彼女は微笑んだ
清水は知っていた。僕がコーヒーの熱さでむせることを、一気飲みすることを予め知っていたのだ。
初めて清水に興味を持ったときのことを思い出す。確か、次のテストの内容を正確に知っていたことが理由だった。
佐藤も言っていたではないか。『何でも、こういうことが起きるだろうからこうしておけとか適当なことを言うって聞いたな』と。そして彼も授業中に当てられるから真面目に受けておけと言われたではないか。
そして、僕が起こそうとしていたストーカー行為を未然に知っていたではないか。
繋がっていく。
モヤが払われたかのように、次々と出てくる思考が仮説が正しいと主張する。荒唐無稽な話かも知れない。だけど、そういう話があることは誰よりも自分が知っていた。
ここまで来たら、これを確信へと昇華させるだけだ。
嘘を引きずり出す。
痛みに備えて、首に右手を当て、清水を見据える。そしてできる限り、冗談に聞こえるように明るい口調で言った。
「いやいや、まるで未来が視えてるんじゃないかと思ったよ」
「ふふ、そんなわけないじゃな……い?……」
刺す感覚有り。
仮説は証明された。清水は『未来が視える』。
しかし、それに驚く前に清水の反応が気になった。目を見開き、こちらを凝視している。明らかに動揺していた。
「どうした、清水?」
「へあ!? だ、大丈夫、だいじょうびゅだよ!?」
清水は何の脈絡もなく顔を真っ赤にし、手をぶんぶん振りながら言った。どこから見ても大丈夫そうに見えない。というか急にどうしたのだろうか。あまりにも突然のことすぎてわからない。
耳まで赤くした彼女は視線を落とした。その俯く様子を少し可愛いとも思ってしまった。
ふと気づく。もしかして、何かを視たのだろうか?
今日何曜日だっけと聞くような、何気ない調子で聞いた。
「どんな未来を視たんだ?」
「いや、ちょっとこれは言えないというか……へ? えっ!?」
「やっぱし視えるんだな、未来」
未来視とは便利な異能を手に入れたものだ。僕なんて嘘をつかれるたびに痛みが走るせいで、日常生活に影響を及ぼしているというのに。テレビだって字幕じゃないとまともに見れないんだぞ、こっちは。
そこまで考えて、いや違うと思う。彼女は千三つとか卑怯者とか言われていたではないか。それはたぶん、未来に起こることを話していたからだ。彼女の力も便利一辺倒ではない。
「いや、これは、え? 本当なの、これ? あれ? じゃあいつかこうなるの?」
混乱している清水はぶつぶつと呟いている。当たり前だが、未来が視えるといっても全てが視えるわけではないようだ。僕が未来視を見破るのは予想外だったのだろう。嘘を見抜く異能というズルをしたわけだから、それもしょうがないとも思う。
昼も視線が集まることは予想外だったらしいし、結構穴だらけなのかもしれない。
コーヒーを一口飲む。おいしい。やっぱりさっきのはもったいなかった。
量が少ないコーヒをちょびちょび飲みながら、彼女が平静になるのを気長に待つ。先程までは緊張のあまり混乱していたのは自分だということは都合よく忘れることにする。
清水はどこか遠くを視るように心ここにあらずといった様子だったが、しばらくすると据わった目を向けてきた。まだ顔は赤い。そのまま吐き捨てるように言った。
「相川君はむっつりなんですね!」
「待った!! どうしてそうなった!?」
本当に何を視たんだ?
むっつりとか本当にどういうことだ? 僕が、その、変態的行為をしていたというのだろうか?
……嘘だ! あ、でも刺されなかったってことは本気でそう考えてるわけで……勘違いとかそういうのだよね?
「だって! だって……あれは、その……」
声がどんどん小さくなる。目の焦点がまた合っておらず、下がった目線の先の自身のカップを見ていない。
そのまま虚空を見つめていた清水だが、ぽつりと呟くように聞いてきた。
「どうして未来が視えるって思ったの?」
僕は微かに笑う。
ヒントならちりばめられていた。荒唐無稽過ぎる結論だが、それを示唆するだけの要素は多くあった。確信に至るには嘘の異能を使う必要があったが、それでも察しがいい人ならそういう可能性があることくらいわかるだろう。
そもそも秘密にしておくには喋り過ぎだ。
「さすがにあれだけヒントがあったらそう思うさ」
「だよね……普通はそうなるよね」
清水が顔を上げた。僕はその縋るような表情を見て、何か致命的な間違いをしていることに気づく。何なのかはわからない。だけど、根本的なことだ。
「確かに私には未来を視る力があります。受動的ですけどね。自分の意思で視るんじゃなくて、受信するみたいにふっと視えるんです」
静かな口調で、彼女は認めた。その上で、僕の予測していなかった続きを語った。
「その代償、なのかな? 誰も信じてくれないんだ」
「……えっ?」
「言葉通りだよ。私が未来について口に出しても、みんなそれは嘘だって言って信じてくれなくなるんだ」
何だそれは? だってそれは、それはあまりにも酷い代償だ。
「黙っていればいい話だけど、目の前の人が不幸になりますってわかったら、誰だって助けようって思うでしょ? だから私は言ったんだ、そのままだとまずいですよって」
でも駄目だった、と弱弱しく彼女は言った。
「最初は正直変なことを言ってるせいだと思ってた。だってそうだよね。未来がわかるとか、怪しい占い師みたいだもんね。
だけどさ、やっぱ変なんだよ。理屈とかそういうのとか関係ないんだ。何を言っても、それこそあり得る話なのに私が言うと信じてくれない。それどころかみんな私を嘘つき呼ばわりする」
震えていた。目元は潤み、カップをぎゅっとその両手で握りしめていた。
「どうしようもないのか、それ?」
「うん」
「筆談とかそういうのは?」
「駄目だった」
「……諦めることは?」
最低なことを言っている。けれども、それが一番の解決策のようにしか思えなかった。
「何度か考えたなぁ、それ。でも無理だよ」
「どうして?」
「だって私が知っている情報の有無で、困る人がいるってわかってるんだよ? 黙って見過ごすなんて出来ない。例え信じてもらえなくても、言わずにはいられないよ」
「だからってちょっとした不幸まで抱える必要はないだろ」
僕が知る限り、清水は勉強していないところがテストに出るとか授業中に怒られるといったことについて口に出していた。これは別に不幸ではあるかもしれないが、学校ではよくあることだ。見過ごせないというにはいささか小さいように思える。
「そうかもね」
清水は認めた。その上で、自分の思いを語った。
「相川君の言う通りだと思うよ。でもその甘えを許したら、たぶん私の中で一気に不幸の基準が下がっちゃうと思うんだ。それこそ、災害レベルじゃないと言わなくなっちゃう。
けどさ、それって人間としてどうなの? 小さなことかもしれないけど、目の前の人間が不幸になるってわかってて、自分にはそれを解決できるかも知れない手段があって、それでも無視することなんて私、したくないよ」
「でも言ったって変わらないんだろう? なら、どうして……」
「うん。だけどさ、諦めたくなかったんだよ」
今の清水の顔を見ていると、クラスで見た泣きそうな顔を思い出す。それに思わず、心臓が締め付けられる感覚に襲われる。
だって想像しただけでも辛いとわかる。
つまり彼女はずっとその理不尽と戦ってきたのだ。未来で起こることを知っていて、その利益を自分一人で独占していればよかったのに。私とは関係ないって耳をふさぐことができたはずだ。その方がずっと楽だってわかっていたはずだ。
なのに、彼女はそうしなかった。目を背けることを選ばなかった。
逃げちゃえよ。どうせ言ったって信じてもらえないさ。言うだけ無駄だ。止める理由なんて馬鹿みたいに湧き出てくる。その誘惑を、一つ一つ振り払って、彼女は振り払われるその手を伸ばしてきたのだ。
どれだけの人間が真似できるだろうか。
僕に同じことが果たして出来るだろうか。味方のいない独りぼっちの戦いを続けられるだろうか。自分が傷つくとわかっていながら、助けようとそう思えるか。
きっと無理だ。僕なら折れてしまう。僕には到底真似できない。
何が便利な異能だ。まるで呪いじゃないか。
僕はこの嘘を見抜く異能を、誰かのために使おうなんて考えなかった。いつだって、自分が気になったことを知るための手段として使っていた。それ以外は痛みを伴う煩わしいものでしかなかった。
この力を使って、誰かを救うことだってできたはずなのにだ。
例えば、悩んでいる人の相談に乗ってあげて、その人の本心を知ることができただろう。
例えば、騙されそうになっている人を助けることができただろう。
そんなこと考えもしなかった。
敵わないと思った。同時に清水は強い人だとも。尊敬すると思えたのは初めてかもしれない。
だから僕は、ぎゅっと拳を膝の上で握り、覚悟を決めた。確かに、僕は今までこの異能を誰かのために使おうとは思わなかった。だけど、これから先もそうである必要はない。
まずはここからだ。
「清水」
「何?」
「僕はさ、───」
自然と言おうと思った。勢いなのかもしれない。もう一度、冷静になって考えたら弱気な違う結論、すなわち黙るという未来を選択するかもしれない。けれども、そんな未来クソくらえと高らかに叫んでやる。
だって、こんなにも僕は彼女の助けになりたいと思っている。理由はそれだけで十分だった。
「嘘を見抜く変わった力があるんだ」
「……えっ?」
見開かれた清水の目を真っ直ぐに見つめる。涙を堪えていたせいで、潤んでいた。
「実際に清水の話を聞いて、怒ってないだろ? あれは嘘をついてないって僕にはわかるからだと思う。だから大丈夫。僕は清水を信じるよ」
すぐには信じてくれないかもしれない。
それでも、清水の瞳から、涙が零れ落ちた。
「本当なの?」
「うん、約束する」
「……嘘だよ、ね? そんな都合のいい話があるはずないもの」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ、明日佐藤君が消しゴムを忘れるって言ったら?」
「筆箱に消しゴムを一個多く入れておくよ」
「間宮君が将来クラスの子と結婚するって言ったら?」
「今のうちからネタ集めて弄ってやる」
「佐藤君が体育で骨折するって言ったら?」
「ちなみにどういう状況?」
「サッカーボールの上に乗ってバランスを取る遊びをするんだけど、落っこちるの」
「馬鹿だな。わかった、見かけたら止めておく」
「次の遠藤先生の授業で相川君が当てられるって言ったら?」
「大変だ。集中しておかないとね」
「……佐藤君がその時は珍しく起きてるんだよって言ったら?」
「それ嘘だろ」
「うん、寝てる。……私が、相川君と歩いているのを視たって言ったら?」
「こう、言うのは恥ずかしいけど……嬉しいよ」
「……うん。そっか、信じてくれるんだ。そっか……」
彼女は、本当に嬉しそうに笑いながら泣いていた。その笑顔を見て、僕も一緒に笑った。
コーヒーを一口飲む。冷めていてもおいしかった。
清水が落ち着くと、先ほどうやむやにしてしまった話を掘り返す。誤魔化してしまえば、今後の信頼関係に悪影響を及ぼすかもしれない。とはいえ僕らは互いに秘密を共有した理解者だ。今は気楽に話せる。
さっきまでは自分でも理由がわからなかったのに、今はすらすらと言えた。
「僕が話しかけようって思ったのは、清水がみんなから異様に嫌われていたからだよ。千三つなんて言われているのに、テスト問題は正確に教えているしね」
「昨日のテスト?」
「それ」
今思うと、皆が不自然なまでに清水のことを悪く思っていたのは、異能の代償が原因だったのだろう。彼女が間違っていることにするためだけに、支離滅裂な論理が正しいとされるのだから、迷惑な話だ。
「ねえ、嘘がわかるってどんな感じなの?」
「首筋を針で刺される感覚」
「えっ!? ちょっ、それ大丈夫なの?」
「痛い。だからあまり嘘は言わないように」
「うん、了解」
一気に打ち解けた気がする。
僕らは二人とも異能に振り回されるという同じ経験をしている。僕にしてみれば、彼女の方が大変な代償を抱えていると思うのだが、それでも同族意識は感じる。ヘンテコな力を持っているのは自分だけじゃない、仲間がいる、という安心感がある。
さてと、そう言いながら清水は外に視線を向けた。それにつられて外を見ると、空は赤く染まり始めていた。
「あまり帰りが遅いと怒られる未来が視えたから、このあたりでお開きとしますか」
「了解。やっぱり娘の帰りが遅いと心配するんだな」
異能の影響もあっただろうに、清水の親は彼女をちゃんと愛しているようだ。全くの一人ぼっちではなかったことに少し安心する。自分しか頼る相手はいないとも思っていたので、ちょっと嫉妬してしまうけど。我ながら小さい。
「うん。あっ! 言っておくけど、相川君の親はもう心配してるよ? このままだと電話がもうそろそろかかってくるからね」
「あー、そういえば連絡してなかったな」
スマホを取り出し、今から帰ると連絡する。清水もまた、自分のスマホを取り出していた。彼女はそれを軽く振った。
「連絡先、交換しようか」
「いいよ」
簡単な操作で、連絡欄に清水の名前が加わった。
女性の連絡先なんて母親以外なら初めてかもしれない。ちょっと感慨深く、スマホの画面を眺める。
ふと、清水がにこにこしながら見ていることに気づいた。そのことに気づいた彼女は、恥ずかしそうに頬を赤らめ、言い訳のように言った。
「当たり前のように信じてくれることが嬉しかっただけ」
「まあ約束だってしたしね」
なんだかこっちも恥ずかしくなってきた。
「だからどんどん頼ってくれていいから。清水が言ったら信じてもらえないことも、僕が代わりに言うなり説得するなりしたら信じてもらえるかもしれないし。……実際そのあたりは視えてない?」
「うん。今視えているのは……あっ」
清水の目が揺れた。顔はさらに赤くなる。
「何が視えたんだ?」
「えっと、その……私の未来というかなんというか……」
「清水の? ならそこから推測できないかな? 笑ってたらうまくいってるかもしれない」
「し、幸せそうだったよ……おかげさまで」
しどろもどろになりながら清水は言った。
しかしそれにしては嬉しそうというよりは恥ずかしがっているように見える。首をかしげるも、幸せそうならいいかと思う。
「ならうまくいく可能性が高いな。よかった」
素直に彼女が幸福になることを想像したからか、笑顔で僕は言った。
清水も頬を緩めた。窓から刺す夕焼けの日差しの中、彼女は微笑んだ。それは教室で初めて見た儚い姿とは程遠く、
「そうだね……ありがとう」
「あっ……」
とろけるような笑顔だった。可愛いと素直に思う。思わず心臓がきゅっとなった。胸の内でスコンと何かが落ちた気がする。
同時に脳裏で佐藤の言葉が蘇る。
『やっぱし好きなの?』
佐藤のくせに、ちくしょう。否定できない。体が、特に顔が熱い。もしもここが自分の部屋だったら、こう、うわーと意味もないことを叫びながら転げまわりたい。
必死に胸の内から込み上げてくる”何か”を抑えつける。認める、認めるから今はまだ大人しくしていてくれと自分に言い聞かせる。
清水も林檎のように赤い顔を隠すように、俯いた。その上で、ちらっと伏し目がちに僕を見た。
一瞬目が合い、心臓が跳ね、息を呑んだ。反射的に目を逸らす。
「あ、あのさ! その……駅まで、送るよ」
「う、うん。よろしく……お願いします」
顔を直視できない。あの笑顔は、あの目は、駄目だ。卑怯すぎる。
胸一杯に広がる甘くて熱い感情を持て余しつつ、僕は席を立った。