6.
たぬ蕎麦でこだわりのたぬき蕎麦を食べたあとも、私はキヨさんと大学構内あちこちの『妖怪的おすすめスポット』を巡った。幸い3限が空き時間で、図書館にでも行こうかと思ったのをキヨさんに引っ張り回されたのだ。
妖怪は本当に、至る所にいた。
授業中の教室を小鬼が走り回っていて、うたた寝する学生の耳をひっぱったり、ペンや消しゴムを蹴っぽったりして悪戯していたり。
運動場では、すねこすりという丸々した猫みたいな妖怪が、部活で走り回る学生たちにじゃれついて転ばせてたり。
大学のシンボルである時計塔にはたくさんの木霊が住み着いていて、時報が鳴ると一斉に山びこして、学内にわんわんと音色を響かせていたり。
言われて初めて気づく、妖怪たちの世界。それはあまりに生き生きしていて、そろそろ見慣れつつあった大学の景色を新しく彩っていく。
そうして最後、私たちはキヨさんの住処であると言う図書館に来た。
「どうじゃ、スズ。われら妖怪の学園生活も、なかなか味があって面白かろう?」
古い本の、懐かしい香り。それが満ちる静謐な大学図書館の本棚の合間を、キヨさんはスキップするみたいに軽やかに歩く。その足取りはまるで庭で遊ぶ子供のようで、彼女が本当に図書館に住み着いているのだと感じさせた。
ぴょんぴょん跳ねるキヨさんに、亜麻色の髪がふわりと広がった。
「これでわかったじゃろ。お主ら人の子は、我が物顔で大学を行き来するがな。われら妖怪のほうが、お主らよりもよほど先輩なのじゃ。それがわかったら、これからは我らに敬意を払い大学生活を謳歌することじゃな」
「敬意を払うって、具体的にどうすればいいの?」
「そうじゃな。週に一度、図書館の入り口に抹茶フロートを置いておけ。あ。わらわ、いちご大福も好物じゃぞ」
「ただの食い意地!」
私が突っ込むと、キヨさんはけらけらと楽しそうに笑った。
そのとき、パーカーのフードの中でそれまで大人しくしていたキュウ助が「きゅう?」と顔を覗かせた。
「ん? どうしたの、キュウ助?」
「きゅうきゅう、きゅう!」
「あっ」
何かを探すみたいにキョロキョロしていたキュウ助が、ぴょーんとフードから飛び出る。つられて上を見上げると、私は本棚の上に、キュウ助と同じ倉ぼっこが何匹もふわふわ浮いてるのを見つけた。
「倉ぼっこがあんなに!」
「図書館も蔵の一種だからな。このあたりの倉も減ってきて、はぐれぼっこがどんどん集まるんじゃ。いまじゃ、図書館は倉ぼっこ共の一大集落じゃよ」
話す私たちの頭上で、キュウ助はほかの倉ぼっこたちにふわふわ近づいていく。「きゅう?」「きゅう、きゅう?」としばらく会話をしていた倉ぼっこたちは、やがて「きゅう~!」と再会を喜び、もふもふ集まった。
「おかえり、キュウ助。友達に会えたの?」
「きゅう!」
戻ってきたキュウ助に声をかけると、キュウ助は嬉しそうに私の肩の上をころころ転がった。
仲間が見つかったなら、キュウ助もここで暮らしたほうが幸せなんじゃないか。一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、キュウ助は満足したように私に甘えている。
(キュウ助を連れて、頻繁に図書館にくるようにしようかな)
ふわふわの毛玉を指の先で撫でながら、私はそう決意した。
そのとき私は視界の端に、倉ぼっこたちとは少し感じが違う、淡い光の玉を見つけた。手のひらサイズの妖精にも見えなくない光を指差し、私はキヨさんに尋ねる。
「キヨさん。あそこの薄水色の光の玉は? あの子たちも倉ぼっこの仲間なの?」
「あれはわらわの同胞じゃ」
「同胞? 文車ってこと?」
「われら文車ほどの力は持たぬにせよ、書物には人間の想いが宿るからの。いうなれば書物の精霊じゃ。弱くて小さい、童のような存在じゃ」
キヨさんが言う通り、淡い光の玉からは無邪気な雰囲気が伝わってくる。恥ずかしいのかはしゃでいるのか、精霊たちは集まったり離れたりしながら、クスクスと少女のような笑い声を立てた。
精霊たちを見上げて、キヨさんは目を細めた。
「結局、我らは人の子とは切っても切れないんじゃな。人の子が我らを忘れても、我らの核となるのは人との縁。想いや信仰、記憶に伝承。そこから産まれた我らは人の子を愛さずにいられない。不毛で不条理だが、それが妖怪の本質ゆえに仕方あるまいよ」
ともすれば自嘲的にも聞こえる言葉選びなのに、そう微笑むキヨさんの横顔に悲壮感はない。むしろ楽しそうに、ふふっと笑みを漏らしている。
前に狐月さんが話していたことを、私はようやくすべて理解できた気がした。
人と妖怪の世界が分たれたこの時代に、私は奇跡みたいな確率で妖怪たちと縁を結んだ。その出会いに意味を持たせて欲しいと、狐月さんは言っていた。
小鬼たちも、すねこすりも、木霊も。いまここで楽しそうに笑うキヨさんも。好き勝手気ままに暮らしているように見えて、少しづつひとの世と関わろうとしている。
それは無意識なのかもしれない。本質に擦り込まれた性なのかもしれない。それでも私は、そんな妖怪たちを愛おしいと思った。
「今日はありがとうございました」
3限が終わる鐘の音が聞こえる。私が立ち止まってぺこりと頭を下げると、キヨさんはぷくりとほおを膨らませた。
「これから図書館パーティうぃず文車を開催してやろうと思ったのに。もうどこかに行くのか」
「4限に出なくちゃいけない授業があるから、ごめんなさい」
「なんとまあ。人の子はかりきゅらむとやらに縛られて、なんとも惨めで哀れだの」
口では憎まれ口を叩きつつも、キヨさんは本当に残念そうにしている。
だから私は、笑って約束をした。
「だからキヨさん。また大学で、私と遊んでくださいね」
「スズ、お主」
意表を突かれた表情で、キヨさんが私を見つめる。
ややあって、キヨさんはふっと小さく笑った。
「……こんの。お人好しの、妖怪たらしめ」
「え? 何か言いました?」
「なに。人の子のくせに、なかなか阿呆で見所があると感心しただけじゃ。仕方あるまい。お主がそこまで言うなら、またわらわが構ってやろうぞ!」
よく聞こえなかったので聞き返したら、キヨさんは上機嫌にそう返した。よくわからないけど、キヨさんが楽しみにしてくれてるならよかった。
狐月さん風に言うなら、きっとこれもご縁だから。
――じゃあね、キヨさん! そう告げようとしたその時、私の背後で小さな足音がした。
「あら。ごめんなさいね」
小鳥がさえずるかのような、軽やかで心地の良い声が響く。振り返った私と出会い頭にぶつかりかけたそのひとは、教壇で見せたのと同じ、柔らかな笑みを私に向けた。
「私、よく確認せず曲がってしまって……。どこかぶつかってしまったりはしなかったかしら」
それは2限の授業で教壇に立っていたそのひと、有栖川涼子教授だった。
教授は授業のときと同じ、長袖の明るいサマーニットに、ラベンダー色のストールを羽織っている。
いまも綺麗だけど、若いときはさぞ可憐で愛らしかったことだろう。笑い皺の浮かぶ有栖川教授の目元は、私にそんな想像をさせた。
私が思わず見惚れていると、後ろでキヨさんが上擦った声で呟くのが聞こえた。
「リョーコ……」
(キヨさん?)
不思議に思ってチラリと見ると、キヨさんはぽけっと惚けていた。くりっとした大きな瞳は有栖川教授に釘付けになっていて、色素の薄い頬はほんのりと桜色に染まっている。
まるで憧れの芸能人に出くわしたみたいなキヨさんに、「おや?」と思ったとき、有栖川教授が猫のように小首を傾げた。
「どうかしました? そこに何かいるのかしら?」
「い、いえ! なんでもありません」
有栖川教授にはキヨさんが見えないのだ。当たり前のことに気づいた私は、慌てて教授に視線を戻す。
そして有栖川教授に頭を下げた。
「こちらこそ、出会い頭に失礼しました。私は大丈夫でしたが、教授も怪我はありませんか?」
「よかった。私も大丈夫ですよ、ありがとう」
優雅に微笑み、するりと有栖川教授は書棚の奥へ向かう。すいすいと歩く背中は、水を得た魚のように軽やかだ。
それを、やっぱりキヨさんは見つめている。憧れと切なさが入り混じるその眼差しが、私はどうにも気になってしまったのだった。




