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「こうである」ということと「こうあってほしい」ということ

作者: T.ムルソー
掲載日:2019/07/18

 

 我々人間は、「こうである」という事実と「こうあってほしい」という希望とを、混同して考え、あるいは混同して判断する傾向がある。それによって、「真実」というものが見えなくなり、混沌に陥ってしまっている。この両者を、可能な限り峻別して物事を整理する必要がある。

 もし、それが出来るなら、「真実」というものが実は単純で明快なものだということが理解できるようになる。あとは、それを受け入れられるかどうかという問題だけである。


 1 人間が生きているということ

 人間存在が生きているということは、「意識」があるということである。生物学的に言えば、「意識」はなくとも、呼吸し心臓が動いていれば生きているということになるだろう。しかし、存在そのものが自己や外界を認識し、それらに対して心を動かす力を失っている状態は、物理的には存在しているが生きた存在とはいえないだろう。

 そう考えると、厳密に言えば存在は深い眠りにつくたびに死に、目覚めるたびに生き返るということもできる。存在は眠りにつくたびに死を経験するのだが、健康な存在は、そのたびに再び目覚めるだろうかと不安に思うことは通常はない。

 しかし、精神を病んでしまったり、子供の頃初めて「死」という概念に気付いたあの時期には、異常なまでの激しい不安を経験するものである。



 2 死への恐怖

 人間が、「死」の概念を理解し、それに恐怖の念を抱くのは、物事を抽象的に捉え、考えられる年齢になってからである。それは一般的には脳科学の観点から言って、小学校5~6年生(10歳前後)の頃と言われている。初めて「死」を意識した時、たぶん誰もが奈落の底に突き落とされたような衝撃を受けるだろう。それまでは、「生」に限りがあるなどということを考えてもみなかったからである。

 私は、小学校の帰り道、友達と宇宙のことが話題になり、「宇宙には行きつく果てがあるだろうか」という難問に突き当り、「ある」「ない」で議論になった経験がある。その議論にはもちろん答えは出なかったのだが、その話題の延長として、「人間は死んだあとどうなるのだろうか」という、これまた難問に行きついたのだ。その際、「天国か地獄に行くんだ」という友達と、「いや、人間は死ねば全てがなくなるんだ」と主張する私が対立したのだ。これまた当然のごとく結論が出ないまま議論は中断となった。家に帰って、その夜、寝際に友達との議論を思い返してみた。その時点で初めて、自分が主張した「人間は死ねば全てがなくなるんだ」という真の意味を理解し、恐怖に襲われた私はその晩は眠れなかったという経験がある。

 この恐怖の意識を、我々人間は恒常的にもち続けることは出来ず、むしろ日常の中では忘れよう、目をつぶろうと無意識に努力する。しかし、時として夜の寝際にふとその恐怖が蘇り、暗黒の世界に引き摺りこまれそうになる。

 やがて、青年期を迎え、心身ともに成熟してくることにより、「生への渇望」と「死への恐怖」の対峙を、不条理の感覚として認識するようになる。


 3 「神」という概念

 ここで重要なのは、「死」への恐怖から逃れようとするために、人間は「神」という概念を創造しようとすることだ。かくして、幾多の教祖が誕生し、あるいは誕生させられ、「人間は不滅の存在で、死後の世界がある、死後復活する、輪廻によって生まれ変わる」などといった、救いの概念が提供されることになる。

 しかし、ここで冷徹な目で「事実」と「希望」を峻別する必要性がまず生じるのだ。「人間は望む望まないに関わらず、ある時この世に生を受け、時間とともに老いを迎え、やがて死んでいく」。これは厳然とした「事実」なのだ。しかも、その点においては他の生物となんら変わりはない。アリや犬、ネコ、路傍の雑草と全く同様なのだ。人間だけが特別だと考えるのは、人間の思い上がりである。だが、人間はその事実に納得がいかない。納得いかせるためには「神の存在」という「希望」の産物を創りあげるようとするのだ。この段階で、人間は第一の混沌に陥ってしまう。


 4 神という概念の多様性

 神は確かに存在すると考える人々がいる。それらの人々に向かって、いや、それは幻想に過ぎないと力説することは野暮なことだろう。その宗教の教義が、他人に害を及ぼさない限りにおいて、認められる(いや、否定されない)べきだろう。信じることで救われるのなら、それを邪魔だてする権利は誰にもない。

 ただ、「神」という概念は人間が創り上げるものだから、世界には様々な「神」が存在することになる。そして、その「神」によって人間に求めてくるものが異なるのだ。結果として、そこに宗教間の争いが生じることになる。そこで重要になるのは、互いの宗教の教義の違いを認め合い、互いに共存していこうとする姿勢(突き詰めると矛盾するのだが)である。さもなければ、宗教戦争が勃発することになる。「唯一神教」という立場を貫こうとすれば、極論として、その宗教にとって世界を征服することが大儀となってしまうだろう。


 5 無神論という人間の立ち位置

「神」の存在を認めない者、あるいは認められない者にとって、あらゆる規範から解き放たれて自由という立ち位置が保障されるのだろうか。例えば、人を殺しても、神は存在しないのだから、いわゆる神的な意味において「罰」を受けるという概念は存在しないはずになる。

 確かに、神的な意味での規範からは自由になり、その結果、全てにおいて自らの価値判断で考え、行動することが許されるようになる。

 では、真実全てにおいて自由になるのだろうか。答えはノーである。人間が無人島で一人暮しをするなら、ある程度イエスとも言えるだろうが、そうはいかないのが現実社会である。人間が二人以上、あるいは多数で社会を形成して生活する上では、そこには必ず約束事、ルールというものが必要になる。例えば、他人のものを盗んではならないとか、人を殺してはならないといった約束事である。それらの約束事は、集団や社会で生活する一人一人が守られ、安心して暮らせることを保障することになる。

 であるから、人を殺せば、神から罰せられることはないが、属する集団や社会によって裁かれることになる。

「異邦人」のムルソーは、殺人を犯したことにより、神から罰せられることはないだろうが、社会によって裁かれ抹殺されるのだ。それは、母親の葬儀に涙を流さなかったからという道義的、人格的理由からではなく、人を殺してはならないという社会の約束事を破ったという、単純な理由によってである。

 この点において、神を信じない人間においても、つまらない教義や道義からは自由になれるが、社会の規範からは自由にはなり得ないのである。


 6 自然の法則ということ

 もう一つ、なんぴとも逃れられない事象がある。それが宇宙を支配する「自然の法則」というものだ。宇宙には無数の小宇宙が存在し、そのうちの一つが銀河系であり、その中に太陽を中心とした太陽系があって、地球は太陽という恒星をまわる一惑星である。ある時、地球上に生物が誕生し、やがて人類が現れ、さらにその先には太陽も燃え尽き、太陽系もろとも地球も死滅する。そういう、自然の法則のダイナミズムの中に組み込まれて人間は生きており そこからは抜け出すことが出来ない。その中の一瞬として「今」がある。

 そういった自然法則の中で人間存在を考えると、人間存在なんて吹けば飛ぶようなチッポケなものなのだ。かつて、深沢七郎が、人間存在なんて「屁」のようなものだと言い切ったが、当たらずとも遠からずの名言かもしれない。

 そう考えてくると、「最後の審判」「天国、地獄」だとか「輪廻」だとかいった概念が、人間を宇宙の中心に据えた、身勝手なものに思えて来ないだろうか。

 昔の哲学は、ギリシャ哲学から始まって、人間存在と自然の法則を一体として思索の対象にしたように思う。なかには天動説だとか言った的外れな理論もあったが、この、人間存在と自然法則を一体として考えることにより俯瞰的な視点から真実が見えてくるという教訓がそこにはありそうだ。


 7 神を信じない生き方

 神を信じない人間は、様々な宗教的教義からは自由になれる。では、神という概念にすがらず、死の恐怖に打ち勝ち、自らの価値判断により決然と判断し、選択していく生き方は可能なのだろうか?

 結論から言えば、可能である。死への恐怖は、人間の「想像力」がもたらすものである。死そのものの苦痛よりも、死後の世界に自らの存在が無になること、それが何を意味するのかを想像することからくる恐怖である。

 人間以外の生物は、死の瞬間への恐怖はあるかも知れないが、人間のように、死後の世界に想像を巡らす能力は有しないだろう。それは、アダムとイブが知恵の(りんご)を食べたが故に、人間に与えられた(与えられてしまった)能力だと聖書は言っている。

 では、どうすれば「死の恐怖」から自由になれるのか。それは、「覚悟」するということである。眠りにつく前に、翌朝目覚めるだろうかと無用な心配をすることが愚かなことであると同様、死後の世界(自らが無になる世界)に想像を巡らすことは愚かなことだと「覚悟」を決めることだ。

 人間は、病いによるだけではなく、常に事件や事故によって命を落とす危険にさらされているのだ。それらが、他人事ではなく、いつ何時自らに降りかかってくるか予測出来ない。その危険性を常に意識し、それに備えることは不可能に近い。その時はその時で仕方ない、やむを得ないと「覚悟」するしかないのだ。

 突き詰めると、多くの日本人は無神論者だと言われる。困った時の神頼みはするし、仏壇に手を合わせ、墓参りもする。しかし、真に体系だった宗教を信じているとは言えないのではないか。手を合わせる対象は、神でも仏様でもなく、亡くなった家族や知人の記憶に対してであろう。

「覚悟」出来るかどうかは、年齢にもよるだろう。生への熱情に燃える青年期においては特に困難かも知れない。しかし、年齢を重ねるにつれ、次第に人生の下り坂に差し掛かる頃には、「覚悟」への距離がより近くなっていくものだ。

 昨今、「終活」ということがブームにさえなって来ている。死を身近に感じるようになった人間の「覚悟」がそこにはあるのかも知れない。


 8 「生きている意味」とは

 では、我々人間が「生きている意味」とはなんなのだろうか?何のために生きているのだろうかと問いたくなるのは自然な流れである。

 しかし、この問いに答えはない。先にも触れたように、人間はある時、望む望まないに関わらず、突然この世に生を受け、やがて誰もが例外なく死を迎える。

 この偶然に与えられた生に、意味などないのだ。

  肝心なのは、誕生から死を迎えるまでの、与えられた時間を「どのように生きるか」ということである。その与えられた時間の長さは人によって異なる。明日、あるいは今すぐに死が訪れるかも知れないのだ。

 その意味では、「一日一生」の心構えが大切なのだ。

「どのように生きるか」は、各自の価値観によって設計されるものである。どんなことに価値があるのかを見いだし、その価値を追求するために限られた時間を有効に活用するのが賢い生き方であろうが、路傍の草花のように、なにも考えず、なにも求めないでボンヤリ生きるのも選択肢の一つであろう。


 9 本能ということ

 前述したように、人間は宇宙の自然の法則の中で生きている。いやでもその法則に沿って考え、行動するように出来ているのだ。

 その法則の中に、「本能」というものがある。それは、ザックリと次のように分類できる。

 ①自己生命の保持のために

 ●食欲 ●睡眠欲

 ②種の保存のために

 ●性欲

 ③その他

 ●被承認欲=自己顕示欲 ●物欲 ●支配欲 ●母性愛 ●父性愛


 人間は本能的にこれらの「欲」を満たそうとするように出来ているのだが、仏教では、これら「欲」を煩悩として、それから解放されることを善とする。だが、果たしてそのような、本能を滅却して死んだように生きることが最良の生き方であろうか。

 それは、苦から逃れることを最優先させる、ある意味後ろ向きな生き方ではあるまいか。

「欲」に振り回される生き方は良しとしないまでも、それを適度に制御しつつ、「欲」に逆らわないで生きる生き方が「幸せ」を享受出来る方法ではあるまいか。もちろん、「制御」することには困難が伴うが、果敢に挑むべきであろう。たった一度の人生なのだから。


 10 自殺ということ

 人間はいかなる状況の中で「自殺」を選択しようとするのだろう。

 例えば、論理を突き詰めて、「人生は生きるに値しない」という理由で「自殺」を選ぶ者はいないのではないか。人間は、本来的には本能的に「生きたい」と望むように出来ているのではないか。

 ところが、その個の中で、精神のバランスが崩れたとき(実際、このバランスを崩すという状況は誰にも、いつでもその危険性は潜んでいるのだが)「生きたい」という欲求よりも「生きていることが苦しい」という状況に陥るのだ。

 それは、例えば、激しい失恋をした時、あるいは絶望的な孤独に陥った時、望みが打ち砕かれた時、精神の病に蝕まれた時、不治の病に冒されたり時、、、様々な状況が考えられる。

 では、そのような「出口なし」といった状況に陥った時、どうすればそこから脱出出来るのだろう。そんな時は、そこから性急に逃げようとせず、まずは時間が過ぎていくのを「ジッと待つ」ことだ。待つことによって、取り巻く状況や、自らの精神状況も変化していくはずだ。多くの場合は、その「待つ」ことによって事が解決していくだろう。

  また、「待って」も解決する性質のものではない場合、「考え方」の転換を図ることが重要だ。多くを望まないで、残された、与えられた時間と可能性を汲み尽くそうとすることだ。生きているだけでいいのだと達観することだ。



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[良い点] 作者の実感に基づいて、論を立てているところがいいと思いました。 [気になる点] 段落の始まりの1字空けが、後半に実行されていないのが気になりました。
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