(7)
魔法使いとしての実力はもちろん素晴らしいが、それよりも。
頑張り屋で、優しい。
たったひとりで遠方の古城までやってきて、大変な仕事をてきぱきとこなしてしまう。巣から落ちた小鳥の雛を助けてくれた。仮面を被った自分とも話をしてくれたし、別れの際には、塔の天辺から素敵な景色を見せてくれた。
「それだけじゃありません」
“試練の旅”に出て怖い思いをしていた自分の前に颯爽と現れ、手を差し伸べてくれた。
「ルォはいつも――」
ペッポコは、なにをしたい?
いつも流されるばかりだった自分に、選択肢を与えてくれる。
勇気を、与えてくれる。
「とっても、すてきな方ね」
相槌を打たれるままに、しゃべりすぎてしまったかもしれない。真っ赤になって俯くトゥエニを、オフィリアは慈しむように見つめた。
「あの人は。マルテウスは、臆病なひとだったわ」
トゥエニは瞬きをした。
「まさか勇者と呼ばれて、国中の人たちに知られてるなんて、嘘みたい。勇者物語、だったかしら? その物語の中のマルテウスは、どんな方でしたか?」
実物を知るはずの人から問いかけられ、トゥエニは戸惑った。
物語の中のマルテウスは、強く、勇気があり、正義感あふれる無欲の戦士である。おもに辺境を巡り、魔獣たちに苦しめられている町や村を救った。彼は一度も負けなかった。魔獣を倒した後は、謝礼金も受け取らず、次なる町や村を目指して旅立っていく。
「ただ、最終話だけは違います。王さまによって王宮内に閉じ込められたオフィリア姫を、勇者マルテウスが助け出して、ふたりは――」
幸せに暮らしたという言葉を、かろうじてトゥエニは飲み込んだ。現実は違うことに気づいたからだ。
「たぶんそれは、順序が逆ね」
「逆、ですか」
「そう。当時“星詠”が予言した“紅き大波”の時期が訪れたというのに、お父さまはそのことを信じず、わたくしを部屋の中に閉じ込めてしまった。それで、幼なじみだったあの人を呼んで、お願いしたの。わたくしの心はすでに決まっております。さあ、勇気をお出しになって。わたくしをここから連れ出してください。でなければ、国が滅んでしまいますよって」
トゥエニはアッカレ城でルォに教えた勇者物語の一節を思い起こしていた。
『我が心は定まれり。勇気もて、その手を伸ばせ、我が君よ。さすれば奇跡が舞い降りん』
まさかあの台詞が、オフィリア姫がマルテウスに言ったものだったとは思いもよらなかった。
「あの人は、逃げたわ」
予想外の展開に、トゥエニは驚いた。
「でも。ひと月ほど経ってから、また戻ってきたの。なぜか魔法使いになって」
再び、トゥエニは驚いた。
「実家の伝手を利用して、魔獣の卵を買ったみたい。わたくしは詳しくないのだけれど、闇市というお店があるらしいわ」
その頃にはすでに“紅き大波”の脅威が現実のものとなっており、国王の心情も変化していた。
「あの人はお父さまを説得して、“試練の旅”の一員に加わりました。ろくに剣も使えず身体の弱い人だったから、魔法の力が必要だったのでしょう。わたくしは怒りました。それはもうプンスカと」
魔獣の卵は猛毒。致死率は九割以上といわれている。オフィリアのそばにいるために、マルテウスは文字通り命を賭けたのだ。
“試練の旅”は過酷だった。“星守”の騎士たちは次々と倒れていった。炎の魔法を使えるようになったマルテウスだったが、最初はそれほど強くはなかったという。等級でいうならば、二級か三級くらい。だが、旅を続けていくうちに強くなっていき、最後は魔獣の群れをひとりで蹴散らすほどになった。
「皆が倒れ、ふたりきりになったわたくしたちは、ついに“果ての祭壇”へとたどり着きました」
角獅子から、星姫の犠牲によって人々が救われるという事実を聞いたマルテウスは、嘆き悲しみ、逆上したという。
「昔からそう。普段は臆病なのに、いざとなったらとんでもないことばかりして」
マルテウスは角獅子を脅し、“箱庭”まで案内させた。
「あの時は大騒ぎになったわ。邪神を倒すと息巻いていたあの人を、お姉さまたちが何日もかけて必死に説得して」
だが最終的には、マルテウスはオフィリアの意志と悲しい運命を受け入れたのだという。
「わたくしがお役目を果たした後に、角獅子さまがあの人を地上へ送り届けたと聞いています。それからあの人は、“紅き大波”の後始末をするために、辺境を旅して回ったのでしょう。わたくしの、願い通りに」
毎回のように魔獣に襲われている町や村をマルテウスが救うという話は、物語の都合などではなく、事実だったようだ。ただマルテウスは魔法使いではなく、炎の精霊を宿した剣を使う設定になっていた。おそらく魔法使いに対する偏見のせいだろう。
「あの人は、勇者ではなかった。少なくとも本人はそう言っていたわ」
マルテウスは、勇者になるための条件を“三つの力”としていたが、具体的な内容は伝わっていない。そのことをトゥエニが聞くと、オフィリアは首を傾げた。
「さあ。そんな話を聞いたことはあるけれど。ソルシエお姉さまがおっしゃっていたかしら?」
初代星姫であるソルシエは、生前から才女と謳われていた王女だったという。神学、哲学、数学、天文学、そして魔獣学。さまざまな学問を習得しただけでなく、“箱庭”で実験や研究を積み重ねている。
彼女の目的は、星姫を救うこと。
「星姫を、救う?」
「最初はあの人と同じように、魔法を使って邪神を倒せないかとお考えになられたみたい。でも、一千年以上にも及ぶ考察の結果、人の身で神を倒すのは不可能だと結論づけられたわ」
神を倒すためには、人智の及ばないところにある“奇跡”が必要なのだという。
「それは、どのような?」
オフィリアは天井を指差した。
「お空の上には、たくさんの星が輝いているでしょう」
「はい」
「でも、ソルシエお姉さまがおっしゃるには、そこにあるのは、輝く星ばかりではないそうよ」
中には輝かない石ころのような星もあり、それが時おり地上に向かって落ちてくるのだという。
「その星のことを、なんと言ったかしら? 数千年、数万年。いえ、それ以上に長い年月の中で、たったひとつだけ。ちょうどいい大きさの星がうまく“大穴”の中に落ちてくれたなら。あるいは奇跡が起こるかもしれないって」
あまりにも壮大かつ漠然とした話に、トゥエニは戸惑ってしまう。
「ふふ。それまでに人の営みが終わる方が、ずっと早いのでしょうね。さ、夢物語はおしまい」
トゥエニの手を包み込むように、オフィリアは自分の手を置いた。
「邪神の力は、とても強い。人の力では抗えぬほどに。彼の地より遠く離れたこの場所でさえ、漂う魔気は膨大なもの。仮に邪神の前に出たならば、生身の身体ではひと呼吸ともたないでしょう。あの人でさえ、“転移の門”を前に、挫けてしまったのだから」
女神の力で守られているはずのトゥエニでさえ体調を崩した。ルォにいたっては倒れてしまった。そのことでトゥエニは覚悟を決めた。これ以上、自分のためにルォを危険な目にあわせることはできないと。
「“女神の血”が、貴方に訴えかけているはずです。その身を、邪神に捧げよと」
こくりと、トゥエニは頷いた。
「“女神の血”というのは、いわば眠り薬なのです。邪神をいっときだけ、眠らせることができる」
オフィリアの手が、震えていた。ひとつ息をつくと、彼女は決定的な言葉を告げた。
「そしてお薬は、直接相手の体の中に取り込まなければ、効果を発揮しません」
やっぱりと、トゥエニは思った。
自分は邪神に食べられて、死ぬのだ。
むろん恐怖はあったが、封印が解けてからずっと覚悟していたことでもあった。ただルォのことを考えると、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちになる。
「邪神は、“女神の血”に執着しています。決して見逃すことはありません。いえ、できないと言った方が正しいでしょう」
退路は完全に断たれたかに思えたが、オフィリアは力強く、励ますように言った。
「でもね、トゥエニさん。救いがないわけではないの」
それは、彼女たち六人の星姫の存在だった。
「たとえ地上界での器、身体を失ったとしても、貴方のすべてが消えてしまうわけではない。魂さえ無事であれば、貴方は――貴方だけは」
オフィリアは強調した。
「いずれ女神さまに導かれ、わたくしたちのような存在に生まれ変わることができるでしょう」
オフィリアはどこからともなくガラスの小瓶を取り出すと、トゥエニの手にしっかりと握らせた。
「“落涙”と呼ばれる神々の飲み物です。これを飲めば、貴方の魂は守られる。恐怖も消え、痛みすら感じなくなるでしょう。これを飲んでから――」
ことに臨みなさい。
小瓶を見つめたまま、トゥエニは聞いた。
「ルォには、また会えますか?」
息を呑む気配が伝わってくる。
「会え、ません」
その声は、苦しげであった。
「魂が救われたとしても、最初は赤子のような状態。自我が生まれ記憶を取り戻すまでには、百年以上はかかるでしょう。わたくしの時が、そうでしたから」
なかば予想した答えだった。勇者として活躍したマルテウスのことを、オフィリアは何も知らなかったのだから。
「そう、ですか」
ぽつりと、トゥエニは呟いた。
小瓶の表面を撫でてみる。きれいな色ガラスだ。中身は甘いのだろうか、それとも苦いのだろうか。
そんなことを考えていると、怪訝そうな声でオフィリアが名前を呼んだ。
「トゥエニさん?」
「あ、はい」
呆けている場合ではない。早く星姫としての義務を果たさなくてはならないと、トゥエニは思った。こうしている間にも、魔獣によって人々が苦しめられているはずなのだから。
だがその前に、やらなければならないことがある。
「このことを、ルォは?」
「まだお伝えしていません。のちほど、ベンジャスお姉さまから正式にお話があるでしょう」
「その前に、ルォとお話しができますか?」
「もちろん、かまいませんよ」
きちんと説明して、たくさんお礼を言おう。
感謝の気持ちを伝えよう。
もう自分にできることは、それくらいしかないのだから。
果たしてそうだろうかと、トゥエニは思った。
いや、あった。
ひとつだけ。
心に引っかかっていたこと。
“試練の旅”を終えた後もルォが無事で帰れるようにと、トゥエニはルォに“祝福”を授けようとしたのだが、成功した感覚がなかったのだ。
そのことを聞いてみることにした。
「え、そうなのですか?」
オフィリアは目を丸くして驚き、考えるそぶりを見せた。思い当たることがあったようだ。
「そういえば。ルォさんは貴方のことを、別のお名前で呼んでいらしたわね」
「はい」
一番最初に出会った時に、とっさに口に出してしまった偽名。相変わらずルォはペッポコと呼んでいる。
「真名で、呼ばれましたか?」
「真名?」
「星姫が“祝福”を授ける際には、相手から、真名で呼ばれなくてはなりません。叙任式のお作法で、自然と呼ばれる形になっているはずですが」
「あっ」
騎士の叙任式にルォは参加していない。トゥエニが見よう見まねで、適当に“祝福”を授けようとしたのだ。
分かってしまえば、簡単なことだった。
「ありがとうございます。オフィリアさま」
「いえ、たいしたことでは」
喜ぶトゥエニを、オフィリアは微笑みながら見つめていたが、内心は動揺していた。
「“祝福”を、授けていない?」




