蘆薈はとりあえず誰にでも噛み付く
教室に並べられた机には、既に多くの生徒が着席していた。そろそろ朝のホームルームでも始まるのだろうか。ここにいる生徒の多くが、時計に目をやり、そわそわと落ち着きがない。
蘆薈も自身の名前が記入された紙が置いてある机に着席していた。
アロエ・ロカイ。卓上の紙にはそう記入されていた。
舐めた名前だな。アロエは漢字で蘆薈と書く。日本では音読みでロカイとも読む。要するに、アロエ、アロエという意味だ。
ちなみに何故彼が蘆薈と呼ばれているのか。生前の世界では、穏やかじゃない仕事についている人間はコードネームで呼び合っていた。日本での蘆薈の花言葉は、信頼と万能。どんな仕事でも器用にこなす蘆薈は、その筋ではそれなりに有名であった。そして西洋での花言葉である苦痛。これは彼の生き様を皮肉ったものだった。
にしても、新しい学園生活だぞ。普通は期待に胸を膨らませるもんなんじゃねぇのか? 世の新学期ってのは、緊張と興奮、少しの不安でできてるもんだろ。
蘆薈は自分がまともに学校に通った経験が無いことを棚に上げ、周りの生徒の不安と緊張しか感じられない様子を眺めていた。
「ようゴミ共!」
しばらくして、教室前方の扉が開き、教師と思われる男が入室するなり罵声を発した。
教室の空気が凍りつく。生徒たちは虐げられることを予想していたものの、初日から罵声を浴びせられるとは思っていなかったのかもしれない。
「なに一丁前にショック受けてんだよゴミが。Gクラスの扱いは分かってたんだろ?」
教師はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、顔を引きつらせる生徒たちを見回した。
いい趣味してるぜ。あの男からは、弱者をいたぶるのを生き甲斐にしてた政治家の屑と同じ臭いがする。臭くて鼻が曲がりそうだ。
蘆薈は教師の恫喝には特にリアクションを見せず、窓の外を眺めていた。校庭に生える木々は生前の世界では見たことの無い不気味な実をつけていた。
なんだあれ、きも。
「ん? おいおい、お前。何無視してんだ、あぁ?」
教師は窓の外をぼうっと眺める蘆薈を見つけると、不機嫌さを隠さず威圧する。
この手の人間は、自分の思い通りにならない奴が大嫌いだ。特に上下関係が明確であるほど、その傾向は顕著に現れる。
「ああ、すまん。お前のニタニタ顔を見てたら気分が悪くなってな。ちょっとでも綺麗な景色がみたくて」
蘆薈は教師にそうこたえると、欠伸をしながら窓の外に視線を戻した。
教室がざわつき始める。先程まで教師に怯えていた生徒たち全員が蘆薈を見て固まっていた。
「……は?」
教師は自分が何を言われたのかわかっていないようだった。茫然自失。こんな事は今までになかったのだろう。蘆薈は一瞬だけ彼の顔を見た。口が半開きの状態で硬直していて面白い。
「き、貴様! 誰に向かってそんな口をきいてんだ! Gクラスのゴミの分際で調子に乗るなよ!」
何テンポも遅れて、教師の怒りが爆発した。顔だけでなく、首から、シャツを捲りあげて見える腕までもが赤くなり、血管が浮き上がっている。教師の変化を感じ取った生徒たちはすぐに黙り込み、俯いている。中には、何余計なことしてんだよと蘆薈に避難の視線を向ける者もいる。
「ああ、すまんすまん。俺もお前と同じであんまり良い教育受けてないんだわ。小学校は行ってたんだけどな、道徳の授業がどうも苦手で」
蘆薈は教師の怒りをなだめるように淡々と話した。周りの生徒たちは俯きつつも、蘆薈の様子が気になるのか、チラチラと様子を伺っている。
「……てに出ろ」
「あ?」
「表に出ろ!」
教師は唾を飛ばし、叫ぶ。顔は赤黒くなり、そろそろ血管が破裂するのではないかと蘆薈を期待させた。
「おいおい暴力か? 今どきの教育現場では暴力はないって聞いてたんだが。あっ、そっか。世界が違うのか」
「この学園ではGクラスだけに適応されるルールがある。暴力による指導もその範疇だ。お前は躾が必要みたいだからな。五体満足でこの学園を卒業できると思うなよ?」
教師の口から出てきた驚きのルールに、今度こそ本当に教室が凍りついた。生徒たちは互いに目を合わす余裕すらない。
「ああ、俺もそういうの嫌いじゃないな。だいたい最近のガキは甘いんだよな。それもこれも教育者が甘いのが理由なわけで」
蘆薈は自信満々に最近の若者の甘さについての持論を披露しようとして、教師の視線に殺気がこもっていることに気づく。
「早く出ろ。この学園では毎年多くの死者が出てる。お前が死んだところで誰も気にしない」
教師は冷静になり、淡々と学園の恐ろしい実態を語る。
急に冷静になりやがって。意外とこいつ厄介だな。頭に血が上ったままでいてくれるタイプかと期待したんだが。
蘆薈は教室から出ていった教師の後を追う。教室を出る時に背中に感じた生徒たちの視線は、同情や哀れみではなく、火に油を注いだ蘆薈への避難によるものだろう。
蘆薈は教師の背中を追いかけ、校庭に出た。先程、窓から外を眺めていた時にあった不気味な実をつけた木々が横手にある。
「さっきも言ったが、お前が死んだとしても誰も俺に文句は言わない。今日ここでお前は死ぬかもしれない。だが俺も鬼じゃない。この場に膝まづいて俺の靴を舐め、アーノルド様お許しくださいと懇願したら半殺しで済ませてやる」
アーノルドは自身の靴を指さす。顔には先程教室で見せた醜い笑顔を貼り付けている。
「昨日死んだばっかりだってのに。流石にまだ死にたくねぇな。でもお前に許しを乞うのも死ぬほど嫌だな。うわ、悩むなぁ。これが究極の選択ってやつか。うんこ味のカレーとカレー味のうんこ。いやでも、よく考えたら、味がカレーだからといってうんこは駄目だろ。そういえばリリーは、私は究極の二択は選ばない。三択目を掴み取るって言ってたな。でもそれって狡くねぇか?」
「もういい……お前は死ね!」
アーノルドはそう呟くと、蘆薈に飛びかかる。蘆薈はアーノルドの突進をすんでのところで躱す。
アーノルドが先程までいた場所は、人間の脚の力で蹴ったとは思えないほどに陥没している。
蘆薈はこの世界に魔法という概念が存在することを思い出していた。
これが女神が言ってた魔法ってやつか? あんな初速、人間じゃ出せねぇだろ。地面えぐれちゃってるし。
「ほう。今のを躱すとはな。デカい態度なだけはある」
アーノルドは蘆薈に向き直り、脚に力を込める。
次が来る。蘆薈もアーノルドの方に体を向け、迎撃の構えを見せる。蘆薈は理解していた。天地がひっくり返っても自分が、この男に勝つことはないだろうと。
いやぁ、参ったな。万能と呼ばれた俺でも、化け物と戦ったことは無いからな。こりゃ死なないように用心するしかないな。
アーノルドは先程よりも長い時間をかけ、脚に力を込める。二度目の突進。スピードは先程の攻撃とは比べるまでもない。
蘆薈は両手を交差させ、これを受け止めようと試みる。
あっ、これやべぇ。死んだかも。
蘆薈は急激に時間が遅くなるような錯覚を覚えた。走馬灯と呼ばれる現象の後に待つのは、絶対的な死だ。
アーノルドの突進から逃れることは出来ない。蘆薈は覚悟を決め、自身の重心を後ろにずらし、絶妙な角度で飛び退いた。直後、激しい衝撃が蘆薈を襲った。アーノルドの拳の直撃を受けた両腕の骨が粉砕される。
数十メートルも吹き飛ばされ、校舎の壁に打ちつけられる。
蘆薈は衝突の直前、咄嗟に体に力を込めた。これだけの衝撃で吹き飛ばされ、壁にぶつかれば、人間の形を保つことはできないだろう。
「なかなかしぶといゴミだな」
アーノルドは歩いて校舎まで近づいた。激しい衝撃の割に、傷一つついていない校舎の壁もまた、魔法の力が働いているようだ。
「……本物の化け物じゃねぇか……ただの右ストレートでこれって」
蘆薈は辛うじて息をしていた。何故自分の体が潰されずに原型を保っているのかはわからないが、どうやらまだ死んではいないらしい。
「シューバルデンの教師はこの国でも上位の実力者の集まりだ。お前ごときゴミがどうにかできる相手ではないんだよ」
どうやら俺は、ちっとばかしこの世界を舐めてたみたいだ。いや、かなり舐めてた。これは想像できなかった。生前の世界の人間のレベルなんてとうに超えてる。本当にどうこうできるレベルじゃねぇな。これ。
「だが、咄嗟に身体強化魔法を駆使したことは褒めてやる。まあ、一般クラスの生徒なら戦う前から身体強化を行っていただろうがな。落ちこぼれのGクラスにしてはよくやった方だ」
アーノルドはそう言うと笑顔で蘆薈の腹に脚を置いて、力を込めてゆっくり踏みつける。
「ッ!? クソが……」
身体強化を施されたアーノルドの踏みつけは、まるでアフリカ象に踏みつけられているかのような重量を感じる。
「今後はこれに懲りて、口と態度に気をつけることだな。これからお前はこの地獄のGクラスで生きていくんだ。ここで死ぬより、そっちの方が面白いだろう」
アーノルドは蘆薈から脚をどけると、そのまま去っていく。
「今日はこれくらいにしといてやる。次同じようなことがあったら、その時はしっかりと殺してやる」
残された蘆薈は、アーノルドの教師らしからぬ物言いを聞くとそのまま気を失った。