プロローグ
寺川市は、東京の多摩地区のほぼ真ん中あたりに位置する。北部と南部にそれぞれ鉄道が通り、市のほぼ真ん中には季節ごとに表情を変える緑豊かな大通りと、街の顔と言える国見大学がある。
通りから少し入ったところには高級住宅街もあるため、お洒落なカフェやギャラリーも多い。学生の街とハイソの街。ふたつがほどよく混ざり合った、落ち着いていて過ごしやすい街だ。
その街こそ、春から大学生になった私の新たなホームタウンであり、この物語の舞台だ。
大学一年生の春。それは、多くの高校生にとって希望と憧れをはらんだ響きの言葉である。
事実、私もそのひとりだった。高校とは違う。中学時代とももちろん違う。目に写るものが新鮮で、先が読めなくて、無限の可能性に満ちている。この門の先に新しい世界が広がる予感がして、ワクワクと胸を躍らせたものだ。
そんな私が、大学入学からわずかひと月のうちに、ありとあらゆる不幸を鍋で煮詰めて飲み込んだような顔をしている。それだけで、事態の深刻さを慮っていただけるだろう。
「良いご縁がありますように!」
ぱん!と乾いた音を立てて、私は勢いよく手を合わせる。
このこじんまりと可愛い社は、大学の裏手にある神社だ。正式名称は、寺川稲荷神社。だけど国見大生は、親しみを込めて『縁結び神社』と呼ぶ。
「良いご縁がありますように! 良いご縁がありますように! 良いご縁がありますように!」
縁結び神社と呼ばれる理由には、諸説がある。大学の創立者がここで縁結び祈願を行なったからとか、大昔に狐の花嫁がこの地で祝言を挙げたからだとか。
本当のようなことから、嘘みたいな話まで、噂はさまざまとある。共通して言えるのは、この小さく「THE 地元感」溢れる神社に、国見大生はさまざまなご縁に関する願いを託しに来ると言うことで。
そのうちのひとりが、今日の私だ。
「良いご縁が! ありますように!」
「無理だと思うよ」
不意に響いた第三者の声に、文字通り私は飛び上がった。
慌てて顔を上げると、お賽銭箱にもたれるようにしてひとりの男の人がいた。
(このひと、いつからここにいたの?)
手を合わせたまま、私はぽかんと男のひとを見つめた。
私が神社に到着した時、境内には誰もいなかった。そりゃ、木陰にいたり社の裏手に回っていたならわからないけれど、お参り中に目の前に立たれたら流石に気付きそうなものなのに。
それにしても、素敵な男の人だ。どこか狐を思わせる細い目をしているけれど、決して意地悪そうには見えない。むしろ、端正な面立ちに浮かぶのは包容力に満ちた柔らかな微笑みで、なんだか引き込まれてしまいそうになる。
ところでこの人、なんでエプロンをしてるんだろ。どうでもいいことを考えてから、私はハッとした。
「む、無理だと思うって!? いいご縁が!?」
「うん」
にこにこと笑みを浮かべて、イケメンさんは頷く。
男の人は天気の話をするみたないな朗らかさで、サラッととんでもないことを言った。
「だって君。悪い縁に取り憑かれてるもの」