(3)
アルシェの街の命運は、風前の灯火だった。
結界が解かれてから数日もしないうちに魔獣たちに囲まれ、昼夜を問わない攻城戦が続いた。
とても長期間の籠城は耐えられないと思われたが、星姫の“祝福”を受けた星守の騎士と、勇者隊を名乗っていた元黒首隊の魔法使いたちが帰還してからは、一時的に魔獣を追い返すことができた。
しかし、それにも限界があった。
ひと月以上が経過したが、状況は変わらないまま。街を取り囲む魔獣の数は減る気配を見せない。
騎士も魔法使いも、街警備隊も義勇兵も、誰もが傷つき、疲れ果てていた。
もはや抵抗する気力さえ失われたころ、異変が起きた。
発音は不明だが、女性の声が響き渡った直後、魔獣たちの動きが止まったのである。
「いまだ!」
「ふんがぁああ!」
北門の真上。ガンギとパウルンが外壁の一部を落とし、やっかいな鉄喰百足を押し潰した。
出入り口が塞がってしまったが、北門を使うことはない。
「どうしたのかしら?」
「分からん」
一時的な静寂かと身構える。予想外の事態が起きた。魔獣たちが方角を確認するかのように周囲を見渡すと、ぞろぞろと群れをなして、北の方角へ移動し始めたのだ。
「油断するな!」
ガンギの声に応えるものはいなかった。やっとのことで茶毒椿象を追い払った街警隊たちが、崩れ落ちるようにへたり込む。
「ガンギさん!」
報告を受け、四人の大男が担ぐ輿に乗ったマァサが、現場に駆けつけた。
「ほ、補佐殿。ここは危険です」
「あら、マァサ先生」
不慣れながらも的確な指示で、数えきれないほどの窮地を救ってきた司令官補佐のマァサは、現場の者たちから救世主として崇められていた。輿と担ぎ手も譲られ、実質的な立場はすでにノランチョよりも上である。
「現状は?」
「不明です」
端的なガンギの報告を受け、マァサは魔獣たちの様子をじっと観察した。だが明晰な彼女をもってしても、事態を把握することはできなかったようだ。
藁にも縋る思いで、パウルンが聞いた。
「あの子たちが、目的地にたどり着いたのかしら?」
「当時の記録に、このような現象は記されておりません。星姫が試練を果たしたのち、魔獣たちの凶暴性が薄れたとはありましたが」
邪神が眠りについた後も、数年間は魔獣たちとの戦いが続いたのだという。
「ですが、悪い兆候ではないようです。バッツさんを呼んでください。いくつか城壁を修復したい場所がありますので。それから、テンクさんに上空から偵察を――」
結果的にマァサの指示は無用のものとなった。
突然、上空に光り輝く四角い窓のようなものが現れ、その中に光り輝く女性の姿が映し出されたのである。
『人よ。愚かなる人よ。勇敢なるふたりの子を讃えよ。かつてその身を犠牲にしてそなたらを救った、強き姫らを讃えよ!』
このような奇跡を起こせる存在は、神以外に考えられない。
そう考えたマァサは自然と膝をつき、首を垂れた。
おそらくトゥエニ王女が試練を果たしたのだろう。その結末は、彼女の心を苦しめた。
『我が名は、メイルロード。美と清浄を司る女神である』
『なにこれ。鏡?』
窓の下の方からひょこりと、ルォの顔が現れた。
『あ、だめよ、ルォ』
さらにはトゥエニが現れた。ルォを止めにきたようだが、目の前にあるものが気になる様子で、顔を近づけてくる。
『あ、本当。お顔が映ってる』
後方の女神が苦笑気味に言った。
『そなたら、少しだけ離れておれ。いまより大切な話があるゆえ』
『うん、分かった』
『も、申しわけございません』
驚きが過ぎ去ると、マァサは涙を流した。
騎士たちの報告では、ルォとトゥエニは“果ての祭壇”のさらに先、断崖絶壁の下にある“箱庭”へと向かったという。“荒野”よりも危険な場所であることは明白であり、たとえたどり着いたとしても、悲しい別れが待っているはず。
子供たちを犠牲にして生き延びようとする大人の傲慢さを、マァサは心底恥じていた。しかしいま、元気そうなふたりの姿を見て、心から救われたのである。
「ふたりとも。よくぞ、ご無事で……」
ガンギの腕を、パウルンが肘で小突いた。
ガンギはぴくりと髭を震わせたが、意を結したようにマァサを抱きしめた。
『人よ、安心するがよい。魔獣らによる危険は去った。そなたらは救われたのだ。驚くべきことに、妾との“盟約”によらず、な』
先ほどと打って変わって冷たくなった女神の声は、とても喜んでいるようには思えなかった。
『今回の騒動に限り、何故このような危機に陥ったのか。その理由を、そなたらは何も知らぬであろう。面倒なことじゃが、大地に刻まれた記憶の年輪を見せてやろう』
女神の姿が消えた。
光り輝く窓に、文字が映し出される。
それはゼロという数字だった。
マイナス一、マイナス二、マイナス三……。
数字が変わっていく。
最初はゆっくり、そしてしだいに早く。
マイナス四千三百五十三という中途半端な値で数字が止まると、別の風景が映し出された。
◇
時刻は夜。場所はどこかの崖地。
満天の星空に向かって、ひとりの男が必死に何かを訴えかけている。
『我はここより南の地を統一した、最初の王である。天空の城に住まいし偉大なる神々よ。どうか、我が願いを聞き届けたまえ!』
それは、儀礼用の王冠とマントを身につけた、威厳のある王だった。
王は虚空に向かって事情を説明した。
このところ、獣とは異なる凶悪な魔獣が現れ、国の民が危険に晒されている。魔獣の数は増える一方であり、このままでは百年ともたず、人もろとも国が滅びてしまうだろう。
呪い師によれば、はるか北方にある深き穴の底に、すべての原因があるのだという。ゆえに、勇敢な戦士たちを引き連れ、決死の覚悟でここまでやってきた。
だが、ここにきて分かった。
人の力では、この先には進めない。
『神よ! もし我の声が届いているのであれば。我ら人を哀れに思ってくれるのであれば。どうか、どうか慈悲を与えて欲しい。犠牲が必要というのであれば、我が命でも、どんなものでも捧げよう!』
王の声に応えるかのように、天空からひと筋の光が差し込み、そこに光り輝く女神が現れた。
『我が名は、メイルロード。美と清浄を司る女神である』
跪く王に、女神は言った。
この先にある“大穴”の底には、邪神と化した神がいる。その者が放つ魔気が“大穴”より溢れ、獣を魔獣に変えているのだと。
ではどうすればと問いかける王に、女神は言った。
『妾にできることは、そなたに眠りの法術を授けることくらいじゃ。そうさの、ざっと数百年間は、あやつを眠らせることができるであろうか』
王は確認した。
邪神のもとへ赴き、その法術を使えばよいのかと。
『彼の地は魔気が濃い。近寄っただけで、そなたは死ぬであろうな』
女神は少し考え込むそぶりを見せた。
『では、そなたに法術をかけた妾の血を授けよう。彼の邪神は、妾に執着しておる。妾の血を宿した者がその身を晒せば、たとえ死体であったとしても飛びついてくるであろう』
王は頷き、問いかけた。
どのようにして、“大穴”の底へ行けばよいのかと。
『案内役として、妾の眷属たる聖獣を遣わそう』
女神のすぐそばに風と炎が渦巻き、小さな獣が現れた。青い毛並みと角と羽根を持つ、それは子猫のような獣だった。目を閉じて眠っているようだ。
王は、問いかけた。
数百年後、再び邪神が目覚めた時にはどうすればよいのかと。
『妙なことを言う。百年と経たぬうちに、そなたの身は滅するであろうに』
王は答えた。
自分は人の王。国の民だけでなく、彼らの子孫をも守る責任があるのだと。
『では、妾の血は王家に宿すこととしよう。そなたの国が滅んだとしても、新たなる国が興り、新たなる王が生まれたならば、妾の血はその王家に移り、宿り続ける』
王は女神に感謝し、深く首を垂れた。
『早まるでないぞ。妾の法術を使うことができるのは、清らかな心を持つ乙女のみ』
初めて王が動揺した。
『つまりは、これから生まれてくるそなたの娘じゃな』
王が娘を犠牲にするのであれば、邪神を眠らせ、国は数百年の安息を得ることができるというのだ。
しばしの逡巡ののち、王は了承した。
『“盟約”は、いま結ばれた!』
女神が両手を広げると、眩しい光が放たれた。
『聖獣が成長したのち、そなたの娘を迎えにやろう。それまでは健やかに、大切に育てるがよい』
再び数字が現れ、変化する。
今度は二十増えて、マイナス四千三百三十三。
場面は、本棚に囲まれた資料室のような部屋だった。テーブルを挟んで、白衣を着た若い女性と、先ほどよりも歳を重ねた王が座っている。
『すまない、ソルシエ』
『何も謝ることなどありませんよ、父上。生まれてからこのかた、好きなことばかりやらせてもらいましたから。それより、これからのことです。法術の研究も、ようやく成果を結び始めました』
『お前の研究チームは、独立させようと思う』
『独立?』
『そうだ。国の寿命など、たかだか数百年。だが、たとえ国が滅んだとしても、宗教は残るであろう。ゆえに、メイル教を国教とし、新たに設立したメイル教団にて、“盟約”に関する管理を行わせるつもりだ。法術の研究を含めてな』
『なるほど』
白衣の女性は頷いて、ひとつ息をついた。
『ならば、後事は。すべて父上に託します』
『すまない。本当に、すまない』
顔に手を当て泣き崩れる王を前に、女性もまた唇を震わせたが、涙を流すことはなかった。
『使者たる聖獣さまを待たせるわけにはいきません。お別れは、ここで』
このように弱った王の姿を家臣に見せるわけにはいかない。泣きながら、王は何度も何度も頷いた。
場面は屋外に切り替わった。
石畳の上に、巨大な獣が伏せている。
青色の毛並み、乳白色の角、そして巨大な猛禽類の羽。大きさは人十倍はあるだろうか。それは立派な獅子のような獣だった。
獣の周囲を、兵士たちが恐る恐るといった様子で取り囲んでいる。その兵士らが二手に分かれ、先ほどの白衣の女性がやってきた。
青毛の獣が頭を上げる。
『きたか、“女神の血”よ』
白衣の女性は目を丸くした。
『今回に限り、私がお前を“大穴”の底まで運んでやろう』
『では、次回は?』
『“盟約”が交わされた場所。“大穴”の縁までは、自力でたどり着くことだ。このていどの試練を果たせぬ者に、救いなど与えられない。それが女神さまの思し召しである』
『なるほど。しかし、素晴らしい毛並みですね。少しだけ、サンプルをいただいてもよろしいでしょうか』
『だめにゃ――いや、だめだ』
『聖獣というからには、素晴らしい能力をお持ちのはず。少しだけ、ここで使ってもらっては』
『早く背に乗れ。飛ぶぞ!』
再び数字が現れ、動き出す。
◇
大きく値が増えて、マイナス三千五百二十。
豪奢なドレス姿の、若く美しく、そして威厳のある王女がいた。その額には、奇妙な紋様があった。
『何の心配もいりませんわ。父上さま、母上さま』
立派な門の前。
悲しみに沈む年老いた王と王妃を目に、王女は毅然とした態度で宣言した。
『八百年前とは違います。メイル教団の三星司によって、すべての準備が整っておりますから。わたくしの代で、人の歴史を途絶えさせるわけにはまいりません。そう、これは悲劇ではなく、希望の光なのですわ!』
門が開かれる。
外で控えていた聖職者とともに、馬車までの道を歩く。絢爛豪華な馬車を護衛するのは、数百名の騎士たち。
『この旅は、決して失敗の許されぬ“試練の旅”。皆さまの奮闘を期待いたしますわ!』
一糸乱れぬ最上位の敬礼をもって、騎士たちが応えた。
馬車が大通りを、ゆっくりと走る。沿道には多くの人々がひしめき合い、王女の名を叫び、歓声を上げていた。
『ベンジャスさまぁああっ!』
『偉大なる星姫さま!』
『救いを!』
『我らに救いを!』
馬車の中で完璧な笑顔を見せ、優雅に手を振って群衆に応えながらも、王女はひとり冷たい声で呟く。
『たぶん、わたくしは。幸せなのでしょうね』
再び数字が現れ、動き出す。
◇
マイナス二千八百十七。
薄明かりが寝室を照らしている。
ベッドの上。寝ているのは、額に紋様を持つふわりとした巻き髪の女性と、彼女を挟み込むようにして、幼い子供がふたり。
『セト姉さま』
女性に抱きつきながら、片方の子供が聞く。
『お嫁に、いっちゃうの?』
『お嫁?』
『だって。明日、お別れだって。うっ』
たまらず泣き出した子供に、もう片方の子供が、こちらも泣き出しそうな声で指摘した。
『ばかっ。セト姉さまは旅に出るのって、お母さまがいってたでしょ。はての、さいだんってところに。たいへんな、旅だって。ふ――うぇ』
『ふたりとも』
泣きじゃくる子供たちの頭を、女性は優しく撫でた。
『いつも。いつまでも、仲よくしてね。そうしたら、寂しくなんかない。わたしも、嬉しいわ』
『……帰ってくる?』
冷たい事実か、幼い子供をとりあえず安心させることか。突きつけられたふたつの命題に、女性は迷うことはなかった。
『そうね。ふたりが、もっと大きくなったら』
『ほんとう?』
『帰ってくる?』
『ええ。その時は、いっぱいお菓子を作ってあげるわ』
『ほんとう?』
『ぜったいだよ!』
『だから、きらいな野菜もちゃんと食べて、大きくなってね。約束よ?』
『うっ』
『わ、わかった』
数字が現れ、値が増えていく。
◇
マイナス二千二百十五。
大広間にある玉座に、ひとりの王が座っている。だが、側に控えるものも、彼を守る者もいない。
そこに、凛々しい男装の女性が、数人の聖職者を引き連れてやってきた。その額には、やはり紋様がある。
『父上』
『おお、アロマか』
王は無理やり笑って見せた。
『戦勝報告はまだか? 何故かここには、誰もおらぬ。これはあれだな、余興であろう? 皆で予を驚かせようとしているのだな?』
生真面目な表情と口調で、男装の女性は報告した。
『我が軍は、敗れました』
なかば予想していたように、玉座で王はうな垂れた。
『祝福聖騎士団は?』
『全滅です』
『精鋭魔法使い部隊は?』
『全滅です』
『義勇隊は?』
男装の女性はきっぱりと言い切った。
『“荒野”に向かった我が軍は、飛空隊のひとりを除いて、全滅しました。これより、次なる作戦に移ります』
『作戦?』
不思議そうに王は問いかけた。
『次なる作戦とは、なにか?』
『本来の道に戻るのですよ、父上』
男装の女性は説明した。
確かに“荒野”にいる魔獣や獣を殲滅することができれば、たとえ邪神が目覚めようとも、“紅き大波”の影響はなくなる。だがそれは、人の傲慢というもの。
結果は、すでに確定した。
『こちらに控えているのは、メイル教団の保守派。星守に属する者たちです』
『保守派……』
『かつて父上が追放された者たちを、私が匿っておりました。処罰は、のちほど』
『いや、よい』
そのような事態は起こり得ぬことを、双方が知っていた。
『ゆくのか、アロマよ』
『はい、行きます、父上。星詠の予言した日には、まだ間に合いますから』
親子の別れは、娘が一礼しただけの、そっけないものだった。
だが、ひとりきりとなった王は、よろけるように玉座から降りると、絨毯の上に四肢をついて慟哭した。
『アロマ。アロマよ。こんな宿命は、間違っておる。間違っておるのだ。我が子を犠牲にして生き延びる親など、どこにもおらぬ。歴代の王らも、さぞや……。だからせめて、予の代で……』
数字が現れ、動き出す。
◇
マイナス千五百八十四。
『し、死にたく、ないぃいいっ!』
額に紋様を持つ少女が、ベッドの上で暴れている。
周囲には、神妙な顔つきの侍女たちが控えていた。奇妙なことに、彼女たちは丈の長い外套に身を包んでいた。
一番年配の女性が、そっけない声で宥める。
『ひいさま、落ち着いてください』
号泣しながら、少女が喚いた。
『あたし、まだ十三歳よ。もっと面白い本だって読みたいし、恋だってしてみたい。伝承では、二十歳くらいまでは大丈夫だって聞いてたのに。あんまりだわ!』
『こればかりは、相手がいることですので』
妙に達観した様子の年配の侍女を、少女は責めた。
『あなたなんかに、何がわかるのよっ!』
『分かりますとも』
『え?』
年配の侍女は外套を脱ぎ去った。現れたのは侍女服ではなく、勇ましい鎖帷子だった。
『わたくしも、“試練の旅”のお供をいたしますゆえ』
『え? なに言ってるの』
『むろん、最後までです』
『あ、あなた。もうすぐ孫が生まれるって。珍しく嬉しそうに話してたじゃない』
『わたくしがいなくとも、孫は生まれます。それに、我々ひいさま付きの侍女は、最初から覚悟しておりますゆえ』
年配の侍女に促されて、他の侍女たちも外套を脱いだ。
やはり、全員が鎖帷子を身につけていた。
少女は慌てた。
『ちょ、ちょっと、あなた。子供産んで復帰したばかりでしょ?』
『夫にも、子供にも。すでに別れは済ませております』
『あ、あなた。確か、故郷の田舎に、恋人がいるって』
『手紙を出しました。私のことは忘れてくださいと』
混乱する少女に、さらなる追い討ちがかけられた。
『ミルディよ。話は聞いたぞ』
『へ、陛下』
勇ましい侍女部隊が道を開け、かしこまる。
『楽にせよ。大事の前であるからな』
部屋の中に入ってきたのは、金属製の胸当てと豪奢なマントを身につけた小柄な王と、全身甲冑姿の背の高い騎士だった。
『お父さま。そのお姿は』
小柄な王は、得意気に笑った。
『かわいいお前を、決してひとりにはせぬ。“試練の旅”には、わしも同行するぞ。お前と同じ年頃の公子らにも、召集をかけておいた。ざっと百人は集まるだろうか』
『そ、そんな』
王は青ざめる少女の肩に手を置いて、頷いた。
『気にするな。本来、星姫たるお前には、これくらいの敬意を払って然るべきなのだ。特に、王侯貴族たちはな』
『その通りです!』
王と娘の会話に、全身甲冑の騎士が割り込んだ。無礼極まりない行為だが、咎めるものは誰もいない。
『そ、そのお声は、まさか』
甲冑はほっそりしていて、胸の辺りを強調するような意匠が凝らされている。
『お母さまっ!』
甲冑の騎士は腰の剣を引き抜き、天井に掲げた。
『安心なさい、ミル。いざとなれば、この母が邪神とともに刺し違える覚悟っ!』
『おお、后妃よ。相変わらず』
『皇后さまっ』
『なんと凛々しい』
騒がしい部屋の中、ひとり少女はベッドの上に座り込み、俯いていた。
俯きながら、泣いていた。
悲しいのか嬉しいのか、自分でも分かっていないような、そんな泣き方だった。
『やめてっ!』
ベッドの上に立ち上がり、全身全霊で怒りを表す。
『恥ずかしい。あたし、もう十三歳よ! ひとりで、できるんだから』
『ミ、ミルディ』
聞き分けのない子供のように、少女は言い放った。
『あたしは、ひとりでいく。みんながついて来るなら、絶対に、死んでもいかないから!』
◇
マイナス七百九。
王宮が、燃えていた。
『人の王よ。すでに“紅き大波”は始まった』
火の粉が舞う黄昏色の空を背景に、悠然と羽ばたいているのは、青色の毛並みを持つ巨大な聖獣だった。不機嫌そうに見下ろす先には、近衛騎士に囲まれた王が、怯えるように座り込んでいる。
『何も知らぬ愚か者が。素直に“女神の血”を差し出すがよい。滅びたいのであれば、別に構わぬがな』
そう言い残して、聖獣は飛び去っていく。
怒号と悲鳴が飛び交うバルコニーで、王が腰を抜かしたように座り込んでいた。近衛騎士たちが避難するよう促しているが、反応しない。全身を震わせながら、虚空に向かって、ぶつぶつとひと言を呟いている。
『お、お許しください。女神さま。わたくしは、わたくしめは……』
それは、決して許さない罪を犯した咎人が、懺悔するような姿であった。
ふいに場面が変わり、静かになった。
女神の像が見守る神殿に、額に紋様を宿した女性が跪いている。その前には、年老いた女性の聖職者が立っていた。
『よろしいですか、星姫さま。“試練の旅”の出発がこれほど遅れたことは、過去に例がありませぬ』
『は、はい』
老婆の言葉は冷ややかで、棘すらあった。
『本来であれば、アルシェの街にて“紅き大波”に備えるのですが、間に合いませぬ。この場で、あなたさまの封印を解くこととします。すぐさま星守の騎士たちに“祝福”を授け、彼らと共に、一刻も早く“果ての祭壇”へと向かうのです』
『かしこまりました』
再び場面が変わった。
場所は神殿のままだが、先ほどの若い女性が立っていて、その前に多くの騎士たちが跪いている。
女性の額には、紋様がない。
抜き身の剣を両手に持ち、頭上に掲げた騎士が何ごとか呟き、女性もまた呟く。騎士から剣を受け取った女性が、その剣で騎士の肩に触れる。
一連の台詞と動作はひどく事務的なものだった。騎士は数十名ほどもいた。重い剣を動かすだけでも体力が消耗する。女性に疲れが目立ち始めたが、手伝う者は誰もいない。
最後に、ひょろりとした若い騎士が前に進み出た。
『我が名は、マルテウス。偉大なる女神の血、オフィリアートさまに命を捧げる者なり』
女性の表情が、固まった。
『……マル、テウス。どうして』
厳粛な儀式の最中だというのに、思わず呟く。
『ま、魔法使いに。なりました』
『え?』
緊張で身体を強張らせながら、若い騎士が説明した。
『それで、陛下にお願いしたのです。“試練の旅”に同行させて欲しいと』
女性は硬直したまま動かない。
『教団の方にもお願いして。なんとか、条件付きで騎士になることが許されました。その、“祝福”が、ちゃんと授けられたならばと』
後ろに控える騎士たちが、露骨に表情を変えた。それは忌々しそうにも、馬鹿にしているようにも見えた。
腕力が足りないのか、剣を持ち上げた手がぷるぷる震え、少しずつ下がっていく。
『た、頼りないかも知れないけれど。どうか、君を、守らせて――』
『ばかっ!』
思ってもいなかった言葉に、若い騎士が驚いた。力が抜けたのか、剣を下ろしてしまう。
『どうして! 危険なのに。いっしょにいたって、無駄なのに』
『いや、その』
『ばかっ、ばかっ。マー君のばかっ!』
泣きながら、女性が若い騎士の頭をぽこぽこ叩く。
その瞬間、女性の髪がふわりと揺れて、神殿内は眩いばかりの光で満たされた。
ともすれば微笑ましい場面は、次の瞬間、終わりを告げた。
薄暗く小さな部屋。まるで地下室のよう。
先ほどよりやや精悍な顔つきになった若い騎士が、震えていた。
恐怖に震え、立ち尽くしていた。
若い騎士を慰めるように、女性が優しく抱きしめる。
『ありがとう、マー君。ここまで来てくれて』
『オフィ、リア。僕は、僕は……』
ふたりの前には、禍々しい鉄製の門があった。
その中から、黒い霧のようなものが噴き出して、ふたりを包み込もうとしている。
『貴方に、お願いがあるの』
微笑みを浮かべながら、女性は言った。
『貴方も旅の途中で見たでしょう? わたくしたち王家の決断が遅れたから、地上はとてもひどいことになってしまった。だから、わたくしの代わりに、みんなを助けて欲しいの』
『僕は……。君を……』
『さようなら、マルテウス。わたくしの勇者さま』
女性は手にしていた色ガラスの小瓶の中身を飲み干すと、門の中に入っていく。
ひとり残された青年は、恐怖に震えながら、絶望の中で立ち尽くしていた。




