(3)
「まだにゃ」
フードの中から、フニャピッピがつぶやく。
「うん」
ルォがごくりと唾を飲み込む。
「花粉蜥蜴は、臆病で、すばしっこいやつにゃ。一発で仕留めるのにゃ」
大人でも抱えきれないほど巨大な花が、もぞもぞと動いている。花弁の隙間から垂れ下がっているのは、長いしっぽ。その先端には、丸い玉のようなものがついている。
花の動きが止まると、しっぽが引っ込んで、代わりに花粉まみれの顔が出てきた。
きょろきょろと周囲を確認している。
しっぽを入れると、大きさは人三倍くらい。フニャピッピ曰く“大穴”の底で一番弱い魔獣とのことだが、ルォを軽く丸呑みにできるほどの大きさがある。
太い茎を伝って地面に降りた花粉蜥蜴が、再び周囲を確認したところで、フニャピッピが合図した。
「いまにゃ」
「“土の手”」
ルォがぱんと両手を合わせた。
同時に、花粉蜥蜴の後方の土が盛り上がり、人の手を形作った。無駄に精緻な土の手は、花粉蜥蜴のしっぽを挟み込んだ。驚いた花粉蜥蜴がじたばたともがく。しっぽが切り離された。
「確保にゃ!」
草陰から飛び出したフニャピッピが、果敢にもしっぽを押さえつける。しっぽの先についていた玉のようなものが膨張し、破裂した。大量の花粉が舞い上がり、フニャピッピを包み込む。
「ふぎゃー」
毒はないようだが、これはたまらない。
花粉の煙がおさまるのを待ってから、ルォは慎重に近づき、しっぽを捕まえた。
狩りは成功である。
地下の家ではトゥエニが待っていた。
「ただいまー」
「ひどい目にあったにゃ」
「おかえりなさい」
背中に隠していた花を、ルォがすっと差し出した。抱えきれないほど大きな一輪の花だ。
「仕事のとちゅうで見つけたんだ。もちろん君の笑顔には、とてもかなわないけれど」
毎回ルォは草花を持ち帰ってくる。食虫植物のような毒々しいものもあったが、今回はきれいな花だ。
「ありがとう、ルォ。とても嬉しいです」
「それと、これも」
肩にかけていた花粉蜥蜴のしっぽを差し出す。フードの中のフニャピッピが、興奮したように前足を上げた。
「お肉にゃ!」
「やりました」
初日こそ驚いたり怖がったりしていたが、子供たちは適応能力が高い。すぐに新しい環境に慣れてしまった。
この生活を一番満喫しているのは、おそらくフニャピッピだろう。
「料理にゃ。早く料理をするのにゃ」
聖獣とはいえ、食事は必要だという。これまでは倒した魔獣の肉を噛みちぎり、ただ飲み込むだけだったが、焼いたり煮込んだり、味付けされた料理を食べたフニャピッピは、新たなる味覚に目覚めてしまったらしい。
下拵えはルォの担当である。といっても、花粉蜥蜴のしっぽを石の包丁で適当な大きさに切り分けるだけ。
魔獣の体内には毒腺があるが、しっぽにだけは毒がない。そのことを、ルォは腑分け担当の老婆たちから聞いていた。
トゥエニがスープを作る。といっても、ルォが切ったしっぽ肉を煮込んで灰汁を掬い、調味料で味を調えるだけ。一応、王女として侍女がつく暮らしをしてきたトゥエニには、これが精一杯だ。
「碧苔をいっぱい入れるのにゃ」
そしてフニャピッピは、好き勝手な注文をつけるだけ。
食後は紫苔のお茶で一服する。
「にゃんともいえにゃい匂いだにゃぁ」
最初は苔など食べ物ではないと馬鹿にしていたフニャピッピだったが、完全に虜になってしまったようだ。
寝る前に、お風呂の準備をする。
ルォが井戸を風呂桶に変化させ、フニャピッピが水の中に火を吐き、一気にお湯を沸かすのだ。毎日お風呂に入ることができる贅沢に、トゥエニは驚きつつも大喜びした。
小さくなったフニャピッピだが、すべての力を失ったわけではない。口から火を吐けるし、飛べないまでも風を起こすことができる。
「では、乾かすのにゃ」
お風呂から出たルォとトゥエニの身体を、旋風が包み込む。髪や身体は乾くが、体温が奪われてしまうので、急いで服を着てベッドに入る。
いつからか、夜中に怖い夢を見てルォが泣き出すことはなくなっていた。ルォの隣で、トゥエニもぐっすりと眠れている。ひとりきりだったら、不安で眠ることなどできなかっただろう。
翌朝。すべてを土に還して、出発する。
毎日が驚きの連続だった。巨木を飲み込む竜もいれば、花畑の中でとぐろを巻いて眠っている宝石のような大蛇もいた。ぞっとするほど澄み切った湖に大波を起こす魚のような魔獣もいたし、岩山が動き出し、それが大亀の甲羅だったこともあった。
“大穴”の底に降りてから、ひと月ほど。
変化は少しずつ現れていた。
息が、苦しい。
体の中に魔気が溜まっているのだと、フニャピッピが教えてくれた。
「女神ちゃまの力があっても、完全には打ち消せにゃいのにゃ」
身体が、重い。
「ペッポコ、だいじょうぶ?」
しきりにルォが心配したが、トゥエニは歩みを止めなかった。
外からの圧力のようなものが強まるにつれて、内側からの声も大きくなっていく。
急げ、急げ。
その身を、捧げよ。
そして、ついに――
「着いたのにゃ」
目の前が一気に開けた。
「あそこが?」
「そう、“箱庭”にゃ」
不思議な光景だった。
視線の先にあるのは、美しい泉と大きな銀色の樹木。だがなぜか、天と地が逆さになっている。
「二重結界のせいにゃ」
フニャピッピ曰く、外側の結界は侵入者を迷わせるものらしい。そして内側の結界は、魔法を含めたあらゆる攻撃を跳ね返すのだという。
「ここは、女神ちゃまに守られた“箱庭”なのにゃ」
ルォと手を繋ぎ、恐る恐る歩を進める。
なにか空気の膜のようなものに触れた瞬間、いきなり夜になった。
いや、上空に太陽はある。まるで影の中に浮かんだ夕日のよう。そして地面には、虹色に光り輝く一本の道が走っていた。
「この道を進むのにゃ」
もし道を外れたら、どうなるのだろう。トゥエニはそんなことを考えたが、もちろん実行には移さなかった。
ルォとともに慎重に歩いていく。
急に、力が失われた。
トゥエニの手を握っている力が。
崩れ落ちるルォを反射的に支えたものの、ともに倒れ込んでしまう。
ルォは荒い息をついていた。
「おい、しっかりするにゃ!」
フードの中からフニャピッピが出てきて、前足でルォの頭をぽんぽん叩いた。
トゥエニは呆然となり、自覚のないままに震え出した。
さっきまで、元気だったのに。辛そうにしていた自分を、ずっと気にかけてくれていたのに。
本当にそうだろうかと、トゥエニは自問した。
自分があれほど辛かったのに、ルォだけ平気なはずがない。
ずっと我慢していたのだ。
自分を心配させないように、平気な顔をして。
「ルォ、ルォ!」
取り乱し、ぼろぼろと涙をこぼしているトゥエニよりも、フニャピッピの方が冷静だった。
「魔気に当てられたかにゃ? 女神ちゃまの“祝福”があれば、少しはましなはずにゃが」
トゥエニは聞いていなかった。
「フニャピッピ、どうしよう。ルォが!」
「落ち着くにゃ、ペッポコ」
フニャピッピは光の道の先を指し示した。
「内側の結界のにゃかには、魔気が届かにゃいはず。そこまでルォを運べば、きっと助かるのにゃ」
ここにいても悪化するだけ。
泣いている余裕も、迷っている時間もない。
トゥエニはルォのリュックを外し、身体の下に潜り込むと、渾身の力を込めて持ち上げた。
「ルォ。だいじょうぶだから。あと、少しだから。きっと、よくなるから」
自分自身に言い聞かせるかのように声をかけながら、トゥエニは一歩一歩、光の道を歩き続けた。




