(1)
黒い霧が漂う大地には、草木どころか苔すら生えておらず、代わりに赤黒い水晶のような鉱物が、まるで棘のように突き出ていた。
上空には濃い紫色の雲が棚引いており、その間を絶え間なく稲光が走っている。その光で周囲の様子がようやく見えている状況だ。
暗く、寒々しい。
正面には、赤黒い水晶に覆われた山がそびえていた。
「まるで、お城みたい」
トゥエニの吐く息が、白い。
確かに、水晶の重なりが城壁や見張り塔のようにも見える。風の音だろうか、低い唸り声のような音が、断続的に聞こえてくる。
思わず、ルォは身体を震わせた。
村にいた頃の自分であれば、逃げ出していたかもしれない。だが、担当職員であるノックスの、容赦のない面談に比べたら遥かにましだと思った。
「ルォ、怖い?」
繋いでいる手に力が入ってしまったのか、トゥエニが心配そうに聞いてきた。
父親はなんと言っていたか。女の子の前で弱気なところを見せてはいけない、だったか。
「うん。少し」
「わたしも」
だが、怖いものは怖い。大切なのは、大切なひとがいる時に、その場から逃げ出さないことだと、ルォは思った。
「あっち、いってみる?」
「うん」
トゥエニと身を寄せ合いながら、赤黒い水晶の山へと近づいていく。
突然、地面にひびが入った。それはちょうどルォとトゥエニの間の位置だった。ふたりを切り裂くように亀裂が走り、広がる。ルォがつま先で軽く地面を叩くと、何ごともなかったように亀裂は消えた。
今度は、地面を漂う黒い霧が渦巻いた。霧がまるで獣の顎のような形になって、襲いかかってくる。細かな霧にルォの力は効かない。トゥエニがルォを庇うように両手を広げた。トゥエニ自身から強い光が放たれ、ふたりを球状に包み込む。光に触れるや否や、黒い霧は消え失せた。
さらに進むと、魔獣らしきものが現れた。
「虫だ」
透明な羽をはばたかせながら飛んでくる。地面に着地すると、四本の後ろ足で立ち上がった。残りの二本の前足には鉤爪のような指がある。
大きさは、人三倍くらい。
体は赤黒く、半透明で、雷光を反射してキラキラと輝いていた。
「蜂?」
「蟻じゃないかしら。お腹が細いし、触覚が曲がっているもの」
やはりトゥエニは物知りだ。
だが、直感的にルォは悟った。
これは、生きものじゃない。
材質は、鉱物。もとは石神さまと同じような存在で、それに魔の力が合わさり、へんになっている。
確か、ふたつの力が混ざったものは、こう呼ぶはず。
“掛け合わせ”と。
今まで見てきたどの魔獣よりも強い力を感じた。持ち帰ってソルシエに見せたら喜ぶかもしれないが、相手はこちらに敵意を抱いているようだ。
本当は、優しいはずなのに。
「お家に、お帰り」
かつて村を出る時に石神さまにそうしたように、ルォは蟻のような鉱物を土に還した。
山に近づくにつれて、蟻のような鉱物がぞろぞろと集まってきた。羽の生えたものは少なくなり、代わりに前足が剣や鎌のような形をしたものが増えてきた。
それらすべてを、ルォは土に還していく。
ほどなく、ふたりは赤黒い水晶の山の麓にたどり着いた。
一本一本の水晶の柱は、アルシェの街の昇降塔よりも大きい。高いところが好きなルォは、山の頂上に登ってみたくなったが、今はそれどころではないと気を引きしめた。
山の麓に、ぽっかりと穴が開いている。唸るような風の音は、穴の奥から聞こえてくるようだ。出入り口を守るかのように、蟻のような鉱物たちが立ち塞がっていた。
ただでさえ不気味で薄暗いのに、あの穴の中に入るのは躊躇われた。蟻のような鉱物たちも、警戒したように近づいてこない。
互いに睨み合いのような状態が続いたが、突然、唸り声が大きくなった。
「くるっ!」
とっさに、ルォはトゥエニを抱きしめていた。
次の瞬間、穴の中から黒色の炎の塊が吐き出された。蟻のような鉱物たちが吹き飛ばされる。黒色の炎は一度上空に舞い上がると、真上から襲いかかってきた。
「ティエ!」
「ルォ!」
周囲の景色が、かき消えた。
何も見えず、何も聞こえない。
感覚もおかしい。
無音の闇の中、ただひとり浮いているような感じ。どちらが上でどちらが下なのかすら分からない。
自分はトゥエニを抱きしめているのか、それとも離してしまったのか。
“ティエ!”
叫ぼうとしたが、声も出ない。
まるで悪夢の中にいるかのよう。
すぐ近くに、強大な存在を感じた。
意識を集中させ、目をよく凝らしてみる。
闇の中に、ふたつの紅色の光が浮かび上がった。
それは、何者かの目のように見えた。
不思議な感覚だった。
相手の気持ちが、分かる。
言葉を成さない気持ちが。
自分の中にある力のひとつ。おそらく魔の力が、闇の中の存在と繋がっているようだ。
“ティエが、欲しいの?”
闇の中にいる誰かは、狂おしいほどに、トゥエニを――彼女の中にあるものを求めていた。
“だめだよ”
そればかりは聞けない。
“ティエは、僕のだから”
そして自分は、トゥエニのもの。
家族の結びつきは、他の誰にも変えることはできない。
暗闇の中の者は、ルォを諦めさせようとした。
――お前は、ひとりきりだ。
“違う”
自分の中にある力のひとつ。聖なる力で、自分たちは繋がっている。
たとえ見えなくても、聞こえなくても、感じなくても。
トゥエニは傍にいる。
――お前は、もう死んでいる。
“違う”
自分の中にある力のひとつ。物心ついた時から備わっていた精霊の力が、大地の位置を教えてくれる。
自分は今、地面の上に立っている。
死んでなどいない。
突然、相手の感情が膨れ上がった。
怒り、苛立ち、憎悪、渇望、不安、孤独、悲しみ。あらゆる負の感情の中、ほんのかすかな前向きな感情を、ルォは感じとった。
それは、憧れ。
何かを望み、求める感情だった。
“何かして欲しい?”
消え入りそうな相手の意識に向かって、ルォは問いかけた。
“君は、何がしたい?”
その答えを否定するかのように、負の感情が暴れ出した。
低い唸り声が聞こえてくる。
力の圧力を感じた。
それは、圧倒的な魔の力だった。
耐える以外に何もできない。このまま力を使い果たし疲れきってしまえば、自分は何もできずに押し潰されてしまうだろう。
ルォはトゥエニに向かって語りかけた。
“ティエ、お願い。僕を守って”
自分が勇者であるとは、ルォは思っていない。
自分たちはふたりで生きていく。
同じ目的をもって。
助け合いながら。
ルォの願いに応えるかのように、聖なる力が膨れ上がり、魔力の圧力が弱まった。
その分、トゥエニに負担がかかっていることを、ルォは理解していた。
だが、準備には時間がかかる。
自分の力は、邪神の足元にも及ばない。
単純な力比べでは負けてしまうだろう。
邪神を倒すためには――
早く。早く。
絶望的なほどに長く感じられた時間を、トゥエニは支えてくれた。
“もう、終わり”
感謝の気持ちで胸をいっぱいにしながら、ルォは暗闇の中にいる者に向かって語りかけた。
“ほら、目を開けて。上を見て”
次の瞬間、暗闇が消えた。
「ル、ルォ!」
すぐそばで、トゥエニが名を呼んだ。やはり互いの感覚がないことが不安だったのだろう。今にも泣き出しそうな顔だ。
ふたりの正面に、赤黒い水晶の山はなかった。
山が消え、半球状の巨大な窪地になっている。窪地の断面には、まるで蟻の巣を切りとったかのような、通路と小部屋が見えた。
窪みの至るところから、虹色の光の球が浮かび上がり、空へと昇っていく。
「ソルシエお姉ちゃんが、教えてくれた」
邪神を倒すためには、空のさらに上にある輝かない星が、落ちてくるのを待つしかないと。
待つことはできないが、作ることはできる。
その星の名は――
「“隕石”」
ルォは見た。
窪地の中心部分。細い棒のようなもので腹部を貫かれ、全身を炎で包まれた人のような生き物が、まるで待ち兼ねたかのように、両手を大きく広げているのを。
ルォはトゥエニを抱きしめると、周囲を硬い殻で覆った。そのまま地面の中に沈み込んでいく。
空から現れたのは、光り輝く水晶の巨魁。
雲が吹き飛び。
地上もまた、吹き飛んだ。




