(5)
『七百と九年ぶりだ、人の王よ』
倒すべき邪神の化身であり、自分たちが蒼き魔獣と呼んでいた聖獣が、再び現れた。
炎に包まれる王宮と愕然とする王の姿は、前回と似通っていたが、状況が違う。
人々はようやく理解した。
何もかもが、食い違っていたことを。
無理だと思った。
あのような境遇に追いやられた幼い王女が、この国を、自分たちを救ってくれるはずがないと。
恨み、憎んでいるはずだと。
場面が切り替わる。
出窓のところに、小柄な少年があぐらをかいて座っていた。コートとゴーグル、そして緑色の首輪を身につけている。出窓の前に置かれた椅子に、仮面をつけた王女が座っていた。膝の上に本を乗せ、身振り手振りをまじえながら、楽しそうに話をしている。
その様子をただ呆然と、人々は見ていた。
王女と少年の邂逅は、しかし終わりを告げた。
馬車に乗った王女が、窓から身を乗り出すようにして、少年の名を叫んでいる。後方の城壁の上、少年があぐらをかいて、少し寂しそうに馬車を見送っていた。
場面が切り替わる。
執務室らしき場所に、年老いた男がいた。
『これが、じいの残した』
震える手をのばす。
ラモン王だった。
十年前の姿と比べると、あまりの変わりようだった。髪は白くなり、しわがふえ、痩せこけている。何よりも、自信と覇気に満ちていたはずの表情が消え失せていた。
それはただの、怯える老人に見えた。
『はい。ホゥ老師が残された計画書です』
王に紙の束を渡したのは、口元にしまりのない笑みを浮かべた中年の男だった。黒色の首輪を身につけている。
王都にいた者は、その顔を知っていた。
この国を救うために結成された勇者隊を率いる男で、名をオズマという。
『こ、この通りにことを進めれば、この国は、救われるのか? 予は、許されるのか?』
『もちろんでございます。陛下』
『おお、そうか、そうか。さすがはじいだ。じいはいつも予を助けてくれる。どんなに追い詰められた時でも、必勝の策を授けてくれる』
『まったくもって、その通りです』
にこにこと微笑みながら、オズマは説明した。
王女の護衛役は黒首隊が努めること。ただし、魔獣の被害が少ないカロンの街までは、近衛隊も同行する。
『魔獣との戦いを避けながら“果ての祭壇”に向かうには、隠密行動が得意な黒首隊が適任という、老師の判断です』
ラモン王は熱心に頷いた。
王女への説明は最低限にとどめる。自分が犠牲となることでこの国が救われることを幼い王女が知れば、同行を拒絶される可能性があるからだ。
ゆえに、有無を言わさず認めさせる。
『謁見の間にて、陛下より勅命をいただきます。事前に、女官長が王女殿下を説得いたしますので、ご心配なく』
『う、うむ』
最後に。国の命運を賭けた旅であるからには、すべての都市と臣民らの協力が必要となると、オズマは主張した。
だが、黒首隊の名では吸引力に欠ける。
『そこで、我々は勇者隊を名乗ることとします。出発前に、王女殿下とともに盛大なお披露目の儀を執り行えば、誰もが納得し、喝采を上げて応援することでしょう。あ、勇者隊という名前だけは、私のアイディアでして』
『好きにするがよい』
ろくに読むこともせず、ラモン王は計画書に署名した。
「あらあら」
この場面を見て呆れたのは、アルシェの街の外壁の上にいたパウルンである。
「これじゃあ、あたしたち。間抜けな悪の親玉の、手下じゃない」
「けっ」
隣に座り込んでいたバッツが、そっぽを向く。
「是非もなし」
上空を見上げながら、フウリが呟いた。
街の周囲を偵察しているテンクの動きに乱れが生じたのも、おそらく同じ場面を見ているからだろう。
その後、光る窓には、女官長に連れられて王女が謁見の間へ向かう様子が映し出された。
『あなたさまは、ただ“はい”と返事をすればよいのです。疑問に思っても、問い返してはなりません。ましてや陛下のご命令を拒否するなど、もってのほか。よろしゅうございますね?』
説得とは名ばかりの、強制。
謁見の間に入ると、大勢の大人たちが仮面の少女を見てざわめいた。その様子は、まるで見世物小屋に出てきた珍獣を観察しているかのようだった。
王が仮面を外すよう命じ、少女の素顔が露わになる。
緊張と不安のためか、青ざめ、震えていた。
『これより遥か北方、“荒野”の中のもっとも深き場所にあるという“果ての祭壇”へと赴き、蒼き魔獣を討伐せよ』
老いた王の顔にも、焦りと不安が見てとれた。
『みごとこの試練を果たしたあかつきには、真名を使うことを許し、そなたを王家の一員として認めよう。よいな?』
女官長に言われた通り、少女は掠れるような声で「はい」と返事をすると、頭を垂れた。
◇
数字が消えた。
光る窓は豪奢な寝室を映し出していた。ベッドの上で、老人が四つん這いになり、こちらを凝視している。
さらに痩せ衰えた姿のラモン王だった。
『わたくしめは、知らなかったのです! 初めから知っておれば、このような事態には――』
『勘違いをするな、人の王よ』
女神の声が、王の言葉を遮った。
『人が“盟約”を忘れたことなど、妾には関係のないこと。別に怒ってはおらぬ』
光る窓には王の姿しか映っていない。
『ま、まことにございますか、女神さま』
『無論じゃ』
『ははっ』
王はこちらに向かって平伏した。
いや、そうではない。おそらく、王の眼前にある光の窓には、女神の姿が映っているのだろう。
この場面は、過去の歴史を映し出したものではない。
いま現在の、王の姿なのだ。
『そもそも、そなたら王家に妾の血を与えたのも、ほんの気まぐれゆえ。人が滅びようと助かろうと、それは人の運命というもの。そうではないか?』
『おっしゃる、通りで』
『じゃがの』
女神の声が、少し尖った。
『妾の血を宿した娘だけは、別じゃ。王家の娘として生まれ落ちたというただそれだけの理由で、自らの身命を投げ打ち、同胞らを救う。そのような気高き娘を、妾は愛おしく思う』
王はびくりと硬直した。
『妾の娘に対する扱い。こればかりは、知る知らぬの問題では済まぬぞ、人の王よ』
がくがくと王は震え出した。それはまるで、これから裁きを待つ罪人のような姿だった。
『さて、どうするか。そうじゃな』
女神の声は、意外なことを口にした。
『そなた。トゥエニティーエに関する一切の権利を放棄する、というのはどうか?』
『……は?』
『言葉通りの意味じゃ。あの娘はそなたの娘ではなく、王家の娘でもない。ただの人の子。代わりに、妾が母として面倒をみよう。この条件をそなたが了承するのであれば』
女神の声は、慈愛に満ちていた。
『妾は、そなたを許すこととしよう。そして、今後いっさい関知せぬ。人の国で、好きに生きるがよい』
王の震えが止まり、気の抜けたような顔になった。
『ふむ、気にいらぬか?』
『い、いえ!』
王は弾かれるように反応し、再び平伏した。
『とんでもございませぬ。喜んで、我が娘を差し上げまする』
『あい分かった。では、そなたを許そう』
王は気づいていない。保身のために娘を売り渡し、心から安堵する姿を、この国で生き残った人々が見ていることを。
『ありがたき、幸せ』
『礼には及ばぬ。さすがに子の親を無視して、式を進めるわけにはいかぬからな』
『は?』
『気にするな。切るぞ』
◇
その後、光る窓に映ったのは、試練の旅の様子だった。
序盤は勇者隊と近衛隊を含めた比較的安全な行程。王都近郊の街にたどり着くと、住民たちが歓声を上げて出迎える。
中盤、カロンの街からは、勇者隊のみとなる。
魔獣を避け、あるいは戦いながら、北の方向へと向かっていく。バッツが形作った不恰好な猫の家を見た時には、苦笑する者もいた。目無蛇に襲われ馬車が横転した時は、皆が悲鳴を上げた。
馬車を失いたどり着いた場所は、白亜の城。
少年の姿を思い起こすような少女の仕草には、誰もが胸を打たれた。
そして、怪しげな光を放つランタンを持ったオズマの、奇妙な言動。
『これは、あれじゃな。魔の力で、相手の精神を操ろうとしておるな』
時おり女神の解説が入ったりもする。
『無駄なことを。妾の血が許さぬ』
少女の額の紋様が強く光り輝き、ランタンの炎がかき消えた。
人々はほっと胸を撫で下ろした。
一行はアルシェの街にたどり着く。すでに陥落したと思われていた最北の街だ。
パレードの中で必死に少年の姿を探す少女。そして夜になり、怪しげな黒づくめの男たちが、少女の寝室に忍び込む。人々ははらはらしながら見守っていたが、少女が少年を見つけて抱きつくと、歓声を上げた。
その直後。
勇者隊との対立と、予想外の決着。
『ほれ、さっさと攫ってしまわぬか』
しかし少年は、きちんと相手の意志を確認してから、少女の望みを叶えるのであった。
黒づくめの男たちは、メイル教団の生き残りだった。五人しかおらず、年寄りばかりの騎士に、人々は不安を隠せなかったが、ようやく本来の体制を取り戻したのだ。
“荒野”の旅は比較的順調だったものの、目的地である“果ての祭壇”で事件が起きた。
『何を油断しておる!』
女神が憤ったのは、聖獣の呑気な対応だった。
『こやつ、寝ぼけておるのか?』
オズマが不定型の粘体に変化し、聖獣を包み込む。
『妾の眷属ともあろうものが、魔の力ごときに屈するとは。これはお仕置きじゃな』
“大穴”の底にいるフニャピッピが「ふにゃ!」と悲鳴を上げたかどうかは定かではない。
その後は少年と少女、そして子猫のような姿になった聖獣だけの旅。見知らぬ景色や呆れるほど巨大な魔獣たちに、人々は心を奪われた。
『この窪地には、邪悪な魔気が溜まっておる。妾の力がなければ、長くは耐えられぬぞ』
女神の予想通り、少年が倒れ、少女が背負って目的地へと向かう。
『……うっ』
急に女神の声が聞こえなくなった。
たどり着いたのは、銀色の大樹が佇む美しい泉。
『よく、頑張ったの。妾の娘よ』
明らかに、泣き声である。
銀色の大樹のうろから現れたのは、光り輝く六人の女性。彼女たちの姿を、もちろん人々は覚えていた。
『地上界での身体は失ったが、魂は救い出した。妾の自慢の娘たちじゃ』
少年と少女には、悲しい別れの運命が待っているはずだった。オフィリア姫と勇者マルテウスのように。
実際、銀色の大樹の下で、少女は別れを告げようとした。
その直後、少年が苦しみの声を漏らした。
『おい、どうした。負けるな。頑張れ!』
常識的に考えれば、別れを受け入れて終わるはず。
だが少年は、諦めなかった。
『……よい、のぅ』
しみじみとした呟きとともに、光り輝く女神の姿が写し出された。
『さて、物語はここでしまいじゃ。このあとふたりは、そなたらが邪神と呼ぶ存在と立ち向かい、これを倒した。いずれ魔気も消え去り、魔獣らも生まれなくなるであろう。人よ、喜ぶがよい。そなたらは救われたのだ』
やや強引な幕引きに、いまいち実感に欠けると思った人々は、次の瞬間、耳を疑うような言葉を聞いた。
『だが、そんなことよりも』
女神は決して、人のための存在などではない。
『妾は約束した。人の子ルォと、我が娘トゥエニティーエの、婚姻の儀を執り行うことを。ふたりとよい縁を持つ者は、特別に招待してやろう。さあ、盛大に祝おうではないか!』
女神は胸の前で両手を合わせると、人の耳では決して聞き取れない複雑な言葉を紡いだ。




