(9)
シャラララ。
風も吹いていないのに、時おり透明な木の葉が揺れ、硬質な音が響く。
静かな泉のほとり。
銀色の大樹の下。
そこで、トゥエニは大切な人を待っていた。
頭の中で何度も何度も、トゥエニはどう話すべきかを考えていた。
ルォを心配させないように。
傷つけないように。
決して、辛い顔を見せないように。
そんなことを考えているうちに、周囲の変化に気づいた。空が黄昏色に染まり、泉の水面が紫色と桃色の間でたゆたっている。
大樹の影は、少し薄暗い。
「あれ?」
すぐ近くからルォの声が聞こえて、トゥエニは緊張した。祈るように両手を組み、目を閉じて必死に心を落ちつかせる。
「あ、みーつけた」
トゥエニがいるのは、“箱庭”の入り口である大樹のうろの反対側。幹の陰からルォがひょいと顔を覗かせて、満面の笑みを浮かべた。
「は、はい」
頭の中が真っ白になり、トゥエニはただ返事をした。
「オフィリアお姉ちゃんが言ってた。ペッポコが、話があるって」
軽い足取りで、一歩一歩、近づいてくる。
その姿を見て。
ふいに、トゥエニは気づいた。
多くの物語の中で表現される心理描写。あまりにも実感が湧かず、共感もできず、そういうものなのだろうと頭で理解するしかなかった。
不安で、心に落ち着きがなく、息苦しい。
この感じが、たぶん。
「どうしたの?」
シャラララ。
まるでトゥエニの心を後押しするかのように、銀色の大樹が木の葉を鳴らす。
「ルォ。お話が、あります」
「うん」
ふたりきりで話せる、最後の時間。
笑顔を作りつつ、トゥエニは淡々と話を始めた。
これから自分は、ひとりで邪神に会いにいくこと。邪神に食べられて死ぬこと。そうすれば、邪神は眠りについて、多くの人たちが助かること。もちろん“星守”の人たちも。
うまく話せているはず。
ルォは、分かってくれるはず。
自分は一度死んでしまうが、女神さまのお導きで、百年後くらいには生まれ変わることができること。“箱庭”にいる六人の星姫のように。
だから、なにも心配はいらないこと。
「ただ、ルォにはもう――」
背筋が凍りつくような感覚を、トゥエニは受けた。
笑顔が強張り、呼吸が止まる。
言葉が、出てこない。
不自然な沈黙が漂う中、ルォが聞いてきた。
「邪神のところに、食べられにいくの?」
「そう、です」
かろうじて、トゥエニは答えることができた。
笑顔を取り繕い、説明を補足する。
「でも、痛くもないし怖くもないの。オフィリアさまから、そういうお薬をもらったから。ほら、これ」
ポケットに入れていた“落涙”を見せる。
「色ガラスの瓶で、とてもきれい。食べられる前に、これを飲むの。甘いか苦いかは分からないけれど、きっと、すぐに分かるわ」
自分は何をしているのだろう。
何を言っているのだろう。
まるで、心と身体がばらばらになったみたいだった。
「それが、ペッポコの決めたこと?」
「うん」
「じゃあ、いっしょにいこっ」
そのひと言は、トゥエニの心の奥底に突き刺さった。
心が、震える。
笑顔が、保てない。
もう決まったことなのに。覚悟を決めてこの場にいるはずなのに。なぜこんなにも脆く、簡単に。
トゥエニは気づいた。
望むことすら許されない、自分の望みに。
「だめっ」
後ろめたい子供がそうするように、トゥエニは顔を背けた。
「ルォは生まれ変わることができないの。死んだら、それでおしまい。わたしといっしょに来ても、意味なんかない」
「ある」
ルォは断言した。
「あるよ」
どうしてそう言い切れるのか。
「父さんが、言ってた」
いつか聞いた言葉。あれは、アルシェの街から出発する直前。自分の要求に、星守の代表だったテレジアが応じ、“試練の旅”の同行者からルォを外そうとした時のこと。
泣いてる女の子は、ひとりにしてはいけない。いやだと言われても、そばにいなくてはならない。
トゥエニはきっとルォを睨んだ。
「泣いて、ない」
どうして、分かるのか。
「泣いてなんか、ない!」
どうして。
心がこんなにも苦しいのか。
突然の強い反発に驚いたのか、ルォが落ち着かなげに、おろおろし出した。
しかし、ふっと感じが変わる。
ごく自然な動作で、ルォは頬に手を触れてきた。
「心配はいらないよ。君のことは、オレがぜったいに守るから」
トゥエニは反応しなかった。
これは、ルォじゃない。
「……やめて」
お礼を言うつもりだった。いっぱい助けてくれて、ありがとう。あなたに会えて、よかった。ずっとずっと、元気でいてください。心のすべてを込めた感謝の言葉を、ルォに伝えるつもりだった。
「無理なの」
それなのに、勝手に口から紡ぎ出される言葉は、かつての星姫から聞いた冷たい事実ばかり。
曰く、人の身で邪神に抗うことはできない。曰く、あの勇者マルテウスでさえ断念した。曰く、邪神のいる場所は、こことは比べものにならないほどに魔気が濃い。曰く、ルォがいたところで――
「意味が、ないの!」
気がつけば、周囲はぞっとするほど静かだった。木の葉の音も聞こえない。黄昏の輝きすら失われてしまったかのよう。
目の前のルォの顔が、まるで置き去りにされた子供のように歪んでいた。
「あ……」
嫌われた。
そう思った瞬間、身体中の力が、すとんと抜け落ちた。
分かっていた。
意味がないのは、自分のほう。
百年後に生まれ変わったところで、ルォがいない。
ルォがいなければ、なんの意味もない。
「ごめんなさい」
本当は、最後の瞬間まで。
「でも、しかたがないの」
ずっといっしょに。
「だからここで。お別れ――」
◇
みんなを助けるために旅をしているペッポコを、ルォは全力で応援するつもりだった。
かつて、自分が壊れかけていた時。新たな目標を見つけるまで、そして見つけてからも、たくさんの人に助けられてきた。しかし、村を出る直前までそのことに気づかなかった自分は、お返しをすることができなかった。
だから、ルォは決めたのだ。
自分の他に、目標を決めて頑張っている人がいたなら、全力で助けようと。
“試練の旅”の旅は、楽しかった。ずっとペッポコといっしょだったし、魔獣との戦いには参加せずペッポコを守るようにという、星守の老人たちからの命令も気に入っていた。
だが、目的地である“果ての祭壇”にたどり着いた後は、少し様子が変わった。
どうやらペッポコは、目標を達成した後は、無事ではいられないらしい。
そしてペッポコは、そのことを知っていた。
関係ないと、ルォは思った。
かつての自分がそうだったように、命を懸けてでもやり遂げなくてはならないことは、確かにある。
だから、自分のやることに変わりはない。
しかし、“大穴”の底を歩く旅の間に、ルォは疑念を持つようになった。
本当にこのままでいいのだろうかと。
それは、マァサの教育によるところが大きかった。
『ルォさん。他人から言われたからといって、考えなしに従ってはいけません。ちょっとおかしいと思ったら、一度立ち止まって考えてみるのです。ルォさんがやりたいことも、また大切なのですから』
考えるたびに、このままではまずいような気がする。
そのことに確信を持ったのは、“箱庭”と呼ばれる場所に着いた時だった。
魔気にやられて気を失ってしまった自分を、ペッポコがおんぶして運んでくれたのだ。疲れきっているはずなのに、その後も泣きながら、ずっと自分から離れようとしなかった。
ペッポコは、守られるだけの子じゃない。
ごく自然と、自分のやりたいことは見つかった。
仲良く、いっしょにいられたらいい。記憶の中にある、父親と母親のように。
ルォは考えた。
ペッポコの決めたことと、自分のやりたいこと。その両方を叶えることはできないだろうかと。
すべての原因は邪神にあるらしい。その邪神を、倒せばいいのではないか。
“箱庭”のリビングで女性たちに聞いてみたところ、ソルシエにそれは不可能だと言われてしまった。空の上に漂う巨大な岩石の塊――輝かない星が落ちてこない限り、邪神を倒すことはできないと。
だとするならば、ペッポコといっしょに邪神に会いにいくしかない。
人は誰だって死ぬ。だから死ぬその時まで、仲良く、いっしょにいればいい。
それなのに。
銀色の大樹の下で、ペッポコはひとりで邪神に会いにいくと言った。あの時と同じだと、ルォは思った。ペッポコは泣いている。涙を流さずに泣いている。
言いたいのに言えないことは、いっぱいある。
でも、心配はいらないから。
父親の台詞を借りて、泣いている女の子のそばにいなくてはならないことを告げたが、ペッポコは予想外の反発を見せた。
ルォは焦った。
こうなったらあれしかない。
記憶の中にある父親の真似。
生前の父親は、母親に怒られると落ち込んで、ご機嫌を取るために奇妙な仕草と台詞で、母親に迫っていた。ルォが見ているからやめてと母親が言っても、父親は許してくれるまでやめないと突っぱねていた。
だが、これもだめだった。
なぜだろう。これまではうまくいっていたはずなのに。
自分がいっしょにいても意味がないのだと、ペッポコは言う。
そうじゃないと、ルォは思った。
父親が大峡谷で死んだ後、母親もまた弱って死んでしまった。自分も壊れかけた。家族が、ばらばらになってしまった。
いっしょにいなくては、離れ離れになってしまっては、だめなのだ。
それなのに。言葉が喉につっかえてしまったように、何も出てこない。
ただ、これだけは分かった。
このまま黙っていたら、自分の望みが消えてなくなってしまうことを。
「ごめんなさい。でも、しかたがないの」
怖くても、とにかく飛び出すのだ。
岩王鷲を倒した、あの時のように。
「だからここで。お別れ――」
「ペッポコ!」
傷つき、震えている少女の両肩に手を置く。
飛び出してみて、今の自分には何の武器もないことに、ルォは気づいた。
何かを言わなくてはならない。
何かを。
「あ――くっ」
頭の中が、焼き切れそうだった。
「ルォ?」
父親の言葉ではだめだ。
自分の言葉でなければ。
どうしたら、分かってもらえる?
どうすれば、いっしょにいられる?
「ううっ」
「ルォ、だいじょうぶ?」
限界ぎりぎりの思考の中で、ふいに。
たったひとつの答えが、舞い降りた。
それはとても単純なことだった。
家族になればいい。
家族は、離れ離れになってはいけないのだから。
「ペッポコ」
大きく息をつく。
それから、まるで素晴らしい宝物でも見つけたような顔で、ルォは言った。
「結婚しよ?」




