろに座る。
授業が始まる直前になって、やっぱりキヨさんは教室に現れた。
「きゅう、きゅう!」
キヨさんに気づいたキュウ助が、先週と同じようにはしゃぐ。こちらをチラリと見てから、キヨさんは変わらずに一番前の席に腰掛けた。
そうして彼女は、歌うように話す有栖川教授を柔らかな表情で見守っていた。
(本当に、何もしてあげられないのかな……)
やっぱりどこか寂しげなキヨさんの背中を見つめながら、私はそのことばかりをぐるぐると考えてしまうのだった。




