(8)
「ただいま戻りました」
オフィリアがリビングに戻ると、そこは沈鬱な空気に包まれていた。皆が沈黙する中、テーブルの上のフニャピッピだけが、がつがつと食事をしている。
「ご苦労さま。いったかね?」
「はい、ソルシエお姉さま」
誰もいないところで、ふたりだけで話をしたい。トゥエニの望みを、オフィリアは叶えることにした。
リビングにいたルォをトゥエニが待つ場所に案内して、いま戻ってきたところである。
「ああ、小さなトゥエニ。なんて子なのかしら」
ベンジャスは悲嘆に暮れていた。細かな刺繍が施されたハンカチで、しきりに涙を拭っている。
「子供らしく泣き喚いたって構いませんのに。そうすれば、わたくしたちが受け止めてあげられますのに」
「あ、あたしの時、そんなに泣いてないから」
遠い過去の自分を思い出したのか、幼い姿のミルディが、むくれた。
「恥ずかしがることではないよ、ミル」
男装のアロマが、その頬を指先で優しく撫でる。
「時には感情のおもむくままに振る舞った方がよい場合だってある。自分にとっても、周りの人にとってもね」
「アロマ姉さま」
「心配なのは、トゥエニだけではありません」
ふわりとした巻き髪のセトが、注意を喚起した。
「ルォさんのことも」
その名前に、オフィリアがびくりと反応した。
「とても素直で、少し幼いお子でした。先ほどのお話でも、傷ついていたようですし」
「あの、セトお姉さま」
オフィリアが聞いた。
「先ほどのお話というと?」
「貴方がトゥエニと話している間、わたくしたちもルォさんとお話をしたのです。知らなかったとはいえ、彼の生い立ちなども聞いてしまって」
「ああ、なんて可哀想な子なのでしょう!」
ベンジャスのハンカチは限界だった。
「幼いうちにご両親を亡くし、故郷まで追い出されて。その上、首輪まで嵌めさせられて。わたくしの時代には、そのような酷い制度はなかった。そもそも魔法使いとは、神の試練を克服した――」
「ルォさんが、聞いてきたのです」
構わず、セトが説明した。
「邪神の倒し方を」
「え?」
邪神を倒せば、トゥエニを助けることができるはず。幼く蒙昧な考えを、ソルシエが打ち砕いた。
「どのように?」
オフィリアの問いに、ソルシエは肩をすくめた。
「無理だと、はっきり言ったさ。君の力では、邪神の前に立つことすらできないと。この辺りの弱い魔気にすら耐えられなかったのだからね」
耐えられなかったのには、理由がある。
「人の力で神を滅ぼすなど、傲慢な世迷い言に過ぎない。我々ができることは、せいぜい遥か天空をめぐる巨岩の奇跡を願うことくらいだ。そう説明した。ルォ少年は納得してくれたと思うが。まあいざとなれば、彼を“転移の門”まで連れていくしかあるまい。問題は、その後だ」
顎先に指を当て、俯き加減で考える。ソルシエの表情は、難解な問題に挑む学者のそれであった。
「残酷な言い方だが、“落涙”さえ飲んでしまえば、トゥエニの方はなんとかなる。だが、ルォ少年はそうもいかない。彼が激情に任せて暴れ出したら、私たちに止めることはできないだろう。“箱庭”にも影響が出るかもしれない。なにせ彼は」
ソルシエは、夢中になって肉にかぶりついているフニャピッピを見た。
「角獅子さま曰く、マルテウス公子と同じ“掛け合わせ”なのだから」
ベンジャスがハンカチで鼻をかんだ。
「トゥエニの想い人であるならば、わたくしたちの弟も同然ですわ。全力で慰めて差し上げるのです!」
力強い意見を皮切りに、それぞれの得意分野における様々な提案が出された。
「美味しいお料理やお菓子を、たくさん作りましょう」
「はーい、あたしの書いたお話を、読み聞かせてあげる」
「彼は星守の騎士たちと一緒に働いていたのだろう? 剣術の稽古に興味があるのではないかな」
「待ちたまえ。怪我をしたらどうする。彼はとても希少価値の高い魔法使いなのだよ。まずは実験を済ませてから」
「あの、ソルシエお姉さま」
そんな中、ひとりオフィリアだけは浮かない顔をしていた。
「うん? どうしたね?」
「ひとつ、お伺いしたいことがあるのですが」
先ほどトゥエニとの話で湧きあがった疑問を確認する必要がある。オフィリアはそう考えた。
「三つの、力?」
「はい。以前、ソルシエお姉さまがおっしゃっていたはずです。そのことについて、知りたいのですが」
ソルシエは急に不機嫌そうな顔になった。
「あれは、まったく意味のない考察だった。マルテウス公子を説得する材料くらいにはなったが。もう終わった話だよ」
「お願いします。教えてください」
真剣な眼差しを受けて、ソルシエはひとつため息をつく。
お茶で口を湿らせてから、説明を始めた。
「三つの力とは、人が扱うことのできる超常的な力のことだ。これらの力を最大限に活用することができたならば、あるいは人の身で邪神に対抗できるかもしれない、と。昔の私は、考えた」
「精霊の力、魔の力、そして聖なる力ですわね」
二番目の星姫であるベンジャスは、初代であるソルシエとのつき合いがもっとも長く、話し相手になることも多い。
「そうだ。それらを扱う者のことを、精霊人、魔法使い、聖職者という。三つの力の中で、精霊の力がもっとも弱く、聖なる力がもっとも強い」
ただ、扱いやすさは逆だという。
「精霊は気まぐれな存在だからね。ちょっとしたことで、すぐに宿主から離れていってしまう。その点、子供の頃から教育して信仰心を育てる必要はあるものの、聖なる力――“祝福”は、確実に効力を発揮する」
身も蓋もない言い方であった。
「ちなみに魔の力は、魔獣の卵を摂取することで取得することができるが、猛毒だ。その致死率は九割以上。ただ、魔法使いの数をそろえるだけならば、国が主導することで解決する。アロマの国がそうだったね?」
「極端な軍事国家でしたからね」
嫌なことでも思い出したかのように、アロマは顔をしかめた。
「挙句の果てに、魔法使いたちに反乱を起こされて、あえなく滅んでしまった。これはミルから聞いたことだけど」
「はい、アロマ姉さま」
その次の時代の王女であるミルディが、自国に伝わる歴史を語った。
「その後、魔法使いたちは国を作らず、国土は荒廃したの。強いものが弱いものを支配する、いわゆる“獣の時代”。その戦乱を平定して新たに国を興したのが、あたしのご先祖さま」
魔法使いの地位が失墜し、危険視され、国に管理されるようになったのも、この時代からだという。
「結局は、オフィリアの国に滅ぼされちゃったけど」
「ご、ごめんなさい! ミルディお姉さま」
脱線しかかった話を、ソルシエが引き戻した。
「三つの力は人と親和するものの、性質が異なる。ゆえに、それぞれを掛け合わせることで、人智を超えた莫大な力を行使することができるかもしれない。そう考えたのは、私だけではないよ」
現に魔法使いを量産していたアロマの国では、聖職者による魔法使い強化実験が、たびたび行われたのだという。
だが、成功はしなかった。
「動機が不純だからさ」
ばっさりと、ソルシエが切り捨てた。
「長い人の歴史の中で、唯一、それを成し遂げることができたのは。オフィリア、君の騎士であるマルテウス公子だけだ。ただ残念ながら、その彼でも、邪神に立ち向かうことはできなかったがね」
ソルシエは首を振った。
「ふたつでは足りない。三つとも掛け合わせる必要があるのだ。はっ、現実的には無理な話さ」
「理論的には、可能なのですわよね?」
気品と優雅さを取り戻したベンジャスが、お茶に口をつける。
「そりゃあ、机上の空論は優秀だからね。さまざまな条件はあるけれど、一番重要なのは、順番だ。後から掛け合わせる力は、前のものよりも強くなくてはならない。でなければ、弾かれて終わる。つまり、“祝福”を受けた魔法使いは、すでに可能性を失っているのさ」
オフィリアは身震いした。
ゆっくりと、噛み砕くように確認する。
「では。“祝福”を受ける前に、精霊人が、魔の力を得なければならないと?」
「最初の関門だね。ただし、精霊は魔の力を極端に嫌う。臆病な彼らは、すぐに宿主から逃げ出すだろう。掛け合わさるはずがない。話は、ここでおしまいさ」
「ルォさんは」
ぽつりと、オフィリアは言った。
「“祝福”を、受けていません」
言葉の意味が浸透するまでに、時間がかかった。
ソルシエは「ははっ」と乾いた笑い声を上げた。
「それは、なにかの冗談かい?」
「トゥエニから聞きました。あの子はルォさんから、真名で呼ばれたことがないそうです」
その意味を知らぬ者は、この場にはいなかった。
「では」
自分を納得させるように、ソルシエは頷いた。
「ルォ少年は“掛け合わせ”ではないということだな。優秀な、ただの魔法使いなのだろう。おそらく角獅子さまの勘違いで」
「“三番”」
テーブルの上で肉をがっついていたフニャピッピが顔を上げた。近くに座っているセトにナプキンで口を吹かせてから、ごろりと仰向けになる。
「にゃでにゃで」
「は、はい」
ぽこりと膨らんだ腹を撫でさせながら、フニャピッピは偉そうに言った。
「前にも言ったのにゃ。ルォのちかりゃは、マルテウスに匹敵するにゃと」
「し、しかし」
「“果ての祭壇”も、その上にある神殿も、あてちの体を食ったぶにょぶにょも。全部まとめて、たった一撃で、ルォが吹き飛ばしたにゃ」
「え?」
「そもそも、ただの魔法使いが“大穴”の底を歩いて、ここまで来れるはずにゃいのにゃ」
たたみかけられて、ソルシエは言葉を失った。
だが、彼女の心は挫けてはいなかった。お茶を飲み、自分に言い聞かせるように話を続ける。
「整理しよう。ルォ少年の力が強大だとしても、“掛け合わせ”だという証拠はない。そもそもだ。弱い力しか持たない精霊人は、判別することが非常に困難であり」
「そういえば、大地の精霊たちが騒いでおりましたわよね?」
ベンジャスが指摘した。
初めて出会った時。魔気に侵され意識を失っていたルォを、大地の精霊たちが取り囲み騒いでいた。それだけではない。彼らは積極的に毒抜きを行い、元気になったルォを見て大喜びしていた。
「あたし、あんなの初めて見た」
ミルディの感想に、アロマが同意した。
「大地の精霊は、生きとし生けるものの母だからね。純真な子供には、特に弱い。他の精霊たちと違って、土地がらにも縛られないし」
ソルシエは次の条件に移った。
「せ、精霊の力に、魔の力を掛け合わせるためには、少なくとも、親魔獣が同じ属性のものでなくてはならない」
「角獅子さま」
「なんにゃ?」
片手で手のひら枕、片手でフニャピッピの腹を撫でながら、セトが聞いた。
「ルォさんの親魔獣は」
「岩王鷲にゃ。鳥のくせに岩石を操る厄介にゃやつ」
「同じ属性、ですね」
「まだだ。まだだよ」
テーブルに置いた腕が、震えている。せっかく作った芸術的な難問を解かれそうになっている教師のような顔で、ソルシエは言った。
「仮にルォ少年が、そうだとしても。いや、だからこそ。“祝福”を受けることはできない」




